忘れ得ぬことども

「秘密の小箱」縁起

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 音楽之友社「教育音楽」編集部から、巻末付録用の中学生向け合唱曲の作曲を委嘱されました。今までそういうメジャーなところから、編曲の依頼があったことはあるのですが、作曲の話ははじめてのことで、なんとか成功させたいと思っています。「教育音楽」の巻末付録で活躍したのちに結構メジャーになった合唱曲作家も少なくないことですから。
 中学生向けということは、混声三部合唱ということになるはずです。これはわが国独特の編成で、ソプラノ・アルト・男声という3声です。男子生徒のうち、声変わりしていない子はアルト(ことによるとソプラノ)に廻るというわけです。もっとも最近は男の子の声変わりが以前より早くなっているようでもありますので、この編成がいつまで続くか微妙な気はいたしますが。
 どの世界にも大御所というのはいるもので、この変則的な編成にも、岩河三郎センセイという大物がおり、「木琴」「親知らず子知らず」「野生の馬」などなど全国の中学生諸君に愛唱されている歌をたくさん書いておられます。技術的にさほど困難ではなく曲想もわかりやすく、なおかつなかなかドラマティックであるという点が受けるポイントでしょう。その辺を充分狙うべきかとも思います。しかしまた一方、私はその種のスケベゴコロを持って作曲した場合たいてい失敗してしまうようでもあり、あまり意識しない方がよいかとも思われ、いささか迷っております。
 そもそもドラマティックな歌にするにはドラマティックな詩が必要になるわけですが、私が前から何度か主張しているように、日本の詩人というのはあんまり叙事詩を書いてくれません。私小説的な内容の詩ばかり多くて、物語になっていないのです。それゆえ詩を探すのがかなり大変な作業になるような気がします。
 詩全体のイメージ世界を過不足なく音にするという点ではそれなりに自信があるのですが、言い換えれば、あっさりした詩を作曲すればあっさりした歌にしかならないわけです。そこを無理矢理濃い口に仕上げるセンセイ方もいないではありませんが、どうも私は素材の旨味を活かす形の料理しかできないようで(^_^;;ソースが命のフランス料理ではなくてやっぱり和食派なんですね。
 今回は和食は和食でも、中学生の舌に合わせなければならないという点、例えばカラスミやらアンキモやらを素材にするのはちょっと無理があるとか、あれこれと考えが散らばってしまっています。うーん、だんだんなんの話だかわからなくなってきたぞ。
 ともあれ、まずは詩探しです。7月中旬が締め切りなので、それほどの余裕はないようです。

(2000.6.3.)

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 中学生向き合唱曲が完成し、昨日「教育音楽」の編集部に郵送しました。いつ載るのかよくわかりませんが、9月号くらいになるのでしょうか。その前にボツをくらう可能性もなきにしもあらず、まだ予断を許さぬ感じですが、ひとまずほっとしています。
 実を言うと、今回の合唱曲のテキストには、吉会芸術活動促進部主任代行さんの詩を使わせていただきました。吉会のHPというのはここからもリンクを張ってありますが、その中に、代行さん個人の隠しページが存在しています。その隠しページの中に、知る人ぞ知る詩のコーナーがありまして、そこで見つけた「秘密の小箱」という詩に作曲したのです。ご本人には、すでにチャットで会った時に諒解をとりました。

