忘れ得ぬことども

山陽地方乗り潰しの旅

 先月の名古屋行きの時に使った青春18きっぷが、まだ2日分残っていました。4600円に相当しますからおろそかにはできません。しかしながら、使用期限は9月10日ということになっていて、さっさと使わないと無駄になります。冬もしくは春の通用期間に持ち越すということはできないのでした。
 このところ仕事が立て込んでいて、なかなか青春18きっぷを使う機会が見つけられなかったのですが、かろうじて先週末に仕事が一段落し、この月曜火曜がオフにできることがわかりましたので、なかば無理矢理の観もありましたが出かけて参りました。

 さて、どこへ行くかという問題があります。日本中のJR普通列車(快速を含む)にフリーパスで乗れるわけですから、足の向くままになんとなく出かけ、気が向いたところで途中下車したり乗り換えたり、というのも魅力的です。
 しかし、どうも以前からひっかかっているところがありました。私は北海道と四国のJR路線にはすでにすべて乗っていますし、本州もほとんど踏破しました。九州だけはまだだいぶ残っていますが、それはいずれある程度の期間の暇を見て乗り潰したいと思っています。気になっていたのは、本州の「ほとんど」の残りの部分です。具体的に言うと、呉線・可部線・岩徳線の3線区だけが未乗だったのでした。
 この3線区はいずれもJR西日本に属し、しかも山陽地方にあります。山陽地方というのは昔からどうも乗りに行きづらいところで、ワイド周遊券健在だった頃も、山陰ワイド周遊券というのはありましたが、山陽地方を対象にしたフリーパス切符というのは設定されていなかったのでした。それでも機会を見つけてはなんとか乗り潰していたのですが、この3線区だけはいまだに機会がなく、未乗のままになっていました。
 3線区とも、普通列車しか走らない路線でもあります。青春18きっぷが残り2日分、普通列車のみ走る未乗線区3つ、というところで連想がつながり、山陽地方へ出かけることに決めました。これで九州を除くJRは完全制覇ということになります。なお、可部線の可部──三段峡間が、もうじき廃止されるという話も、今回の追い風となりました。

 とはいえ、山陽地方に普通列車だけで行こうとするとそれだけで2日くらいはかかってしまいます。東京を初発の5時20分の列車で出たとしても、広島までたどり着くのが精一杯で、あまり面白くありません。それにせっかく広島あたりまで行くのなら、アストラムライン広島電鉄にも乗っておきたい気がします。
 そこで、前夜発の寝台特急「あさかぜ」に乗ることにしました。ブルートレインの元祖で、かつては「走るホテル」と呼ばれ、有名人や大物政治家で賑わった列車ですが、凋落の一途をたどり、今では行楽シーズン以外には乗客も少ないしょぼくれた列車になってしまいました。食堂車は愚か売店や車内販売すらないのですからわびしいものです。私は5時30分着の三原で下りて「あさかぜ」を見送りましたが、後部の車輌には全然客が乗っていませんでした。
 三原で下りたのは、呉線の始発駅だったからです。初発である6時06分の電車を待ちました。やって来たのは103系という、かつて山手線なんかに使われた旧型の国電タイプで、もちろんロングシートだったのでがっかりしました。そのシートも古くて、なんだか坐り心地がよくありません。運転士は珍しく女性でした。最近、女性車掌はJRにもだいぶ増えてきましたが、女性運転士はまだあまり見かけないようです。
 呉線は単線ですが、かつて呉に軍港があった時代には大いに活躍した路線だけあって、駅はどれも堂々として立派なものでした。竹原を過ぎるとだいぶ乗客が多くなってきます。そろそろ広島への通勤圏なのでしょう。

