あるサイトの掲示板で、日本刀についていろいろ熱く(暑苦しく、という説もある)語ってしまいました。真剣を持ったこともないし、刀剣史に詳しいわけでもないのですが、歴史愛好者としてはいろいろ情報を得ることもあり、通説が案外あてにならないこともわかったりします。2003年の大河ドラマは「武蔵」だそうですし、このあたりでちょっと日本刀についてのおさらいを……
そもそも宮本武蔵は何が凄かったのかということになると、意外と曖昧だったりもします。吉川英治の小説で描かれた武蔵は真摯に過ぎるほどの求道者として造形されていますが、あれはどちらかというと、吉川英治が自分の理想像のようなものを宮本武蔵という歴史上の人物に仮託して作り上げたキャラクターと見るべきでしょう。 凄腕の剣客であったことは確かですし、画家としても一流で、二天という雅号で遺した絵を見ると、その精神の持つすさまじい迫力が伝わってくるのも事実です。ただ、本物の合戦となるとあんまり役に立たなかったようです。若い頃の関ヶ原の戦いでも、その後の大坂の陣でも、うしろの方でうろうろしていただけのようですし、晩年になって加わった島原の乱討伐では、情けないことに城壁の上から落とされた石にぶつかって足を怪我してしまい、ついにその剣の技を活かすことはできなかったのでした。
当時の剣客というのは大体そんなもので、合戦で活躍したという人はあんまり聞きません。弓矢や鉄砲、長槍で戦われる合戦の場に、刀をふりかざして乗り込んでも大したことができないのは、ちょっと考えればわかることです。 しからばその剣技がどうだったかというと、誰でも知っているように二刀流を編み出しています。 右手に大太刀を持ち、左手に小太刀を構える二刀流の雄姿はよく知られていますが、しかし一本の太刀で戦うよりは二本あった方が当然有利と思われ、なぜ武蔵より前の剣客が二刀流を編み出さなかったのかという方が不思議です。 実は、編み出したくてもそう簡単に編み出せるものではなかったのでした。なぜなら、日本刀というのはものすごく重いのです。 学校の授業でちょっとだけ剣道をやったことがありますが、なんの機会だったか、木刀を持ってみました。稽古に使っている竹刀よりは遙かに重いので驚いた憶えがあります。そして考えてみれば、木刀の刃の部分が、真剣では鉄であるわけです。木刀の何倍も重いはずです。真剣勝負というのは、鋼鉄の棒を振り回していることになるのだというあたりまえの事実に気づいて愕然としたものでした。 大太刀を片手で扱える者など、そうそういるわけがないのでした。よほどの怪力でないと、逆に刀に振り回されてしまうみたいなことになってしまうことでしょう。 宮本武蔵の凄さは、後世精神修養みたいになってしまった剣術〜剣道の見地から見てどうこういうことではないのであって、実に大太刀を片手だけでぶんぶん振り回せる、そのとてつもない腕力にこそあったのでした。おそらく彼は、その腕力にものを言わせて、力任せに相手をぶった斬っていたのでしょう。 これに対する佐々木小次郎の方は、決め技の燕返しというのが史実でないにしても、そういう名前の技を与えられたところを見ると、パワーよりもむしろスピードで勝負するタイプの、どちらかというと小柄で非力な剣客であったように思われます。巌流島の決闘が本当にあったとしても、スピードを活かした小次郎の小技は、武蔵の圧倒的な「剛腕」の前に粉砕されてしまったのではあるまいかと想像されます。 なんとなく興醒めな解釈かもしれませんが、史実としてはその辺が妥当であろうと考えます。
日本刀は江戸時代の泰平期を通じて、「武士の心」として象徴化してしまいました。そのためいつしか、必要もない神秘性が付加されて行ったように思います。のちの大日本帝国陸軍までがその神秘性に酔い、何か人智を超えた呪力のようなものを日本刀に感じていたらしいのは笑止な話です。いや、現在でもけっこう同じように思っている人は多いのではないでしょうか。 例えば、日本刀は刀剣としては世界最強であると信じている人は少なくないのではないかと思われます。形も使用法も違ういろんな刀剣の、何を基準に強弱を決めるのかは微妙ですが、まあ単純に、異種格闘技のようにサーベル、レイピア、フレールといった各国の剣を携えた剣士とと試合をすれば、日本刀を構えたサムライが必ず勝つと思っていたり。何しろ大和魂が宿っているのですからね。