忘れ得ぬことども

ワイン風呂への旅

 2010年の夏、少しだけ休みが取れたので、マダムとふたりで息抜きの小旅行をしてきました。
 そこそこ大きな額の原稿料が入るはずだったのですけれども、残念ながらまだ振り込まれておりません。ただ、合唱団の演奏会のギャラが入っておりましたので、そのくらいの費用で行けるところを考えました。
 実はゴールデンウィークに行こうとして果たせなかったところがあります。山梨県甲斐市――山梨県は平成の大合併がけっこうすんなり進んだところで、その結果もとからある甲府市の他、甲斐市甲州市という実にまぎらわしい名前の市が誕生しました。甲斐市というのは甲府の西隣で、中央本線で甲府の次の駅である竜王がその代表駅となっています――にあるとあるホテルでした。
 甲府近辺には石和温泉とか、昇仙峡とか、善光寺とか、名の知れた観光地がありますが、甲斐市は特に見どころというほどのものは無いようです。ごく普通の郊外型の街と言えそうです。なぜそんなところへ行こうと思ったかというと、
 ――ワイン風呂
 なるものにマダムが入りたがったからなのでした。
 最近は大深度地下へのボーリングが簡単にできるようになって、町中で手軽に温泉に入れるようになりました。拙宅の近くにもいくつかあり、歩いてゆくにはちょっと遠いのですが、いずれも自転車ならちょうどよい距離です。温泉好きのマダムはよくそういうところへ出かけてゆきます。私も以前はまるで興味がなかったのですが、結婚してからちょくちょく行くようになっています。
 マダムが何かの旅番組で「ワイン風呂」というものを知り、ゴールデンウィークにどこに行きたいかを訊いてみると、ワイン風呂に入ってきたいと要望したわけです。
 ワインといえば思い浮かぶのは、まずは山梨県の勝沼でしょう。それで、ワイン風呂という施設が勝沼にあるかどうかネットで検索してみました。
 しかしどうも、それらしいものは見当たりません。宿も、スーパー銭湯のようなものも、検索にはひっかかりません。
 それで、範囲を拡げ、山梨県全体で検索してみました。
 すると、石和温泉にひとつあるようでした。しかし、ゴールデンウィーク価格かもしれませんが、お一人様2万円くらいする高級な温泉旅館で、とても手が出ません。写真で見るワイン風呂はなかなか良い風情なのですけれども、残念ながら無理そうです。
 ところが、もうひとつひっかかったところがあったのでした。それが、甲斐市のホテルでした。

 ホテルと言っても、宿泊施設としてはまずビジネスホテル並みであるようです。宿泊料金もそのレベルです。
 ただそこは、宿泊施設と言うよりも入浴施設が中心の場所だったのでした。大小さまざまな風呂、その中にはワイン風呂もあり、他にサウナやバイブラバス、薬草風呂などもあるというものです。さらに垢擦りやマッサージなどエステメニューも充実しており、リラクゼーションのための大画面シアターやら、トレーニングジムやらが揃っています。それらは宿泊客だけでなく、外部からも利用できます。要するに、ひと言で言うならば、スーパー銭湯にホテルが附属したような施設だったのでした。
 風呂は沸かし湯ではなく天然自噴の温泉であるようでしたし、何よりもエステメニューを見てマダムがすっかり気に入り、
 「ここがいい!」
 と即決しました。
 しかし、ゴールデンウィークの時は、すでに日程が差し迫っていて、そこも空室が無く、結局日帰りで宇都宮佐野に行くにとどまった話は前に書きました。
 8月の半ばに休みが取れそうだとわかった時に、リベンジしてみるかとマダムに訊ねると、即座に賛成してくれたわけです。

