忘れ得ぬことども

陪審制度と日本人──裁判員制度の導入

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 ある時、「お客様の声」陪審員のことが話題になりました。
 日本には今のところ陪審制度はありませんが、これは実は「無期停止」状態なんだそうです。戦前の一時期、日本にも陪審制度が置かれたことがありました。その結果、その時点の日本には陪審制度は向かないということになり、本格的な導入は将来もっと民度が向上するまで待とうということになったのだそうです。
 もっとも、この陪審制度は形こそ英米のそれを踏襲したものの、運用方法が著しく粗雑だったようです。
 まず、陪審員になれるのは選挙権を持つ者に限られましたので、当時の制限選挙制では、事実上ある程度の金持ちしかなれなかったことになります。それに裁判中は仕事を休まなければなりませんが、その期間中の収入は保証されていませんでした。ちなみに現在のアメリカでは、従業員が陪審義務を履行中の場合、雇い主はその期間の給料を支払うことが義務づけられています。
 また、陪審を受けるかどうかを被告が決めることができたのですが、希望する被告はあんまり居なかったそうです。それもそのはずで、陪審にかかる費用は被告が負担しなければならなかった上、陪審によって下された判決は最終的なものとされ、控訴ができなかったというのです。これではよほどのことがない限り希望するわけがありません。これをもって民度が低いとか、陪審制度が向かないとか判断されたのではたまったものではありませんね。
 なんともお粗末な陪審制度でしたが、それでも導入されていた期間、人々の司法への参加意識はかなり高まったと言います。

 裁判の結果を決めるにあたって素人が参入することには、いまだに司法関係者が難色を示しているようですが、一方、「裁判の議事進行者」と「議事の判定者」とが判事という同一の人間であることに問題があるという指摘も説得力があります。一般の会議では、議長には議決権がないのが普通なのに、裁判という場だけは議事進行権と議決権が判事にしかないというのは、どうも解せないことです。
 もちろん、陪審制度がいいことばかりではないのは、アメリカの裁判の様子を見ればすぐわかります。弁護士は事の真相を明らかにすることよりも、12人の素人にいかにアピールするかということばかり考えるようになっています。証拠よりむしろ、弁護士のパフォーマンス次第で判決が左右されてしまうという事態もしばしば生じるようです。なんとか論理よりも印象で判決を下してしまうような無教養な人を陪審員にしようとしたり、それを妨害しようとしたり、ということもよく起こるらしい。
 陪審制度のいろんな問題点は、私の好きなミステリー作家パーネル・ホールの小説「陪審員はつらい」「裁判はわからない」(いずれもハヤカワミステリ文庫、田中一江訳)などにユーモラスにわかりやすく書かれていますので、ご一読をお奨めいたします。
 しかし、そのような問題点があることは英米人もよくわかっているので(だから小説にもなるわけですが)、それでも陪審制度を存続させているのは、伝統だからということもありましょうが、やはり長い目で見ればそれが裁判の公正に欠かせないと判断しているからに違いありません。
 日本の民度が低いとはもう政治家や役人の言えたことではありません。阪神大震災の時、外国の報道関係者は一様に、被災者による掠奪事件がただの一件も発生しなかった(治安を維持すべき自衛隊の出動があれほど遅れたのに!)ことに心底驚愕したものです。これほどの自制力、民度の低い国民に持ちうるものではありますまい。
 そろそろ陪審制度の復活も本気で検討した方がよいのではないでしょうか。

 日本人特有の性格による問題点も危惧されています。
 陪審員を扱った名作映画「12人の怒れる男」がブレイクしたのち、たちまち筒井康隆氏がそのパロディ「12人の浮かれる男」を書き、さらに映画「12人の優しい日本人」なんてのも作られましたが、ある意味でこれらのパロディが、本当の陪審制度に先行して作られたのは、日本の司法にとって不幸だったかもしれません。
 日本人の性格として、その場のノリに逆らって自分の意見を通すことが難しく、また理屈っぽい議論を嫌うところがあるという点は、日本人みずからが感じているところであって、それだからこれらのパロディが、パロディとしてではなく、妙にリアルに思われてしまいました。
 ──陪審制度が導入されたら、本当にあんなことになってしまうのではないか?
 と思った人も多いでしょう。私の知人の弁護士も、陪審制度を検討すべきではないかと私が言ったら、
 「日本でそれをやると、『12人の優しい日本人』みたいなことになっちゃいそうでね」
と答えました。実のところ司法関係者の多くは同じような危惧を抱いているのではないでしょうか。
 しかし、英米人だってたいていの人は、その場のノリに逆らう勇気なんか持ち合わせていないに違いありません。「12人の怒れる男」が感動的なのは、主人公がその場のノリに逆らって他の11人を説得してゆく勇気が、まさに普通の人にはなかなか持ち得ないものだからに他なりません。上記のパーネル・ホールの小説の主人公も、陪審員になるにあたって、他の11人と自分の意見が違ったらどうしよう、「怒れる男」の主人公のように他の人たちを根気強く説得するなんてことはできそうにないし、とびくびくしています。
 素人を交えるというのは、専門家集団にとっては不安なことであり、到底不可能とも思われることですが、それをやる勇気はぜひ持っていただきたいものです。
 「これほど法制が複雑化していて、われわれでさえ苦労しているのに、素人が適切な判断を下せるはずはない
というのが難色を示している本音でしょうが、それだからこそ偏頗な法律技術論に惑わされない、世間一般常識的な眼というのが不可欠なのではないでしょうか。