(^_^;; 13世紀の元寇の時に、攻め寄せてきた元軍が使っていた青龍刀より日本刀の方が圧倒的に強かったのは事実のようです。これは当然のことで、青龍刀というのは古来、鋳型に溶けた鉄を流し込んで量産する、つまりは鋳物なのでした。従って非常にもろく、切れ味も悪かったのです。仮にも鋼鉄である日本刀の方が強いのはあたりまえでした。とはいえ、元軍は青龍刀を主武器として戦ったわけではなく、鉄炮(てっぽう)と呼ばれる手投げ弾や、現代のボウガンに近いような強力な半弓で日本軍をさんざん悩ませたのですから、せっかくの刀の性能差もあんまり意味はなかったようです。 もっともこの性能差については中国側も納得するものがあったらしく、その後の明代になると、日本からの主要な輸出品のひとつが刀だったのでした。室町時代の日本はかなり大規模な武器輸出国でした。 ところが、いざ合戦となると、あんまり刀が使われた形跡がないのです。上述した、剣客がさっぱり合戦の役に立っていないということにも通じますが、実はおおかたの印象とは逆に、日本の合戦では刀で斬り結ぶなどということは滅多にしなかったらしいのです。 「謎とき日本合戦史」(鈴木眞哉著・講談社現代新書)という本を読むと、日本人が白刃を振りかざして戦っていたなどというのは幻想で、むしろ一貫して遠距離攻撃指向であったことが丁寧に論証されています。鈴木氏は多くの軍忠状という史料を調べてこの結論に達しました。これは合戦の後に、主君から論功行賞をして貰うために武士が提出した書類で、どこにどういう傷を負ったかなどということも克明に記されているのだそうです。それによると、合戦の負傷の8割方は矢傷であり、鉄砲伝来後は鉄砲傷がそれに加わっているものの、刀傷というのは問題にならないくらい少ないとか。刀で斬られると致死率が高いだろうから、負傷の記録には入っていないのではないかという疑問に対しても、それを計算に入れたとしてさえ刀による死傷はごくごく少ないという結果が出たらしい。 日本刀は実は案外折れやすく、時代劇でやっているようにチャンチャンバラバラ打ち合ったりするとたちまち折れてしまうのが実際のところのようですし、そうでなくても、2、3人も斬ればもう血糊と刃こぼれで切れ味はがた落ちだと聞いたことがあります。戦場でそんな武器を使っていればどうなるかは容易に想像がつきますね。一対一の試合ではないのです。いくらも経たないうちに刀は全然切れなくなり、そこへ敵兵が殺到してやられてしまうのが関の山です。 実際の合戦では、弓矢や鉄砲でほぼ勝負がついてしまい、不利な方が退却するというのが常だったようです。接近戦がおこなわれるとしても主武器は槍で、訓練された槍隊相手には、どれほどの剣豪だろうとひとたまりもありません。そもそも槍の間合いと刀の間合いでは比較になりませんから。もし槍の切っ先をかわして敵の内懐に飛び込むことができたとしたら……隣の槍士にやられるだけのことです。繰り返しますが合戦というのは一対一の試合ではありません。 戦場で刀が使われたのは、やっつけた敵の死体から首を切り取る時がほとんどだった、というのが鈴木氏の主張です。
幕末の「人斬り」と呼ばれた河上彦斎、岡田以蔵、中村半次郎(桐野利秋)といった連中は確かに日本刀を使って人を斬っていましたが、時代劇の主人公が毎週斬っている人数よりは遙かに少数の相手しか斬っていませんし、何より彼らはチャンバラなどしていません。常に相手の不意を衝き、相手が刀を抜く間もなく斬り殺してしまっています。のちに西郷隆盛の懐刀になった桐野こと半次郎を別として、彼ら「人斬り」にどうしようもなくつきまとう暗さは、そういういわば「卑怯な不意打ち」ばかりしていたところにあるのでしょう。裏を返せば、卑怯な不意打ちでもない限り、刀で人などそうそう斬れるものではないということにもなりますね。新撰組も、常に襲う対象の相手より多い人数を用意したからこそ勝っていたのであって、彼らの剣術がすぐれていたからではありません。
そんなこんなで、どうも日本刀というのは、幻想ばかり肥大してしまったところがあるようですが、しかし確かに弓矢や槍に較べると、絵になるのは圧倒的に刀なんですね。時代劇でも刀だからこそカッコいいのです。かくて、世界最強の日本刀という神秘的なイメージが拡大再生産されることになるのでした。
(2002.12.7.)
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