2004年8月末、アテネオリンピックも閉幕しました。今回は日本勢の活躍めざましく、メダルの数は史上最多の37個となりました。うち金メダルは16個と、東京オリンピック以来の獲得数です。東京オリンピックの頃と較べると競技種目数が増えて、メダルの総数も多くなったということはありますけれども、それ以上に参加国のほうも増えているわけで、これは数字に表れた以上の快挙だったのではないかと思います。 まずは選手の皆さんの健闘を称えたいところ。 オリンピックの直前にサッカーのアジア大会があり、地元中国の異常な、本当に異常な敵意の中で見事日本チームが優勝をもぎとったわけですが、ある意味それが選手たちに力を与えたのかな、とも思いました。日本選手は技術水準は高いにもかかわらず、精神面が弱くて、プレッシャーに負けてしまいがちだということが昔から言われていましたが、逆に言えば精神面が克服できれば相当にいいところまで行くはずです。その点アウェーで頑張ったアジア大会の結果がかなりの追い風になったことは想像できます。 ことに、開会式に先立って始められていたサッカー競技、その中でも初日にスウェーデンと戦った女子チーム「なでしこJAPAN」にとってはその想いが強かったのではないでしょうか。そしてこの初日の一勝が日本勢に「幸先良し」という気持ちを抱かせたのは大きかったでしょう。
オリンピックは言うまでもなく古代ギリシャに淵源を持ちます。古代ギリシャは数多くの都市国家(ポリス)が林立した状態で、当然ながら戦乱が絶えませんでした。わが国の戦国時代あたりよりももうひとまわり規模の小さい、せいぜい一郡程度の版図しか持たない小国家群が合従し連衡し、離合集散と治乱興亡を繰り返していたわけです。当時の人口から推察するに、戦争とは言っても、実際にはいいところ数百人程度の「軍隊」が小競り合いしていたに過ぎないと思われますが、それでも人は死に、畑は荒らされます。 それら小国家群が、4年に一度の絶対休戦期間を持つことに決めたのは賢明な判断だったと思います。オリンピック(オリンピアード)の期間だけは、どの国も決して軍隊を動かしてはならなかったのでした。一度禁を破ってオリンピアード期間中に他国を攻めたスパルタはたちまち総スカンを食い、謝罪せざるを得ませんでした。 競技に臨む者は、武器を携えていないことを示すために全裸にならなければなりません。それゆえ当時は女性の参加はもちろん、観戦も禁じられていましたが、逆に男子禁制の女子だけの競技大会も開催されたようです。こちらもむろん全裸でした。 レスリングで下半身への攻撃が禁止されているのは、もともとフリチンでおこなわれた競技だったからなのでした。
古代オリンピアードをよく考えてみると、戦争の代償行為みたいなところがあります。「平和の祭典」であることは確かですが、武器を用いない肉体のみの「闘争」であることもまた事実です。 オリンピックと政治の関係もいろいろ言われますが、古代オリンピックが元来政治的判断によって始められた競技会であることは明らかです。 近代オリンピックがアマチュアリズムを柱として成立してきたのは事実ですけれども、現在では国家予算からの補助がなくてはメダルを狙うことなど困難になりつつありますし、オリンピックを「政治利用」することにあんまり目くじらを立てることもあるまいと私は思っています。むしろかつての共産圏が明らかにそうであったように、政治利用されるのが当然という認識を持ったほうが良いかもしれません。 これまたかつての共産圏がそうだったように、選手がそのためのただのコマのようにされてしまうとすれば本末転倒でしょうが。 日本選手も昔は「お国のため」意識が強く、マラソンの円谷幸吉のようにそのプレッシャーに潰されてみずから命を絶った人も居たものでした。その反動でしょうか、その後は「国なんて関係ない、自分のために頑張る」という意識が強くなっていました。いや、そういう意識を持たされざるを得なかったと言っても良いかもしれません。国のためなんて言うと「おまえは右翼か」と非難されかねない状況が社会全体に蔓延していたのですから。 しかしながら、オリンピックに限らず、国際的な競技会に出場する選手のメンタリティとしては、「自分のため」だけではいまひとつ発憤できないものがあるのではないかという気がします。もう少し大きなもののために頑張っている意識がないと、要するに張り合いがないのではないでしょうか。張り合いがなければ実力だって発揮できないのであって、ここしばらくの低迷状態は、そのあたりを如実に顕していたようにも思えます。 21世紀最初の大会である今回に至って、ようやく日本選手の心理にバランスがとれてきたということが言えそうです。
次は北京。先日のサッカーの様子を見るといまひとつ心許ないような気もいたしますが、あと4年でなんとか対策を講じてくれることを期待したいです。 国内の不満や矛盾を逸らすために外部に「敵」を作り、それへの敵愾心を徹底的に煽ることで国民の気持ちを引き締めるという手法は、帝政時代から中国政府が伝統的に用いてきた手法です。その「敵」とされるのが「アメリカ帝国主義」「ソ連修正主義」に続いて現在は「日本軍国主義」ということになっているわけですが、それがああいう形で「結実」してしまったことにいちばん狼狽しているのは中国政府のはずです。 従って、それこそ国の威信にかけて、なんらかの措置をおこなうに違いありません。ある意味ではいい時期にアジア大会があったと言って良いようです。オリンピックぶっつけ本番であんな醜態が繰り拡げられたら、中国の面目は丸つぶれであったでしょうから。
(2004.8.30.)
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