 そもそも作曲家がある詩に作曲しようとした時に、詩人の意向というのがどのくらい尊重さるべきなのかというのは微妙なところがあります。
 有名な話ですが、ゲーテシューベルト「魔王」を認めませんでした。ゲーテは一種の童話詩のようなつもりで「魔王」の詩を書いたので、曲がつけられるとしても、フォークロアというか、単純な有節歌曲をイメージしていたらしい。シューベルトの作曲したような、異様にドラマティックで感情過多な音楽はこの詩にはふさわしくないと思ったようです。ただ、偉大なゲーテが腹を立てていると知ったシューベルトが、この「魔王」を破棄していたとしたら、現在のわれわれにとっては非常に残念なことになっていたのは確かです。ゲーテの意向など無視したからこそわれわれはいま「魔王」を聴いて感動できるわけです。
 よく「詩に曲をつける」という言い方をしますが、実際には作曲家は単に言葉をメロディーに乗せているだけではありません。同じ詩に別の作曲家が曲をつけてもまるで違ったものになる(「野ばら」「砂山」などをイメージしてください)のでわかりますが、作曲するということはその詩に対するひとつの解釈なのであって、解釈というのは作品だけでなくその受け取り手の経験や知識に依存するものです。むしろ作品は素材のひとつに過ぎないとさえ言えるかもしれません。
 詩人が自分の詩はこう読んで欲しいという希望を持ったとしても、もちろん不思議ではありませんが、一旦形になってしまったものを、不特定多数の読者がどういう読み方をするかはわかりませんし、強制できるものでもありません。多様な解釈をされるのがイヤなら、多様な解釈を許さないような書き方をすればよいだけのことです。読者(作曲家を含めて)が突飛な読み方をしたからと言って、
 ──それは私の意図とは違う!
 などと目に角を立てるのは、詩人としては素人と言われても仕方がないでしょう。
 むろん、詩人は作曲家が
 ──詩は自分の表現の素材として使うだけだ。
 などということを言うと怒ります。詩が音楽に従属するものだと言われたような気がするのでしょう。「素材として使われる」ことが、すなわち「従属する」ことにはならないと思うのですが。

 今まで何人かの詩人と、詩の使用承諾について交渉してきましたが、人によって対応がまちまちなので気を遣います。『少女追想』「誕生」吉原幸子さんなどはいろんな作曲家が曲をつけており、いわば「使われ馴れて」おられるせいか、ごく事務的にOKを出していただけました。また『一輪ざしの四季』きのゆりさんはこちらが恐縮するくらい大喜びしてくださいました。『あいたくて』工藤直子さんも快諾という雰囲気でした。
 作曲にとりかかる前に使用承諾を求めて、結局ものにならなかったりすると失礼な気がしますので、私はある程度メドがついてからアクセスするようにしています。たいていの場合はそれで済むのですが、一度だけ──名前は挙げませんが──ある詩人とトラブりました。
 とりかかる前に一報するのが当然ではないかとなじられ、
「前に曲をつけてくれた方なんか、何度も何度もご連絡くださって、この言葉を繰り返したいがどうかとか、全部相談してくれたんですよ。そうしていただければ私だって気持ちよくご協力しますのに、こういう不意打ちのようなことをされては」
 さらにまずいことに、その時は組曲中の一曲で、その人の詩を2編同時に使うということをしていました。それは作曲上の必要があってしたことではあるのですが、ひとつひとつの詩に込められた想いを無視するものであるとか、さんざん責め立てられたのでした。
 確かにそういうことを無断でやったのはまずかったでしょうが、許可を求めてもこの調子だとたぶん拒否されたでしょうから、これまた微妙なところ。しかしその曲のリハーサルを聴いた詩人は涙ぐんでおられました。無念の涙であったとは思えないので、やっぱり感動してくださったのでしょう。2編の詩を同時に使わざるを得なかった意図は理解して貰えたものと思います。しかし、上記の「素材として使う」ということの真意はとうとうわかっていただけなかったようです。

 詩人本人はよくても、諸々の事情で詩が使えないということもあります。
 先輩の作曲家が、谷山浩子さんの詩に作曲しました。先輩はうかつなことに、谷山さんに連絡せずにそれを発表してしまったようです。
 後日、その曲が出版されることになりました。出版社の方から、谷山さんに使用許可願いが行きました。
 谷山さんは、それについてはすべてY社に委任してあるから、と答えたそうです。それで出版社はそのY社に交渉したところ、不許可ということになってしまいました。
 急遽、先輩の奥様が差し替え用の詩(この場合は「詞」というべきでしょう)を書き、かろうじて出版できたのでした。
 これも、発表前に承諾を得るべきだったと言うのは簡単ですが、その時点で不許可になっていれば、この曲自体が生まれなかったということを考えると、微妙な問題です。