 広島に着いて外に出ると、すぐ目の前に広島電鉄の路面電車のターミナルがあります。3線ほどにも分岐し、乗車と降車のためのプラットフォームを分け、路面電車の停留所とは思えない大がかりなものでした。路面電車が各地で衰退する中、広島市は逆手をとってこれを市内交通の主力と位置付け、優先的に走らせています。広島市くらいのサイズと人口を持つ都市には、地下鉄などよりもむしろ路面電車の方がふさわしいという判断なのでした。海外では、市内は路面電車として走り、郊外に出ると専用線を高速で走るようにしたいわゆるLRT(ライト・レール・トランジット)が各地で投入されて、一時は絶滅かと思われた路面電車が息を吹き返していますが、日本では本格的なLRTと呼ぶべきなのはこの広島電鉄の宮島直通線くらいなものです(福井鉄道も若干それに近いが)。
 広電にはあとで乗ることにして、案内所で一日乗車券(600円)を購入しただけで駅へ戻りました。地下街で朝食を摂ってから、8時46分の可部行き電車に乗り込みます。またも旧型国電タイプでした。転換クロスシートの車輌もちょくちょく走っているのを見かけるだけになんとなく悔しい気がします。
 可部線は、広島から17キロほどの可部までが電化されており、広島近郊エリアにも含まれています。しかしその先45キロ余りは非電化のローカル線で、盲腸線ということもあって収益が悪く、地域住民の熱烈なる反対運動にもかかわらず、このたび廃止されることになったものでした。JRとしては久々の大型廃止であり、一応は儲かっているはずのJR西日本が、全体から見れば微々たる赤字に過ぎない可部線非電化部分を、この期に及んでなぜ廃止しなければならないのかとだいぶ議論にもなりましたが、民営会社である以上はやむを得ないかもしれません。
 ところが、可部で先へ行くディーゼルカーに乗り換えてみると、大混雑。ラッシュ並みとは言いませんが、立っている客がかなり多く、しかも終点三段峡までの1時間半の行程中それがほとんど減りませんでした。こんなに盛況なら、廃止しなくても良さそうに思います。車中の人々の話を聞いていると、8月中と週末には2輌つなげて運転していたのが、9月の平日という閑散期に入ったので単行(1輌だけ)にしたらこの始末だとか。
 廃止が間近いので乗る人が増えたという現象でもあるでしょう。ざっと数えて、鉄道マニアの若者、いわゆる「鉄ちゃん」が、総勢15名くらいは乗っていたようです。同好の士ですから、大体匂いでわかります。鉄道マニアを相手に日常の商売をするわけにゆかないのも、残念ながら事実です。しかし彼らを差し引いても、乗客は決して少なくはないように思われました。
 三段峡の駅は、三段峡という景勝地への入り口だというだけで、景勝地がすぐ近くにあるというわけではありません。そちらの方面へ行くマイクロバスが駅前に停まっていて、乗りたいような気もしましたが、先を急ぐのでそのまま引き返しました。15名ほどの鉄ちゃんたちもみんな引き返したようでした。

 帰りは途中の大町で下り、新交通システム「アストラムライン」に乗ってみました。広島県庁近くの本通(ほんどおり)から西北部の広域公園前までの路線です。どうも、普通の鉄道にして広電と直通運転させた方がましではなかったかと思うのですが、新交通システム大流行の時期に、広島でも流されてしまったのでしょう。JRとの接続は大町だけで、ほとんど意識していないようです。そもそも可部線の大町駅自体、アストラムラインとの接続のために新設されたようで、むしろJRの方が追従しているのでした。
 まず終点の広域公園前まで行き、それから引き返して本通へと乗りましたが、沿線はすべて住宅地で、広島の市域がずいぶん広いことを思い知らされました。
 本通から、いよいよ広電乗り潰しを始めます。この際だから全路線に乗ってしまおうと思って一日乗車券を入手しておいたのでした。
 路面電車が残っている都市はいくつもありますが、路線網と言えるほどの充実ぶりを見せているところはそう多くありません。分岐がひとつでもあればいい方で、札幌・東京・富山などのようにたった1本になってしまったところもあります。路線網と呼べる規模を持っているのは広島と長崎くらいでしょう。それだけに乗り潰しにもいろんなルートが考えられて面白いのです。
 本通からまず1系統で広島港へ向かい、5系統で広島駅へ戻り、八丁堀で下りて9系統(白島線)を往復しました。広島最大の繁華街である紙屋町の近辺が少々ややこしくて、紙屋町東・紙屋町西の両停留所と本通とが三角形を作っています。東西の紙屋町は通りを挟んですぐなので同一と見なしてもよいようなものなのですが、一応完全を期し、東停から本通へ行き、そこから折り返して西停へ行き、西停からは地下道で東停まで歩き、ふたたび先へ向かいました。これで遺漏なく完全踏破ということになります。
 紙屋町東で最初に来た6系統の電車に従って江波(えば)まで行き、8系統で折り返して横川駅へ、また折り返して十日市町で途中下車し、あとは宮島直通(2系統)で広電宮島口まで走りました。広島在住の人でもないとわけがわからないと思いますので、読み飛ばしておいてください。ともかくこうして全線踏破するのに、かれこれ4時間ほどかかりましたから、広島の路面電車網の充実ぶりがわかろうというものです。その間、電車が来なくてイライラしたというのは一度しかありませんでした。各系統が7〜10分おきに走っており、その上ほとんどの区間で2系統以上がだぶっているので、おおむね2、3分も待てばどこ行きかの電車は来るようになっているのでした。特に広島駅から紙屋町までなどは、ひっきりなしと言ってよい頻度です。

