忘れ得ぬことども

「伴奏」という仕事

 私の名刺の表は日本語、裏は英語で刷ってあります。英文面を使うことなど滅多にないのですが、まあちょっとした気取りですね(^_^;;
 肩書きには一応「作曲 編曲 ピアノ」と書いています。どこかから地位を貰っているわけでもなんでもないので、肩書きなんかつけても仕方がないかとも思うのですが、まあ営業上、こちらの正体が相手にわかっていた方がよいでしょうから、付け加えました。
 作曲家にしても編曲家にしても、なるのに資格が要るわけでもありませんので、そう名乗るのは勝手です。ただし、新聞ダネになったような場合、そのままでは「自称作曲家」などと書かれてしまいます。作曲家協議会などのメンバーであるとか、JASRACのメンバーであるとか、少なくともCDや楽譜がしかるべき出版社から出ているとかしないと、この「自称」はとれないそうです。CDとか楽譜にしても、自費出版では認められません。
 私はまだ作協に入会の手続きをとっていないし、JASRACには次のオリジナル楽譜が出版されてから加入しようと思っているのでこれもまだメンバーになっていません。かろうじて編曲譜を含む楽譜が6冊ほど出版されているので、「自称」無しで記事になり得るわけです。まあ新聞ダネになどならないに越したことはありませんけどね。

 作曲・編曲はそれでいいとして、最後の「ピアノ」の話をするつもりでした。
 これ、英文面には「Accompanist」と記してあり、「Pianist」とはしてありません。accompanyは伴奏をすることですので、accompanistは「伴奏家」と訳すしかないようです。日本語ではどうもこの言い方が熟さないので、日本語面には単に「ピアノ」と書いてあるわけです。
 外国では例えばジェラルド・ムーアのような卓越したアカンパニストがおり、その人に伴奏して貰えるだけでソリストの格まで上がるなんてこともあります。わが国でも小林道夫氏などがそれに近い存在と言えますが、どうも日本語の「伴奏」という言葉には「従属したもの」というニュアンスが感じられるのか、伴奏家、伴奏者という言われ方を喜ばない人が多いようです。
 現実問題として、ソロピアニストが活躍できる場など、そんなに多くはありません。全国の音大のピアノ科からは毎年何百人もの卒業生が吐き出されてきますが、プロのソロピアニストとしてお金をとれるだけの演奏ができる人などごく限られています。大半は、街のピアノ教室の先生などをやりつつ、時々相乗りの持ち出しコンサートに出演し、生涯に一度か二度、採算抜きのリサイタルでも開ければ御の字といったところです。
 一方、アンサンブルの一員としてのピアノ、もしくは独唱や楽器の伴奏としてのピアノの需要は衰えることがありません。ほとんどどんな楽器でも、独奏しようとすればたいていの場合ピアノの伴奏が必要になりますし、歌ならなおさらです。仕事の機会は、ソロピアノとは比較にならないくらい恵まれています。
 それを考えると、音大のピアノ科で、ソリスト教育ばかりおこなっているのはまったくバカな話で、学生の将来を考えているとはとても思えません。アンサンブルピアノや伴奏ピアノは、ソロが弾ければ簡単にできるというほど甘いものではありません。喩えて言うなら、選手とコーチの差くらいな差があります。名選手が必ずしも名コーチになり得ないように、あるいは卓越した武芸者が必ずしも名将とはなり得ないように、全体のバランスを見ながら他人と息を合わせてゆくという仕事は、独奏とはまったく別のものです。
 音大でも「伴奏法」という授業はありますが、時間数も少ないし一体におざなりです。学生の卒業後のことを考えれば、伴奏法にこそ力を入れるべきだと思うのですが。
 ともあれソリスト教育ばかりやっているので、卒業すればみんな自分は「ピアニスト」であると思いますし、「伴奏者」と言われるとなんだかバカにされたような気がするようになってしまうのです。
 ──ソロでやる実力がないから他人の伴奏なんかしているんだ。
 という意識だか無意識だかが拭えないのですね。実際に伴奏の仕事くらいしかしていない人でも、
 ──伴奏は仕方なくやっているけど、わたしは本当はソロピアニストなんだ。
 と内心では思っている人が大半なはず。

 そんな有様なので、例えば演奏会のチラシなどに、「伴奏」とか「ピアノ伴奏」とか書かれることを大変いやがります。「伴奏」ではなく「共演」なのであって、従って「ピアノ」と書くべきだ、と考えるわけです。
 確かに「××とピアノのための○○○」というようなタイトルの曲も多いですし、私自身の作品でも、ピアノが含まれていれば、伴奏というよりも協奏というつもりで、つまり独奏楽器、独唱者、合唱などとほぼ同格という意識で書いていますから、「共演」だという主張は、それはそれで筋は通っていると思います。
 また、ハイドンモーツァルトなどのヴァイオリンソナタを見ると、しばしば「ヴァイオリンの助奏を伴うピアノのためのソナタ」と記されていたりします。当時はピアノの方が主役と考えられていたのでした。だから、伴奏という言い方はおかしいという主張も、まああながち見当はずれではありません。
 要するに好きな方、あるいは妥当だと思う方を採ればそれでよいのだと思いますが、これが団体のことになると面倒な議論になってしまいます。
 私は具体的な事例を頭に置いています。板橋区演奏家協会の9月の演奏会が、ソロピアノと独唱の会ということになっているのですが、独唱の伴奏をするのはソロで弾く人とは別人なので、チラシの第一稿には

   ピアノ/×××× △△△△
   ソプラノ/☆☆☆☆  メゾソプラノ/◇◇◇◇
     
伴奏/++++ ****
 
 とまあそんな具合に記されていたわけです(実際には少し違いますが、模式的に考えてください)。
 実を言えばこの「伴奏」のひとりが私であって、私自身はこの表記でまったく問題はないと思ったのですが、会議の時に抗議の声が上がりました。「伴奏」と書くのはまずいだろう、と言うのです。「ピアノ伴奏」でもダメで、結局「ピアノ」という書き方に変えられることになりました。
 ソロピアノと区別がつかなくなるし、なんだかおかしな見てくれになってしまうのではないかと指摘があったものの、
 「実際にコンサートに行けば、誰がソロで誰が伴奏かはわかるから」
という、よくわからない理由で却下。
 言い出したのはサクソフォーン奏者でしたので、
「それならピアノ専攻の人たちに訊いてみよう」
というわけでその場にいた「ピアニスト」たちに訊ねたところ、一も二もなく「ピアノ」表記に賛成、というわけで変更することに決定されました。当の伴奏者である私だけが、いまだに首を傾げています。

 この話に、別に結論はありませんが、「伴奏」というのはピアノ弾きの意識の中で、それほどにイメージの悪い、格の低い仕事であるのだろうかと不思議に思った次第。
 ソロをやりたいのに伴奏の仕事しかないから、余計「伴奏」という言い方を嫌うのだろうな、と漠然と理解はできるのですけれど。
 そう言い出せば私が名刺にaccompanistに対応する日本語として「ピアノ」と書いているのもいくぶん陋劣であると言えないこともないわけですが、少なくともpianistと別個のaccompanistという存在であることに私はそれなりに誇りを持っているつもりではあります。
 まあ、それ以前にcomposerでありたいものですが。

(2001.5.27.)

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