 私などは、自分の作品でも、一旦世に出てしまえば、あとは規定通りの著作権料が入りさえすれば、煮られようが焼かれようが私の関知するところではないという考え方で、どこでどんな形の演奏をされても文句を言うつもりはありません。
 しかし、「作品」に対する態度というのは、表現者によっていろいろであって、子離れのできない親みたいな作者も少なくないようです。
 もう大先生と呼ぶべき作曲家が、とある合唱コンクールでどこかの高校の合唱団が自作を歌っているのを耳にし、その演奏の仕方が気にくわないというので、指揮していたその高校の先生の自宅へ電話し、しかも先生本人が不在だったので奥さんに向かって、
「もうそちらの学校では私の作品は二度と歌わないで貰いたい」
とねじこんだという話もあります。
 はたして作者というものは、自分の作品についてそれほど無制限な権利を保有しているものなのでしょうか。
 詩の話から表現一般の話に拡がってしまいました。このことはまた折に触れて考えてみたいと思います。

 さて、代行さんとの交渉は、チャット中にごく簡単に済みましたので、大変楽でした(^o^)
 どんな曲を作ったかは、そのうちMIDI化したいと思いますので、しばらくお待ちください。
 中学生のクラス合唱向け混声三部合唱曲ですから、それほど手が込んではおりません。
 ピアノは「ソナチネアルバム」レベルで弾けるようにとか、男声の音域は中央のドから下へ1オクターブだとか、普通の合唱曲にはない制約がいくつかあったので、どちらかというと発想が勝手に飛翔してしまうのをセーブする方に気を遣いました。
 さて、すんなり採用されるかな。

(2000.7.13.)

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 というわけで、「秘密の小箱」のMIDIをアップ。こんな曲です。
 雑誌に依頼された作品を、雑誌掲載の前に公開するのはよろしくないのかもしれませんが、まあ歌詞を歌っているわけでもないのでよいでしょう。詩も公開されているとはいうものの、言葉を繰り返したり、メリスマを使ったりしているので、どういう風にメロディーに乗るのかちょっとわからないかもしれません。
 ちなみにメリスマというのは、ひとつのシラブルに複数の音が対応すること。♪ゆうやーけこやけーの あかとーんーぼー♪と歌う時の「けー」のところのようなものです。「メリハリ」という言葉の「メリ」というのがこのメリスマのことであると聞いた憶えもありますが、定かではありません。
 母校の校内合唱コンクールで、連年課題曲を作っている経験からして、中学生のクラス合唱というのが大体どのくらいのレベルのものであるかということはわかっているつもりなのですが、どうも私の書くものは、自分がターゲットと考えた人たちからはいつも「難しい」と言われます。母校で中学3年生を教えている非常勤講師が私の大学の後輩なのですが、毎年、
MICさんの曲はいつも難しいですよ」
と言うばかりで、今年は楽でしたと言ってくれたためしがありません。
 無意識のうちに、ターゲットより少し上のレベルのものを書いてしまうのかもしれませんね。もっとも、初めての曲で、音のサンプルもないような曲だと、本来の難易度以上に難しいと感じてしまうことはありがちですが。
 今回はなるべく易しくあることを心がけたつもりではありますが、私の予想もしない、意外なところが厄介だと言われたりすることが多いので、どんなものでしょうか。歌はともかくとして、ピアノだと、「分散和音を両手で分けて弾く」──例えば左手でドミソドと弾き、続けて右手でミソドミと弾いて、まとめてひとつの分散和音に聞かせるなどという、ごく普通のパッセージが、ソナチネアルバムがおっつかっつくらいの水準の子供などには案外弾きこなせないというようなことがあるようです。子供のピアノのレッスンもしているというのに、私はちっともそんなことに気づきませんでした。
 まったく、易しい曲を書くというのは大変な作業です。いや、易しいだけならよいのですが、易しくてなおかつ聴きばえのする曲というのは至難の業です。
 さて、今回の曲はいかがでしょうか。

(2000.7.15.)