 一体に日本人というのは自国民を信用しきれないらしく、例えば憲法9条を変えればたちまち戦争をおっぱじめるに決まっているといまだに思っている人々も少なくないようで。戦争などというものは今日ではよほどの条件が揃わなければ始まるものではなく、それに相手が必要だということをまったく考慮していないのです。
 役人が自国民を信用しないあまりに押しつけた数々の規制が、泥沼の不況から抜け出せない足枷となっているのに鑑みても、いい加減もっと日本人同士が信用し合わないものかと思うことしきりです。
 陪審制度も、国民を信用して、思いきってやってみてはいかがでしょう。

(2001.5.7.)


U

 しつこいようですが、陪審制度について。
 実際に導入、というより復活された場合、われわれはどんなことをすればよいのか、明確なイメージがつかめない人も少なくないでしょう。
 そこで、前にも書いたパーネル・ホールの小説「陪審員はつらい」(ハヤカワミステリ文庫)を参考に、アメリカの陪審員がどうなっているかをご紹介いたします。この人の小説、推理小説としてのネタはごく小粒なんですが、どうでもいいようなことをこまごまとユーモラスに書いてくれているので、現代ニューヨークのサブカルっぽい風俗が実によくわかり、毎回楽しませて貰ってます。

 まず、選挙人名簿などから無作為に選ばれ、2週間の陪審義務を果たすよう通知が来ます。
 陪審員には12ドルの日給が払われるそうですが、額としては雀の涙。従ってこの時、前も書いたように、サラリーマンなど人に雇われている身分であれば、雇い主は陪審義務遂行中の分の給料を支払うことを義務づけられています。
 個人事業主などで、陪審義務遂行中の収入が得られないことがはっきりしている場合は、その旨申し出て、義務を免除して貰うことができます。小説の主人公は個人営業の私立探偵で、まさにこの免除に該当するものとほくほくしながら申し出に行ったところ、ずっと昔にチョイ役で出た映画がテレビの深夜放送で再放送され、その出演料がテレビ局から振り込まれていたばかりに、給与生活者と見なされて免除を却下されてしまうのでした。
 そうして呼び出されると、2週間毎日(土日を除く)、10時から16時まで裁判所の控え室で待機します。
 係員が控え室にやって来て、ビンゴゲームで使うような抽選器で抽選をおこないます。ここで50人くらい選ばれるらしい。選ばれた人たちはぞろぞろと別室へ移り、そこでまたもう一度抽選を受けます。これでようやく「陪審員候補」となるわけです。
 このあとが大変。原告側被告側、双方の弁護士(あるいは検事)が、いろいろな思惑に基づいて候補をふるい落とします。つまり、
 ──この人物はその立場や職業から考えて、予断や偏見をもって陪審に臨みそうだ。
 というおそれのある人は除かれるわけです。これを「陪審忌避」と言いますが、双方の弁護士や検事の駆け引きはこの段階から始まっているわけで、時には候補を片っ端から忌避してしまい、もう一度最初の抽選からやり直しということもしょっちゅうあるそうで。大学出の候補は忌避される確率が高いとか。
 2週間、毎日忌避されて、結局一度も陪審員にならずに陪審義務を終えるという人もけっこう居るようです。陪審義務は、州の人口にもよるのでしょうが、ニューヨークなどではだいたい一生に一二度だけのようです。
 忌避もされずにそのまま通ると、いよいよ陪審席につくことになります。ただし、陪審席につくのは陪審員だけではなく、交代要員が数名用意されます。陪審員のいずれかに故障があった場合に交代するわけですが、評決には加わりません。
 陪審員は12人と決まっているわけではなく、民事事件や軽犯罪だと6人くらいで済ませることもあるようです。
 陪審員もしくは交代要員になると、あとはもう控え室には戻らず、専用の部屋に缶詰めになります。一旦入室すると、夕方に審理が終了するまでは外には出られず、電話もかけられません。小説の書かれたのは1994年で、まだそれほど携帯電話が普及していない頃でしたが、現在ではたぶん携帯電話もスイッチを切るよう要求されることでしょうし、あるいは持ち込みを禁止されているかもしれません。とにかく審理中に外部と接触することは厳に戒められているわけです。
 そして法廷に入りますと、メモをとるのは許可。私語は厳禁。判事に何か伝えたい時は必ず係官を通じ、陪審員討議室でのみ話ができる。陪審員が弁護士や証人と意思伝達をすることはいかなる場合も禁止。入退廷の時にエレベーターで出逢っても、口を利くのはもちろん、会釈することもいけません。むろんのこと、公判が終わるまでは事件の内容については誰にも話さないこと。陪審員同士で話すことも禁じられます。重大事件の場合は、ホテルに缶詰めになって一切外部との接触を禁じられることもあるようで。