 西広島が鉄・軌境界駅となっており、路面電車(軌道)から近郊鉄道になります。昔は鉄道線だけの電車も走っていましたが、現在ではすべて2系統からの直通となり、鉄道電車用の高いプラットフォームが無用の長物となりました。すでに撤去した駅もあるようです。
 本格LRTの名に恥じず、Green Moverと名づけられた5000系連接電車は鉄道線に入るとなかなかの快速を発揮します。急行運転もした方がよいと思うのですが、追い抜き設備のある駅がないので当面は無理でしょうか。
 宮島口まで行きましたので、ついでに宮島航路宮島にも渡ってきました。昔は4路線(青函、宇高、宮島、仁堀)あった国鉄連絡船も、次々廃止されて、今ではこれだけです。片道わずか10分、青春18きっぷでも乗れる設定になっているので、鉄道線ではありませんが乗り潰しておきます。
 桟橋から見ると宮島はいかにも近く、大きめの川の対岸のようにさえ見えました。これだけ近い海峡を逃げ切ることができず、毛利元就の奇襲の前に散った陶晴賢(すえはるかた)の無念やいかばかりかという気がいたします。
 距離のわりにはいやに立派なフェリーで海峡を渡ります。同船した初老の婦人がたが、最近宮島で起こったらしい事件について話し合っていました。
 「だからあんな時は、さっさと桟橋を封鎖してしまえば逃げらんなくなるってのに、うろうろ現場検証なんかに手間取ってるから逃げられちまうのさね」
「ああいうのは、逃げ方までしっかり考えてやるんだろうねえ」
どんな事件だったのかはよくわかりませんが、島での事件というのは独特なものがあるようです。
 宮島に着いてみるともうあたりは真っ暗で、まだ午後7時くらいだというのに何やら寝静まったように静かです。トイレへ行き、あとは待合室で本を読んでいるだけで、私の宮島初上陸は35分で終わりました。

 その晩は岩国まで行って泊まり、翌朝の錦川鉄道のレールバスに乗ります。錦川鉄道はもと国鉄岩日線ですから、今回の乗り潰しにも入れておきました。錦川の右岸をひたすらに遡ってゆく路線で、川沿いの路線にしてはただの一度も川を渡らず、常に一方に川が見えています。いっそのこと、座席は全部川の方を向けて配置したらどうかと思いました。
 岩日線というのは、岩国と山口線日原(にちはら)とを結ぶつもりだったので名づけられた名前でしたが、途中の錦町までで工事がストップしたのでした。錦町から日原までは現在では錦町営バス六日町営バスが結んでいて、私もそれで日原まで抜けてみようかとも思ったのですが、どちらも一日3〜5往復しかない閑散路線、しかも六日町における両者の接続がまるっきり図られておらず、こちらが六日町に到着した30分前に向こうが発車してしまっているというていたらくなので、諦めました。
 錦町まで行ってみると、その先十キロばかりの工事区間を見学できる「岩日北線記念公園トロッコ遊覧車」なるものが走っていることがわかりました。ちょっと気になりましたが、週末だけの運転になるようです。その「駅」だけ見に行きました。線路は撤去されているので、正しくはトロッコではなく、トロッコ風自動車が走ることになるようです。40分ほど走って、雙津峡(そうづきょう)温泉というところまで行くそうですが、せっかく温泉場まで行くのであれば、日原までとは言わないまでも、その温泉まで線路を延ばしておけばよかったように思うのは私だけでしょうか。