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 「教育音楽」編集部から、「秘密の小箱」校正刷りが到着。なんにも言ってこないから、もしやボツを食らったのではあるまいかなどと心配していたのですが、校正刷りが来たからには一応内容的にはパスしたということでしょう。というわけで私もひと安心、吉会芸術活動促進部主任代行さんもひと安心ということで(^_^;;
 ただ、何月号に載せるつもりなのかがいまひとつよくわからないので、まだ不安はあります。載せないで、代原用にストックしておくつもりだったりして。そんなことはないかな。何しろ雑誌の依頼というのがはじめてなので、いろいろなことが不明で気を遣います。
 ちなみに代原というのは、本来載るべき原稿が落ちてしまった場合に、ピンチヒッターとして載せるために編集部が確保してある原稿のことで、マンガ雑誌などで急に連載が休みになって、代わりに見たこともないようなぺいぺいの作者の読み切りマンガが載っているというのがこれです。音楽雑誌にもそんなことがあるのかどうか知りませんが……

 ともあれ校正刷りに目を通しました。最近は楽譜もコンピュータ写植で、昔のように銅版刷りにするようなことはありません。かつては神業のような浄書屋さんが、作曲家の読みにくい原稿から見事にきれいな楽譜を作り上げ、それをまた神業のような製版屋さんが銅版に彫りつけて行ったもので、それゆえ出版社によって音符の形に特色があってすぐ見分けられたのですが、今日びそんな手間のかかることはやらなくなりました。音符などがすべてスタンプになり、製版が写真製版になったのが何十年か前、そして80年代からはもっぱらコンピュータの浄書ソフトが使われるようになりました。
 音楽之友社のような大手は自社独自のソフトを使っているのでしょうか、それはよく知りませんが、今まで関わりのあったカワイ出版サニーサイドミュージックなどは汎用の「FINALE」を使っているようです。作曲家が同じソフトを使っていれば、データ入稿して貰うことにより作業が大幅に楽になるわけです。私も編集者から、
MICさんも『FINALE』導入してくださいよ」
と言われたことがあります。
「今のマシンだと使えないんですよ。新しいマシン買ってくれます?」
と反問すると、相手は沈黙しました。
 「FINALE」については以前書いたことがありますが、もともとMac用のソフトであるのはまあいいとして、Windows版も出たと思ったらなぜかマシンを選ぶようになっていて、私の使っているNECV200機では使えないのでした。今年になってから新ヴァージョン「FINALE2000」が発売されました。こないだ見つけて店員に訊ねたら、上記の項目で訊ねた時の店とは違って大変親身になってくれて、日本総代理店のカメオインタラクティブに問い合わせてくれたりしたのですが、結局はダメでした。NEC機でも、私の持っているマシンよりも新しい世代のマシンなら対応しているそうですが、どちらにしても今のマシンで使えないことに変わりはありません。いまや音楽業界の常識となりつつある「FINALE」の導入は、新しいパソコンを買うまでは私には無理だということです。さて、買い替えるべきかどうか。今のパソコンを買って3年と4ヶ月……決して安い買い物ではないし、「FINALE」が使えないことを除いては特に不都合も感じていないし、迷うところです。もう数年、手書き入稿で我慢するか、それとも……

 校正というのは、今まで何度もやっていますが、気の疲れる作業です。自分でやると、どうしても先入観があって見逃してしまうということがしばしば起こります。本当はまったく関係のない人がやるのがいちばんよいのですが、そんな人を雇うお金もありませんし。
 さらに困るのは、校正刷りを見ながら、もとの原稿と音を変えたくなったりしがちだという点。変えてもいいわけですが、そうなると変わったところをチェックするためにもう一度校正をしなければならず、手間が増えます。
 幸い今回は、「親切記号」を数箇所つける程度で、あとはミスの直しだけにとどまりました。
 「親切記号」というのは、演奏者の便宜のために、本来つけなくてもよい臨時記号などをつけることです。記譜法によれば、臨時記号の効力は原則としてついた小節の中だけで、次の小節には及ぼされません。従って、例えばハ長調の曲でファの音に臨時記号#をつけた場合、次の小節にファが出てくると、なんにもついていない時には自然にナチュラルになります。しかし、実際の演奏に当たって、そのままだと#だと錯覚してしまいそうな場合がままあり、そういう時に次の小節のファにナチュラルをつけてあげるのです。つけなくても、間違えるのは演奏者の不注意と言ってよいのですが、こういう親切記号を適度につけておいた方が喜ばれます。
 私は原稿でもなるべくわかりやすいように親切記号をつけていますが、原稿だとページが変わっているので間違える余地がなさそうなところが、印刷譜だと同じページの同じ行で近接しているということもあり、そんな時には校正刷りの段階で書き加えることになります。

