忘れ得ぬことども

オペラ「無口な女」を見て

 昨夜(平成12年2月23日)は、東京オペラプロデュースの公演で、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「無口な女」を見てきました。
 このオペラ団体は地方ではあまり知られていませんが、今まで埋もれていたオペラを紹介してくれたり、メジャーナンバーでも新解釈演出などで見せてくれることが多く、注目すべき団体です。今回の「無口な女」も日本初演だそうです。
 静寂を愛する独身の老貴族のもとへ、しばらく音信不通だった甥が帰ってくるところから話が始まります。この甥が、イタリアでオペラ一座に加わり、その賑やかな仲間たちを引き連れてきたものだから、さあ大変……というわけ。甥に全財産を譲ろうとしていた老貴族は怒り心頭、甥を勘当し、独身主義に訣別して結婚することを決意します。
 が、結婚相手を探すように命じられた理髪師の策謀で、甥の妻が、老貴族の好みの「無口な女」に扮して、結婚の茶番劇を演じることになるのでした。
 牧師も公証人も、みんな一座のメンバーが扮した偽者で、この辺の、ひとり何役にも及ぶ早変わりの妙がこのオペラの見所と言えるかもしれません。

 それにしても、このシナリオ設定──気難しくて尊大な貴族を、よってたかっておちょくり倒す──、20世紀のオペラにしては異様にアナクロで、モーツァルトが作曲しても全然違和感のない物語と言わねばなりません。実際、「フィガロの結婚」はじめ、同じ構造を持つモーツァルトのオペラはいくつもあります。理髪師が活躍するあたりも実に似ています(「フィガロの結婚」の主人公フィガロはもともと理髪師で、ロッシーニ「セヴィリャの理髪師」のタイトルロールでもあります)。元ネタがシェイクスピアと同時代の英国の喜劇作者ベン・ジョンソンの作品らしいので、そういう設定もやむを得ないのでしょうが、それをあえてネタとして扱うあたりがシュトラウスらしいと言えましょう。
 もちろん、シュテファン・ツヴァイクによる台本は、近代的なヒネリクスグリが効いているのだと思われますが、字幕スーパーで意味を追っているだけのわれわれには、そのあたりの微妙な味わいはわからないわけで……

 モーツァルトの作品に登場する貴族は、ただただ憎たらしいオヤジであることが多く、それがよってたかっておちょくられることに、観客は快哉を叫びたくなるわけです。もちろん演出によって多少「気の毒」な印象を与えることはできますが、台本や音楽はまあ大体そうなっています。
 が、「無口な女」の老モロズス卿は、騒音にだけは我慢がならないのですが、その他は非常に尊敬すべき紳士として描かれています。この作品が初演された1935年には、もう民衆の側にも「貴族への反感」などほとんど消えていましたし、どちらかというと見ていて彼への同情ばかりが生まれてくる気がします。騒音に我慢ならないというのも、かつて戦場で、火薬庫の爆発により鼓膜を破られた経験によるトラウマだという設定にしてみれば、無理もないと思えてしまい、あえて大騒ぎをする一座の連中が悪者に見えてくるのでした。
 人間を一面的に類型化しないという姿勢は確かに近代的なのですが、オペラとして見た場合、はて何が言いたかったのかな、という疑問は残ります。

 台本もさることながら、音楽も大変古風というか、
 ──1935年だよな?
 と何度もパンフレットを読み直したものでした。オペラ史で言えば、アルバン・ベルク「ヴォツェック」が1925年ですし、同時期の1935-36年にはプロコフィエフ「ロミオとジュリエット」を書いています。シュトラウスは、無調化、民族音楽傾向、印象主義や表現主義など、20世紀の新しい潮流に最後まで反対し、「美しいメロディと秩序あるハーモニー」の孤塁を死ぬまで守り続けた作曲家でしたが、それにしてもこの時期に至って、これほどまでに近代音楽潮流からなんの影響も受けていないというのは珍しいと言わねばなりません。さすがにドイツ人らしく、自らの立てた原理原則に忠実だったようです。
 ただし演奏難度は相当に高いと思われます。歌もそうですが、オーケストラが難しそうでした。オーケストレイションがかなり厖大で、時折歌を覆い隠してしまうところがあったのが残念です。ヴァーグナーの作品のように、蓋のできるオーケストラピットで演奏すべき曲なのでしょうか。

 耳にしたことのない曲を聴くと、私はこのように曲自体にばかり神経が行ってしまって、演奏の質までには頭が廻らなくなるのが、仕事柄というか、普通の音楽愛好者と話が合わないところです。
 が、マイナーで難しい演目にしては、ずいぶんよくできていたとは思いました。
 主人公のモロズス卿として昨夜の公演で予定されていた新保堯司氏は、急病で欠場し、今夜24日の公演でその役を務める米谷毅彦氏が代役に立っていましたが、そう違和感もなかったようです。ただ、30代の米谷氏としては、役柄の割に若すぎる印象を受けてしまったのもやむを得ないでしょうか。
 ヒロインである甥の妻アミンタ役の松尾香世子さんはなかなかお見事でした。ハイCより上での弱音という、作曲者のとてつもない要求を、安定してこなしていたのには感心しました。
 その他、詳しくは触れませんが、脇役たちもそれぞれに芸達者で、舞台としてはとても楽しめました。

 それにしても、オペラを見ていつも思うのですが、幕間でいちいちカーテンコールをする習慣、なんとかなりませんかね。今回のような喜劇ならまだよいのですが、深刻な話で、敵味方がにこやかに手をつないで出てきたりすると、気分がブチコワシになってしまいます。カーテンコールは最後だけで結構、と私は主張したい。(^_^;;

(2000.2.24.)

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