 それからいよいよ公判が始まるわけですが、テレビの弁護士ドラマのようにサクサク進むことはまずあり得ず、文字通り重箱の隅をつつくようなやりとりが蜿蜒と続けられます。たいていの場合、実に退屈きわまりない時間に感じられるようで、なるほどそれならば、少しでも面白がらせてくれるパフォーマンスのうまい弁護士のついた側に味方したくもなるかもしれませんね。
 何しろ世に知られた重大事件、例えばオウム真理教事件並みの事件などは滅多に起こるものではなく、数にして圧倒多数なのはとるに足らぬ窃盗とか傷害とかであるわけで、しかもそういう刑事事件であるとは限りません。小説「陪審員はつらい」の主人公も、ものすごく退屈きわまる民事事件の陪審員に選ばれてしまい、ぼやきにぼやきます。
 簡単な事件であれば、公判も2日か3日で片がつき、例えば拘束期間の2週間のうち、あとの週でそんな事件の陪審を務めたとすると、その後何日か残っていても、それでお役ご免になることも多いそうです。しかし公判が長引くと、2週間を過ぎても拘束が続くことになりますので、いろいろ生活に支障が生じる可能性も高くなります。そんな時のために交代要員が用意されているわけです。

 陪審員は、まあざっとこんなような形で裁判に参加するのでした。
 いかがでしょう? やってみたいとお思いになりますか?(^o^)

(2001.5.17.)


III

 裁判員制度の法案提出が閣議決定されました。ようやく日本でも、司法への国民参加の動きが高まってきたようです。現状では、司法への国民の関与は、せいぜい国民審査、つまり最高裁判事の信任・不信任を意思表示するくらいしかできませんでしたが、この法案が通ると、もっと直接的な参加がおこなわれることになります。

 裁判員というのは陪審員とは違うようです。私も詳しいことはよくわかっていないのですが、一応理解したところを述べてみると……
 陪審員というのは、裁判の場において、被告・原告・それらの弁護人(検事を含む)・裁判長というそれぞれのプレイヤーと同格独立の存在です。裁判は被告と原告が双方の弁護人を立てて争う場であるわけですが、陪審制度では、判事というのは双方の議論のいわばレフェリー役で、危険なプレイ、アンフェアなプレイに対してイエローカードレッドカードを出すのが役目です。判事はどちらにも偏らないフェアな議論を陪審員に対して呈示するように務めます。そして、陪審員たちは判事とは全く独立に、どちらの論に道理があるかを判定します。
 判事は一般に、陪審員の出した判決を覆すことはできません。敗訴した側の賠償額(民事)とか量刑(刑事)とかを定めるのは判事の役目のようですが、勝敗を決定するのはあくまで陪審員です。
 これに対し、今回の裁判員というのは、判事と共に判決を下すことになるようです。判事3人と裁判員6人だとか、被告が容疑(当面は比較的重要な刑事事件に限るつもりのようですので)を認めている場合はひとりと4人だとか、民主党はひとりと10人という案を主張しているとか、細かい議論はあるようですが、基本的には判事と一緒になって──というより、実際には判事の誘導のもとで判決を下すことになりそうです。フランス式の参審制に近いのかもしれません。