 校正は、音符だけでなく、いろんなところに伏兵があります。スラーやタイが抜けていたり、歌詞がちがってしまっていたり。発想標語などの綴りが間違っているようなことも珍しくありません。私は以前、スタカートを意味するstacc.という指示がsatcc.になってしまっているのを完全に見逃したことがありました。私のみならず、編集者も見逃したようです。今回も似たようなケースが一箇所あり、幸い見つけだせたからいいようなものの……
 どんなに鵜の目鷹の目でミスを捜したつもりでも、実際に上梓されてみるとあとになってあれこれ見つかるもので、げっそりすることが多いです。「TOKYO物語」などのように版を重ねていれば、増刷のたびに直しを入れて、かなり正確な楽譜を作ることができますが、なかなか増刷されないものだと、ミスを眺めつつ、
 ──全国の皆さんはこの間違ったまんまの音で歌ってるんだろうなあ。
 と溜め息をつくしかありません。
 印刷譜になるというのも、なかなか大変なのです、実際。

(2000.7.24.)

X

 おかげさまで「秘密の小箱」の掲載された音楽之友社「教育音楽」誌10月号が本日発売とあいなりました。
 この雑誌は、毎号別冊付録としていろんな作曲家のオリジナル合唱曲を掲載しています。10月号は特に「新作による中学生向きクラス合唱曲集」だそうで、田中響子大田桜子菅原真理子奈須田はるみ瑞木薫の諸氏と並んで「秘密の小箱」も載ることになったわけです。このうち菅原さんはアルシスでも一度ご一緒したことのある先輩ですし、大田さんも、向こうはご存じないかもしれませんが私の先輩にあたる人です。あとの人は直接には存じ上げません。
 「秘密の小箱」のテキストは、ここのお客様には今さら言うまでもなく吉会芸術活動促進部主任代行さん。このまま「吉会芸術活動促進部主任代行・作詩」と載せれば大笑いだったと思われますが、なんぼなんでもまどみちお星野富弘大田倭子といった詩人名に並んでこの字面はあんまりなので、結局本名で載せて貰うことにいたしました。代行さんの本名を知りたい人は、今すぐ書店へ走って「教育音楽」を買いましょう。立ち読みはいけません。

 他人と較べるのはあまり意味のあることではないとはいえ、掲載作の中では私の作品はなかなかの出来だったのではないかと自負しています。誰のとは言いませんが、いささか変にポップス調のノリになってしまっているのがないではなく、私は作曲にあたってそうなることをまず自分に厳に戒めていました。
 「今どきの子供はクラシカルに書いてしまうと乗ってこないだろう」と考えるのはもっともですし、それでついついポップスっぽくしてしまうのもわからないではないのですが、それは結局子供に媚びることにしかならないのではないかと思うのです。
 もちろん作曲者の資質としてそういったノリがあり、それが否応なしにあふれ出てくるというのでしたら問題はないのですが、私は少なくともそうでなく、そういう私が子供に媚びてポップス風を装ったとしてもそれはニセモノでしかなく、そしてニセモノは必ず子供たちに見抜かれ、見捨てられるに決まっています。
 だから、テクニック的に難しくしないという面での操作はだいぶやったものの、基本は正統的な合唱曲の書法を保持したのでした。

 「秘密の小箱」は、このHPのMIDIで聴いてくださった方々からは、結構好評をいただきました。半分お世辞でしょうが、
「中学生なんぞに歌わせるのはもったいない」
とまでおっしゃってくださった人もおられます。
 しかし、真の評価を下すのは、実際に現場でこれを用いた学校の先生方や中学生たちですから、むしろこれからが正念場みたいなものです。
 少なくともニセモノにはしなかったつもりですけれど、それが受け容れられるかどうか。

(2000.9.18.)

