忘れ得ぬことども

オペラの台本について

 このところ「フィガロの結婚」のオペラ公演に関わっていました。全曲公演ではなくハイライト公演で、オケも小編成のものでした。それゆえにまたいろいろ作業が必要だったりします。小編成オケ用の編曲がそのひとつ。
 また、時間に限りがあるため、フィガロの出生の秘密という筋をばっさりと切って短くしていました。そのため上演用台本を書き直す必要があり、私がそれをやったものの、不評なのではあるまいかと心配いたしました。しかしむしろ、複雑すぎるストーリーが整理されてわかりやすかったという意見が多かった模様です。
 「どんな話なのか、ようやくわかりました」
とアンケートに書いた人も。
 「フィガロの結婚」は、タイトルになっているフィガロとスザンナの結婚にまつわる筋、伯爵夫妻の間の波風にまつわる筋、それに上記のフィガロの出生の秘密にまつわる筋が複雑にからまり合い、なおかつケルビーノという人物が3つの筋全部にちょっとずつ関係していて、すこぶるややこしいことになっています。ボーマルシェの原作は長編小説ですから問題ないとして、台本のダ・ポンテはよくも要領よくまとめ上げたものだと感心します。
 しかし、オペラとしてはどう考えても複雑に過ぎるようです。長い話を、最後まで音楽的テンションを落とさずに持って行ったモーツァルトの天才は認めるにしろ、物語の全体像というのは一度見ただけではつかみきれないのではありますまいか。

 オペラのストーリーというのは単純なほうが良い、と言われます。
 聴客は「物語」を見に来るのではなくて、音楽を聴きに来るのだから、筋が複雑だとそちらのほうに神経を使ってしまい、肝心の音楽のほうがお留守になってしまう、というわけです。
 それゆえ、オペラのパンフレットには、ストーリーがかなり微細にわたって解説されている場合が多く、極端になると台本がそのまま全部掲載されていたりするのでした。ネタバレもいいところです。
 まあ、ベルカントで歌われる言葉は聴きとりづらいことが多く、耳で聴いているだけでは話が全然わからなかった、などということにもなりかねませんから、それも仕方のないことでしょうが。これ、日本語だとダメだとか、日本人歌手の発音がわかりづらいとかいう話ではないようで、最近ではすっかり定着した字幕装置を、ドイツとかイタリアへ持って行って、ドイツオペラやイタリアオペラをドイツ語とかイタリア語とかで表示したところ、とても好評だったそうです。つまりドイツ人もイタリア人も、自国語のオペラでも実は何を言っているのかわからない人が多かったことが判明したのでした。
 ともあれ、ただでさえ聴いているだけではわかりにくい上に、筋が複雑となると、字幕を読んでいてもこんがらがってしまいます。
 そこでオペラの台本の鉄則は、シンプルであること。
 基本的には男女の愛がテーマだとすると、ひと組の男女を中心に持ってきて、あとの事件は付随的に発生する程度のことにしておかなければなりません。「ボエーム」「カヴァレリア・ルスティカーナ」なんかは男女ふたりずつ、計4人が中心になっているように見えますが、本当に重要なのは中のひと組だけです。

 そもそも「歌われる台本」となると、普通の演劇の台本と較べ、同じ分量なら3倍から5倍くらいの時間を必要とします。現代ではあまりの長大作品は、特に新作の場合嫌われるので、正味(休憩など除いて)2時間というあたりがいい線。正味2時間半となると、長いなあという気分になってきます。
 演劇の台本に換算すれば、30分ものの短編芝居分のテキストがいいところで、これではそんなに筋を複雑にしようもないのでした。もちろん、音楽を介することで、少ない台本で多くのことを伝えることが可能ですから、その点は差し引く(加算する?)必要がありますが。
 なお、昔のオペラでは「ノドを聴かせる」アリアと「話を聞かせる」レチタティーヴォがはっきり分かれていて、モーツァルトのなんかでもそうですけれども、レチタティーヴォの部分はほとんど普通にしゃべるのと同じくらいの速度でセリフが語られます。これならかなり長いテキストでも消化できたと思いますし、レチタティーヴォは一般にチェンバロなどで軽く伴奏されるだけだったので、言葉が聞き取れないということもまずなかったでしょう。
 そういうレチタティーヴォを廃して、すべてのテキストをしっかり歌にしてしまったオペラの最初のものがヴェーバー「オイリアンテ」だと言われます。彼の最後のオペラ「オベロン」のひとつ前の作品です。この時は単発的な実験で終わったようですが、やがてヴァーグナー無限旋律と称して大々的にやり始めました。ちなみにこの「無限」は英語で言うとinfinit「無限大」ではなくunlimited「限定されない」という意味ですのでお間違いなきよう。
 ヴァーグナーの影響力はものすごくて、それ以後、古典的な形のレチタティーヴォはほとんど姿を消してしまいました。
 ということは、テキストがなかなか消化できなくなったという意味でもありました。

 バロック・オペラのアリアというのはたいていはダ・カーポ・アリアと言って、Aという部分とBという部分を歌ったらばもう一度Aにもどってそっくりそのまま繰り返す、という形式をとっていました。それで大体、おそろしく長くなってしまったものです。バロック・オペラというのは4時間5時間かかってあたりまえという作品が多くて、現代あまりフルな形で上演されることがないのもうなづけるのですが、その長大なアリアでどのくらいストーリーが進んでいたかというと、実は大したことがありません。ごくちょっとのことしか歌っていないのです。
 有名な「ヘンデルのラルゴ」こと「Ombra mai fu 樹の陰で」のテキストを掲げてみましょう。この曲はダ・カーポ・アリアではありませんが、大体のバランスを知ることはできます。

Frondi tenere e belle
del mio platano amato,
per voi risplende il fato;
tuoni, lampi e procelle
non V'oltraggino mai la cara pace,
ne giunga a profanarvi austro rapace!
私の愛するスズカケの樹の
柔らかく、美しい葉よ、
運命はそなたらに輝いている。
雷鳴や、稲妻や嵐が
けっしてそなたらの平安を乱すことなく
欲深い南風もそなたらを冒すことがないように。

 と、ここまでがレチタティーヴォです。これに対してアリアの部分はどうなっているかというと、

Ombra mai fu de vegetabile,
cara ed amabile, soave piu.
樹の陰で、こんなに
穏やかでいとしく、心地よいものはなかった。

 と、たったこれだけなのでした。これだけのテキストを何度も繰り返して歌っているに過ぎません。
 本来のオペラの台本というのは、言ってみれば「歌物語」のようなものではなかったかと思うのでした。「伊勢物語」をイメージしてください。かなり長い「詞書(ことばがき)」があって、それだけでほとんど独立したストーリーになっていたりするのですが、最後に三十一文字(みそひともじ)が置かれて心の裡を歌い上げます。分量的には詞書の部分のほうが圧倒的に多いのですけれども、最後の三十一文字はそれを受け止めてフィニッシュを決めるのです。
 詞書と和歌の関係は、まさにレチタティーヴォとアリアの関係だと言えるのではないでしょうか。
 モーツァルトの時代は、そういうテキストの作り方がまだかろうじて残っていた頃で、バロック・オペラとロマン派オペラとの過渡期に当たっていたのではないかと思います。「フィガロの結婚」や「魔笛」の、今の眼から見ると無駄なほどに枝葉の多い複雑な筋立ては、そう考えると理解できそうな気がするのです。

(2004.6.11.)

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