 今度はすんなり部屋が予約できました。カップル限定プランというのがあり、夫婦連れの場合(もちろん夫婦でなくてもいいのですが)なんだか申し訳ないほど低料金で泊まれるようです。街中の施設ゆえ、お盆シーズンはむしろ空いていたかもしれません。それで2泊することにしました。1泊ではなんだかあわただしい気がしたのです。それでも、石和のほうだったらひとり1泊できるかどうかというほどの値段に過ぎません。何やらとてもうまいことをしたような気がしました。
 8月13日の夕方、マダムが習慣にしているフィットネスクラブ通いから帰ってきてから家を出ました。手にしているのは例の「青春18きっぷ」です。これはひとりで5日間使うこともできるのですが、同一行程であれば複数人が同時に使うこともできます。川口駅の窓口で
 「ふたり」
 と言うと、券面に5つある押印欄のうちふたつに日付印が捺されました。
 青春18きっぷは普通列車用フリーパスですので、中央本線と言っても特急の「あずさ」「かいじ」に乗ることはできません。マダムが
 「特急に乗らないで、鈍行でのんびり行きたい」
 と希望したのですが、もしかすると私の趣味(と懐具合)に合わせてくれたのかもしれません。ただ亡くなったマダムの祖父が鈍行旅行派で、当然ながら青春18きっぷの愛用者で、その話をよくしていたようですから、マダムも興味はあったようです。
 南浦和から武蔵野線西国分寺へ。中央線の快速に2駅乗って、立川で下ります。甲信方面へ行く普通列車はだいたい高尾から発着しているのですが、何本かは立川発着があり、うまい具合に17時54分松本行きの列車に乗ることができたのでした。西国分寺で予定したより早い電車に乗り継げたので、立川で少し余裕があり、夕食を仕入れることができました。宿到着は20時半くらいになるので、その前に車中で夕食を済ませようということにしていたのです。
 お盆ちゅうとはいえ、夕方の下り列車はそこそこ乗車率が良く、特に高尾では乗り継いでくる人が多くて、しばらくは坐ったボックスも4席全部ふさがっていたため、食事をする雰囲気ではありません。
 暮れそうで暮れない夏の夕暮れで、四方津あたりまでは景色もよく見えました。やや雨模様でしたが、それはそれで風情があります。しかし大月に着く頃にはさすがにとっぷりと暗くなっていました。乗客もほどよく減ってきたので、夕食にしました。本当は駅弁が良かったのですが、立川駅の駅弁売り場がいつの間にか某コンビニチェーンに変わってしまい、構内にあったのはちょっとこじゃれたおにぎり屋とパン屋でした。結局そこでいなり寿司とサンドイッチを買ってきただけでしたが、少しオーガニックな感じのする品で、そういうのが好きなマダムはご満悦でした。

 つつがなく甲府に着きました。宿の最寄り駅は竜王なので、もうひと駅です。
 ところが、甲府駅のプラットフォームに停まったまま、電車はなかなか動きません。何やらあたりがざわついています。
 車内とプラットフォームでアナウンスがされていましたが、車内放送のボリュームが弱く、プラットフォームの放送は反響して聞き取りづらく、しかもへまなことに両方が同時にしゃべったりして、何を言っているのかさっぱりわかりません。駅での緊急時のアナウンスのやりかたは、一考あるべきだと思います。
 それでも、だんだん様子がわかってきました。要するに、甲府の先の踏切で自動車が立ち往生して、電車が通れないということでした。
 レッカー車を呼んで立ち往生したクルマをひっぱってゆくとなるとだいぶ時間がかかりそうだな、と思っていましたが、30分ばかりで運転再開になりました。宿への到着は20時半頃の予定でしたが、それが21時になった程度です。しかも予約した時の到着予定時刻は、選択肢に「30分」の単位が無く、もともと「21時」で届けていたので、なんの問題もありません。それにしても、最後のひと駅のために30分待たされたのは、少々腹立たしいことでした。

 竜王駅の駅舎は妙にモダンで、誰か名のあるデザイナーにでも設計を頼んだかと思われるような造りでしたが、駅前はまだまだ開発途上で、デパートやショッピングセンターは愚か、飲み屋街さえありません。もともとはしかるべき繁華街があったのに再開発で追い払われ、その再開発がまだ完成していないということなのか、もともとなんにもないのか、よくわかりません。ともかく駅舎から外へ出ると、暗い空き地が拡がっているばかりでした。
 駅を後にして少し歩くと甲府バイパスに出て、そこまでゆくとさすがに飲食店その他の看板が林立していました。ご多聞に漏れず、鉄道よりクルマのほうが幅を利かせているということなのでしょう。目指す宿はバイパス沿いに10分ばかり歩いたところにあり、その途中にはジョ×サンとかガ×トとかす×家とか、ふだんからおなじみのチェーン店がいくつも軒を並べていました。
 宿泊施設付きのスーパー銭湯も、目当ての宿に行く途中にもうひとつあって、なかなか競争が熾烈そうです。しかしそちらにはワイン風呂は無さそうでした。