 はたして民間から選ばれた裁判員が、判事の意見にどの程度異を唱えることができるのか、また逆に判事の側も、民間人が呈した異議をどの程度受け容れうるのか──専門家であることを楯に、居丈高に素人の異議を封じてしまうことになりはしないか、いろいろ不安はあります。
 私は陪審制に賛成でしたが、それは司法への国民参加という意義以上に、「議長役」と「議決役」が判事という同一の人間に託されていることへの危惧のためでした。たいていの会議では、議長というのは議決権を持たず、賛否が同数になった時に限り決定投票ができるというような規定になっているのが普通ではないでしょうか。証拠を採り上げるべきかどうか決める人間と、採り上げた証拠を評価する人間とが同じというのはよろしくないように思います。
 議長役と議決役さえ分離されるのであれば、そんなにあわてて民間人を採り入れる必要もないだろう、とも考えていました。
 今回の裁判員制度は、民間人は入れるものの、議長役と議決役の分離については曖昧なままになるようです。それではあまり抜本的な改革ということにはならないのではないかと思うのですが、まあやれるところから手をつけるというところでしょうか。

 上の陪審員についての記事を書いた頃、法律畑の人から何度かメールをいただきました。その人は、やはり裁判に素人を介入させる事への危惧を持っているようでした。テレビのワイドショーでの興味本位の取り上げ方などに容易に影響されてしまうのではないか、冷静に証拠や証人を吟味することなく、先入観で判断してしまうのではないか、といった点が心配だったのでしょう。
 英米流の陪審制の伝統がない国で、それを導入しようとすると、どうしても司法関係者には不安が生じるようです。
 国民参加となるにしても、まずは司法官のコントロールのもとで、と考えるのはいかにもありそうなことであり、今回の制度もそういう配慮に基づく形のように思われます。
 別に英国人やアメリカ人が、ワイドショーの影響をとりわけ受けづらい人々であるわけでもなんでもありません。彼らがどんな時にも周囲に流されずに自分の意見を持ち、それを堂々と主張できる立派な国民性を持っているからこそ陪審制が成り立っている、などということは全然ないのです。それでも何百年もやって来た結果、12人の素人に判定を任せることがおおむね裁判の公正を保てていると思っているからこそ、廃止もされることなく続いているのでしょう。
 判断を素人に任せるというのは確かに勇気が要ることでしょう。

 ──専門家のわれわれでさえ重荷なのに、素人にできるはずがない。

 と考えるのが、まあ専門家としての偽らざる感慨だろうと思います。しかし、些末な法文解釈に囚われずに常識に従った判断を下すということも大切なのではないでしょうか。

 ただ聞くところによると、日本の刑事裁判というのはかなり特殊であるようで、検察は確実に有罪がとれると確信したもの以外はたいてい不起訴処分にしてしまうのだそうです。だから、裁判で有罪の判決が出る確率は諸国に較べて著しく高いらしい。アメリカなどでは50%くらいは無罪になるそうで、検察の方も日本ほどには起訴前の証拠固めを丹念にはやっていないようです。また、日本の警察も、英米あたりだったら確実に起訴できる程度の段階まで詰めてから、はじめて容疑者を逮捕するのが普通のようで、いわば逮捕・起訴・有罪判決という一連の流れが、一段階ずつずれていると言って良さそうです。
 となると、裁判という場の意義自体が少々違っているとも考えられます。そこに呼び込まれた民間人の立場も、やや異なるものになる可能性があります。
 また、裁判官もよほどのことがない限り、求刑に対して情状酌量をつけるのが普通であるようです。それを見越して検察側は少し重い求刑をする習慣になっているという話もありますが、いずれにしろたいていの場合は求刑より軽い量刑になるようです。そして近年はむしろ、国民感情としては量刑が軽すぎるんではないかと思えるケースが増えています。
 それやこれや考え合わせると、裁判員という民間人を入れることで、かえって量刑が重くなったりして、被告に不利になってしまうということもあり得る話です。本来、裁判に民間人を関与させるのは、権力者の不当な圧力から民衆を護るという意味合いがあったはずなのですが、さてわが国ではどんな形になることでしょう。

 私に言わせれば疑問の多い形とはいえ、ともあれ国民が司法に携わるというのは一歩前進と言えるでしょう。「陪審制は民主主義の学校」という言われ方をすることもありますが、今回のような形にしても、「民主主義の幼稚園」くらいの効果は上がるのではないでしょうか。
 報道によると、6割くらいの人が「裁判員になどなりたくない」と言っているそうですが、これは事前のアピールが少なすぎたからだろうと思います。
 もちろん、「他人を裁く」ことへのプレッシャーを覚えるのは当然で、できればそんなことはやりたくないと思うのが人情でしょうが、自分のやりたくないことだからお上に任せておけというのでは、無責任というものです。人を裁くことの痛みも、みんなが味わっておくべきことかもしれません。

(2004.3.2.)

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