 錦川鉄道をそのまま戻って、JR岩徳線との分岐駅川西で下りました。分岐駅にしては片面プラットフォームしかない実に簡素な駅で、附近にもなんにもありません。ただ、宇野千代の生家がこの近くだそうなのと、有名な錦帯橋(きんたいきょう)の最寄り駅らしい。錦帯橋までは駅から1キロほど、歩ける距離だし、そうでなくても岩国からのバスが頻繁に通っているのですが、微妙に時間が足りません。ここまで来て錦帯橋を見ないでゆくのもどうかと思うのですが、見に行っていると帰れなくなってしまいます。岩徳線の本数が少なすぎ。
 岩徳線はもともと、山陽本線として敷かれました。実際戦前はこちらが本線で、今の柳井とか下松とかを通るのは海岸線とか柳井線とか呼ばれた支線でした。だから呉線同様、駅などは本線並みの立派な構えを持っています。
 沿線に市こそありませんが、玖珂(くが)町も周東(しゅうとう)町もそれなりの町ではありますし、車窓も決してひなびてはおらずそこそこの住宅地が続きます。やりようによってはもう少し活性化できる路線なのではないかと思います。さっきの川西だって、「錦帯橋最寄り駅」ということをもっとアピールして、駅からの遊歩道を造るなりしてもっと頻繁に列車を走らせれば、バスの客を結構呼び返せるのではないでしょうか。

 徳山から小郡へ。小郡は来月から「新山口」と改称するそうです。山口駅より古いのに、無理のある改称だと思います。由緒ありげな駅名が、またひとつ消滅するのでした。
 その老い先短い小郡から山口線のディーゼルカーに乗り、山口へ。歴史のある街ですが駅前は平凡で、昼食を摂ろうと思ったのですが然るべき名物料理の店などもなさそうでした。仕方なく駅前のインド料理屋に入り、カレーを食べました。
 山口からさらに先へ。ところどころの駅に、草書体みたいな字を右書きにした駅名標があることに気がつきました。何かと思ったら、「SLやまぐち号」の停車駅だけ、こういうレトロチックな趣向を凝らしているらしい。そういえば小郡駅の山口線発着プラットフォームは、レンガ壁めいた化粧板を張り巡らせ、黒板に白地で縦書きにした発車時刻表を掲示したり、ひたすらレトロ調の演出をしていました。やまぐち号の走らない津和野から先にはそういう趣向はしてありませんでした。
 益田で少し待って、山陰本線快速「アクアライナー」に乗り、出雲市で寝台特急「サンライズ出雲」に乗り継いで帰ってきました。アクアライナーは行き違いの関係で十数分遅れてしまいました。「サンライズ出雲」はアクアライナーの到着を待ってくれましたから、乗り継ぎには問題がなかったものの、出雲市で駅弁を買って寝台車に乗ろうという目論見はご破算になりました。そして「サンライズ出雲」は例によって、食堂車なし、車販なし。というわけで夕飯を完全に食べ損ないました。せっかくの個室寝台車で、食べるものがないのはなんともわびしい限りです。自動販売機コーナーがあるので、ジュースだけではなく、高速道路のサービスエリアにあるような、カップ麺など軽食の自販機も備え付けておいてもらいたいものです。かなり利用者はあることでしょう。

 青春18きっぷは申し分なく使いきりましたが、しかし4600円分の青春18きっぷを無駄にしないために、往復寝台車とホテル一泊、しめて4万6千円余り費やした私は、どうもかなり重症の阿呆であるような気もしないではありません。

(2003.9.10.)

トップページに戻る
「商品倉庫」に戻る
「忘れ得ぬことども」目次に戻る