秩父ウォーキングに出かけた2009年9月21日の夜、板橋区演奏家協会の吉川英子さんから留守番電話が入っていました。至急連絡が欲しいということだったのですが、それを聞いたのは翌日の夜のことでしたので、こちらからの連絡はできませんでした。 23日になって、留守中の新聞を読み返していると、22日の新聞の死亡覧に、神野明先生の訃報が載っているのに気がつきました。ははあ、このことだったのかと思いました。 最後にお会いしたのは、今年3月8日のファミリー音楽会の時のことだったと記憶しています。 あとから思えば、その時もだいぶ体調が悪そうな様子でした。 その後、演奏家協会の総会とか、板橋区のクラシック音楽オーディションとか、先生が協会の会長として毎年出席していた行事にも欠席が続いていました。 ファミリー音楽会のすぐ後に手術を受けたらしいという話は5月頃からささやかれており、7月のオーディション審査の頃には、だいぶ悪いらしいという噂が飛び交っていました。しかし入院している病院も明かされなかったり、実際のところはなかなかわからず、協会員一同、もどかしい想いを抱くばかりでした。 今月の協会の役員会で、吉川さんがご本人から電話を貰ったと言い、意外と元気そうな声だったとのことでしたが、結局それが最後になってしまったようです。胃ガンが進行して、もう手のつけようがなかったのでした。 61歳ですから、現代の感覚ではまだまだこれからという年齢でした。 昨夜お通夜があり、今日が告別式で、私は両方行って参りました。 お通夜のほうにはマダムと一緒に参列しました。私たちの結婚式でスピーチをしてくださったので、マダムもご挨拶をしてきたいとのことでした。 葬儀会場は江古田斎場です。西武池袋線の江古田の駅に下り立つと、先生が教授をしていた日大の学生らしいのが何人も表示札を持って立っており、迷う余地もなくすぐに斎場に着きました。 受付はかなりごった返しています。江古田斎場にはふたつの棟があり、その片方が全部借り切られていました。1階と2階にそれぞれ葬儀場があるのですが、本会場が2階で、そこに入りきらなかった人は1階の会場でモニターを見ながら参列する形になっています。私たちは1階の会場にも入れず、その隣にあった、普通は控え室に使われているとおぼしいスペースで、やはりモニター参列ということになりました。もう少し遅れてきた人はそこにも入れなくて、ロビーに居るしかなかったようです。神野先生の広範な活躍ぶりからすると当然とも言えますが、さすがに半端でない規模の葬儀となりました。 私は昨日までまるっきり知らなかったのですが、神野先生はクリスチャンで、葬儀もキリスト教式でおこなわれました。だからお通夜もお通夜とは呼ばれず、「前夜式」と呼ばれていました。そういえばキリスト教式の葬儀というのははじめて参列したように思います。 仏式のように、坊さんがお経を上げている背後で順番に焼香して終わり、というわけにはゆかないようで、何曲も讃美歌を歌い、牧師さんのかなり長いお説教と祈祷を聴き、最後に献花してようやく終わります。意外な長さに、やむなく中途で退席する人も居たようです。 音楽関係者が多いだけに、讃美歌の合唱はなかなか壮観でした。 先生が入信したのは、西洋音楽をやるにあたって、その背後にある宗教感覚を自分のものにしなくては、本当の理解ができないと思われたからであったようです。声楽家でそういう動機から入信する人は少なくないのですが、ピアニストでは珍しいかもしれません。器楽曲というのは、ある程度グローバルな立場で理解しうるものである、いや、理解しうるものであって欲しいというのが、少なくとも非欧米人の演奏家の願いではないでしょうか。キリスト教の精神を体得していないとバッハにもベートーヴェンにも理解が届かないのでは、立つ瀬がないと感じる人も多いと思います。 牧師さんは、先生の生涯を振り返りつつ、そういうことを強調していましたが、これはまあ牧師さんの立場上の身びいきに近かったかもしれません。少なくとも、先生が自分の学生に向かって、 ──西洋音楽を本当に理解したいのなら、キリスト教に入信すべきだ。 と言ったことは一度も無いはずです。それどころか、私だけでなく、先生がクリスチャンであったこと自体を知らない人が多数であったと思われます。 私などが忖度すべきことではないかもしれませんが、たぶん先生は、音楽を理解するのにひとつの道しか無いとは、少しも考えておられなかったのではないでしょうか。ご自身は入信という方法をとらなくては理解に達することができなかったにせよ、他の人はそれぞれ方法を見つければそれで良い、というのが、先生の信念であったと思うのです。 今日の11時からの告別式にも参列しましたが、今度は1階の会場に入れました。式次第は前夜式とあまり変わらず、ただ何人かの弔辞や弔電紹介があったのと、歌う讃美歌が違っていたくらいです。