今年も誕生日が来て、またひとつ齢をとってしまいました。どうも「馬齢を重ねる」という表現がぴったりであるようで、何やら無駄に齢をくってゆく気がしてなりません。
男は壮年になったら自分の顔に責任を持たなければならないと言いますが、その責任を持つべき年代に足を踏み入れつつあるというのに、いっこうに人前に顔向けできるような顔になっておらず、忸怩たる想いであります。
しかしまあ、この世の中で36年間も無事に生き続けていられたこと自体が、誇ってよいことなのかもしれないとは思います。世の中にはびこるさまざまな危険のことを考えれば、途中で生きることが継続不能な状態に陥ったとしてもそんなに不思議ではないようでもあります。
実際、これはもう駄目かなと感じた経験は何度かありますが、それを案外と要領よくくぐり抜けて生き延びてこられたということ、それを思うと、私という人間も満更なものでもないのではないかと、そんな風に感じないでもありません。
この世に生きている人たちは、みんなそうやって、さまざまな致命的危険を意識的無意識的に回避してきた古強者であるわけで、そう考えてみればどんな人であってもそれだけで尊敬に価するような気がしてきます。とりわけ、私よりもさらに長い時をこの世で生き抜いてきた人たちは本当に尊敬すべきであると思います。
年上の人にはそれ相応の敬意を払わなければならないという社会道徳は、まさにその理由によるのではないでしょうか。
ちょっと長く生きているからと言ってなんで大人を敬わなければならないんだと考える青少年は多いことでしょうし、私ももっと若い頃はそんな考えを持たなかったわけではありません。しかし、この世を自分より長く生き抜いているというそのこと自体が、やはり脱帽に価するのだと、最近はそう思うようになりました。
だからこそ、人為的に人の生命を停止させることは許されないのだとも思います。それが自分の生命であろうと他人の生命であろうと同じことです。
最近、その辺の道理がわかっていないのではないかと思わざるを得ないような少年犯罪が目立つようになっています。人の生命は、それが生き続けているがゆえに尊いのだという道理を彼らが理解するためには、やはり彼らの生きてきた時間だけでは足りないのでしょうか。
思い返せば私自身も、15歳前後の頃は比較的生命を軽く考えていたようでもあります。ただし私はどちらかというと内向的な性格であったため、自分の生命を停止させることをしきりと考えました。自分が生きていることに意味を見いだせず、それならば生きていなくてもよいのではないかと繰り返し繰り返し思っていました。
生き続けること自体が「意味」なのだと悟るまでには、確かにもっと長い時間がかかったように感じます。しかも、誰に教えられたということでもなく、本で読んだというわけでもありません。人に教えられても、本で読んでも、自分自身にその機が来ない限りはわからないものなのかもしれません。
願わくば今の子供たちも、その機が訪れるまでは生き続けて欲しいし、他人の生命を停止させることもしないでいて欲しいものです。
(2000.8.26.)
【後記】36歳の誕生日に際して書いた文章ですが、なんだか共感してくれた人が少なからず居たようでした。
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