Y

 一時、音楽之友社が潰れたの潰れないのという噂がネット上で飛び交って、われわれ音楽に携わる者をヒヤリとさせましたが、幸いそれは真っ赤な虚報だったようで、「教育音楽」の編集者のみゆきさんから、「秘密の小箱」CDに収録するという連絡が入りました。来月出る4月号の付録としてそのCDをつけるのだそうです。
 もちろん「秘密の小箱」だけではなく、他に何曲も収録されるわけですが、それなりに評判の良かった曲、少なくとも編集部としてプッシュしたいという曲を選んだのでしょうから、そこに名を連ねることができたのはありがたくも名誉な話と言えるでしょう。
 曲そのものにはそれなりに自信があったものの、
「中学生には(あるいは中学の先生には)ポップス風のノリの曲でないと受けないよ」
と私に言う人もおり、現場でどう受けとられているかということは気にかかっていました。いくら作者として自信があっても、ユーザーにそっぽを向かれたのではなんの意味もないわけですから。
 CDとともに、むろん楽譜も再録されることになるそうで、ともかくも一発限りで埋もれてしまうことがなかったのは何よりだったと思います。

 そのレコーディングが今日神楽坂音楽之友ホールでおこなわれたので、顔を出してきました。歌ってくれるのは早稲田の学生だそうですが、早稲田にも数々あるであろう合唱サークルのどれかなのか、それとも教育学の学生か何かなのか、その辺ははっきり聞きませんでした。
 ホールに行ったら、信長貴富君の曲をレコーディング中でした。
 合唱界では若手のホープとして令名の高い信長君ですが、実は彼が世に出るについては私が深く(?)関わっています。というのは、彼は朝日の合唱曲作曲コンクールで2年連続入賞したことで名を挙げたわけですが、その2年とも、応募曲の下選りを私がやっていたのでした。80曲くらい寄せられた応募作から、20曲くらい選んで本選に廻すのが下選りの仕事です。
 信長君の作品はもちろん文句なく予選通過しうる出来だったとはいえ、もし私がそこではねていたら彼は世に出られなかったわけで、その後めいっぱい恩に着せております(^_^;; すいませんねえ、信長君。
 彼の収録曲はいい曲でしたが、ただやはりちょっと演奏が難しいんではないかと危惧しました。私も何年か前までは難しいことばかりやっていましたから、その辺が一種、若さなのだろうと思います。

 そのあとで「秘密の小箱」の収録となりました。最初いっぺん通して貰って、その場で私がいくつか注文を出し、ある程度整ったところで調整室のブースに移って聴いていました。
 意外とピッチが決まらないので私は少々狼狽しました。ずいぶん易しく書いたつもりだったのに、あれでもまだ難しかったのだろうかと思ったのです。だとしたら信長君のことは言えません。
 レコーディングディレクターにそう言うと、
「いや、そんなことはないでしょう」
とのお答え。信長君の曲からぶっ通しで歌っている学生たちが、少々疲れてきていたのだと思うことにしました。また逆に、シンプルであるがゆえの難しさというのもありますし。
 合唱曲のレコーディングというのは、私も一昨年、Chorus ST鈴木行一さんの作品を歌いました。編集部のみゆきさんとはその時に知り合って、今度の仕事も貰ったわけですが、その時の経験だと、オケのレコーディングと違って、合唱曲は途中の差し替えができず、一発勝負になってしまうものだと認識していました。
 ところが、見ているとけっこう、つぎはぎすることを前提として録音しているので驚きました。歌のフレーズの途中でつなげるのはさすがに不可能でしょうが、僅かな休符で、ピアノは続いているようなところでつなげることはできるらしいのです。
 「通しで録れたらそれに越したことはないんですけどね」
とレコーディングディレクターは言いました。
 もうほんのちょっとピッチが整ったら文句ないのに、という状態でしたが、このあともう一曲収録しなければならなかったので、適当なところで妥協しました。
 考えてみると、私の(編曲でない)オリジナル作品が(自主制作でない)商用CDに収録されるのはこれがはじめてのことです。ありがたいことです。
 作詩者である吉会芸術活動促進部主任代行さんには、収録の連絡があった時点で伝えておきました。目下入院して闘病生活中のようですが、このCDが世に出る頃にはお元気になっておられんことを。

(2001.2.14.)

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