牧師さんのお話はほとんど同じだったので、神野先生の経歴はほとんど暗記してしまったような気がします。 また献花があって、13時過ぎに出棺となりました。 私が神野明先生に直接教えを受けたのは、大学時代の3年間だけでした。音楽大学というところは、ピアノ専攻でなくとも、副科ピアノというレッスンを受けなくてはなりません。ピアノ専攻以外のたくさんの学生を、教務係が機械的にピアノの先生たちのところに割り振ってゆくだけなので、どの先生に当たるかは運任せで、学生のほうから希望することはできません。私も、1年生の時についていた先生がその年で退官したので、翌年度から非常勤講師として着任した神野先生にたまたま割り振られたまでのことです。 24年前のことですので、先生は当時36、7歳だったことになります。副科ピアノの割り振り表を見て、 ──え? あの神野明? 嘘? とうろたえた記憶がありますから、その頃すでに、その齢で大いに名が売れていたわけで、あらためて驚きます。 最初にレッスンに行った時、 「君は、一曲にじっくり取り組むのと、いろんな曲を手がけるのと、どっちが好きだい?」 と訊かれました。 「いろんな曲をやりたいですね」 私がそう答えると、 「よし、じゃあそういう方針で行こう」 先生は明快に言いました。 1年生の時の先生は「じっくり」派で、同じ曲を何ヶ月弾いても合格させてくれず、それでいて学期末試験の成績は、私としてはいささか不本意な点数だったので、ほとほとうんざりしていたところでした。神野先生のところでは、大体2、3回で1曲を仕上げるハイペースでレッスンを受けましたが、試験の成績は3年間ずっと高得点でしたから、時間をかければ良いというものではないことを実感します。 だんだん私も調子に乗って、普通の学生があんまり弾かないような曲ばかり持ってゆくようになりました。また先生がそういうのをけっこう面白がる人で、週に20分か30分のレッスン時間は、いつもあっという間に過ぎるのでした。 先生のほうでも印象に残っていたらしいのが、ショパンのソナタ第1番です。若書きの習作と言われ、大抵のピアニストにはスルーされている曲で、ショパンのソナタは2番と3番しか無いのではないかと思っている人すら居るほどに影の薄い作品ですが、私は一時期この曲をかなりマジメに練習し、4楽章までしっかりレッスンして貰いました。この話は先生が私の結婚式のスピーチでわざわざ触れ、列席したピアノ関係者(新婦含む)の笑いをとっていました。笑いが出るほどに、この第1番というのは、普通の学生が手がける曲ではないということです。 中国を旅行した時に見つけた、中国人作曲家の作品を持って行ったりしたのも記憶しています。とにかく、「これは先生も知らんだろう」というような曲を見つけると、すぐレッスンに持って行ったものです。 副科の先生などとは、普通は卒業すれば縁が切れてしまうのですが、たまたま私が板橋区演奏家協会のメンバーだった人(現在は退会)の伴奏をしていたため、協会の演奏会などで何度か再会する機会がありました。まだ演奏家協会も設立したばかりで、会長の神野先生は演奏会のたびに司会を務めていたのです。 そういうことがあって、ある時先生から電話がかかってきました。 「確か君、板橋区で仕事してたよね」 「仕事っていうか、『第九を歌う会』の練習ピアニストをしているだけですけど……」 「ああ、それで充分だ。こんど演奏家協会にアレンジ部門を作るんだが、オーディションを受けてみないか」 板橋区演奏家協会というところは、今でも構成員の専攻がかなり偏っているのですが、その頃も同様でした。演奏会の最後に、例えば全員参加のアンサンブルをやろうと思っても、既成の曲を使えるような楽器編成ではなく、編曲が必要だったので、その編曲者を外部委託ではなく身内として確保しておきたいというのが本音だったと思われます。 アレンジ部門のオーディションというのは、指定された曲を指定された編成で編曲して提出するだけで、私はあっさり合格しました。いや、あっさりと思っていたのですが、ちゃんとれっきとした作曲家に審査して貰ったそうですから、一応能力を認められたということです。まあその「れっきとした作曲家」が誰かというと、大学で私の指導教官だった佐藤眞先生だったので、いくぶん情実っぽくもあるのですが、神野先生や佐藤先生の顔を潰さない程度の仕事はしてきていると思います。 以後、演奏家協会員として、神野先生にはひとかたならぬお世話になってきました。 レッスンという形で演奏技術を教わる以上に、協会のいろんな行事の際に交わす雑談などの中で、より多くの大切なことを学び得たように思えるのです。本当はそういうことにこそレッスン料を納めるべきではないのかとも思ったりしました。 もっといろいろ、伺っておきたかったのですが…… もう二度と先生の話が聞けないのが、残念でなりません。 ともあれ、安らかにお眠りください。 (2009.9.26.) |