 1階のフロントでチェックインします。客室は2、3階で、4階より上が入浴施設になっていました。入浴だけの客は、直接5階の入浴受付に行って料金を払うわけです。
 私たちは、プランに従ってセミダブルルームを予約していたのですが、フロント係が言いました。
 「お客様のご予約のセミダブルというのはかなり狭いんですね。それで、普通のダブルのお部屋にお泊まりいただけますので……もちろん、料金はご予約のプランのままで結構です」
 あとでマダムが、
 「こっちのことを見てから代えてくれたみたいよ」
 とからかいました。まあ私はかなりサイズが大きく、それはセミダブルベッドでは狭苦しそうに見えたに違いありませんが、即座に代えて貰えるだけの空室があったのはラッキーでした。サイズのことは別としても、広いに越したことはありません。
 部屋に荷物を置き、楽な服に着替えて、すぐ風呂に行きました。最初の時はタオルなどを持って行きましたが、全部入浴受付で貸してくれるようで、あとでは手ぶらで行くようになりました。
 金曜の晩ということもあってか、入浴客はけっこう沢山居ました。大浴槽は古代檜(ひのき)で、のんびり漬かれます。家の近くにも古代檜の浴槽のある風呂屋があり、掲示されていた古代檜についての説明が、その風呂屋のものと寸分違わなかったので驚きましたが、よく見ると説明板の最後の所に「株式会社古代檜」と書いてあったので、思わず笑ってしまいました。そういう会社があって全国に古代檜の浴槽を提供していたのでした。帰ってから調べてみると、現在は「紅檜」という会社になっているそうです。
 お目当てのワイン風呂は、屋上の露天風呂になっていました。近づいただけで、ぷんとブドウの香りが漂います。お湯は赤ワインそのものの深紅色で、漬かればフルーティな芳香が鼻腔に満ちます。思わずお湯を飲んでしまいたくなりますが、飲用はできません。
 これはただの入浴剤ではあるまいと思って見回すと、説明が書いてありました。ワイン醸造の際に廃棄物として出るブドウの皮を乾燥・粉末化し、源泉に混ぜているそうです。つまり間違いなくブドウそのものであり、ポリフェノールが豊富に含まれています。ポリフェノールを経口的に摂らず皮膚をひたすことでどういう効果になるのかはよくわかりませんが、一般には血行促進、活性酸素抑制、肝機能向上、抗酸化作用などに効能があるとされていますので、入浴でも同様なのでしょう。
 お湯から上がっても、肌にそこはかとなくブドウの香りが残ります。たぶん石和温泉のワイン風呂も、実質としては大差がないのではないでしょうか。すっかり気に入りました。

 宿の朝食は注文制ですが、食パンとコーヒーだけ無料で食べられます。それだけでは物足りなさそうだったので、風呂から上がってから、近くのスーパーマーケットに行って食糧を買ってきました。来る途中では見かけなかったのですが、浴場からその先のほうを見ると、スーパーのネオンが見えたのでした。旅先で地元のスーパーなどに寄って食糧を買うのは、私もマダムもけっこう好きです。けっこう地方色があったりすることに気づきます。
 さほどの標高ではありませんが、夜は家の近くより多少しのぎやすいようです。浴場からはすぐ近くに見えたものの、歩くと少々距離がありました。閉まっていたらどうしようかと心配しましたが、23時半という深夜近くまで開いている店で助かりました。
 翌朝はそれらを食べ、もちろん無料の食パンとコーヒーもいただき、10時から開く風呂にもう一度漬かって、ついでにジムで少しだけ筋トレをおこない、昼近くなってから出かけました。シアターでは開店から閉店までずっと映画を上映しているので、まったく外出しなくても過ごせるのですが、県立美術館に行ってみることにしたのです。
 山梨県立美術館は甲府市内ですが、甲斐市との市境に近く、駅としては甲府よりも竜王に近い場所にあります。宿からは2キロちょっとなので、ぶらぶら歩いてゆくことにしました。ミレーの有名な「種を蒔く人」をはじめ、バルビゾン派の作品が充実している美術館だそうです。
 美術館に行くことにした理由はもうひとつあって、美術館の正門近くに老舗のほうとう屋があり、マダムがそこで昼食を食べたがったのでした。以前、大学のサークルの旅行で行ったことがあるそうな。
 午前中かなりのんびりと過ごしてしまったので、まずほうとうを食べて、それから美術館へ行くことにしました。
 天気は曇りでしたが、やはり暑く、少し歩くと汗が噴き出てきます。これは熱いほうとうなど食べる気にならないなと思いました。宿から600〜700メートルほど歩くとバスの通っている美術館通りに行き当たり、その道を1キロ半ほど歩くと美術館があります。ほうとう屋はもう少し行き過ぎたあたりに建っていました。
 店の中に入り、2階の座敷に通されると、冷房がガンガン効いており、むしろ寒いくらいで、熱いほうとうを食べる気がしてきました。なかなか巧妙です。冷やしほうとうである「おざら」というのもあって、最初はそちらを食べようかとも思っていましたが、いざとなると熱いヤツでちょうどよい感じです。
 マダムはかぼちゃほうとうのランチセット、私はきのこほうとうの単品を頼みました。ランチセットには麦とろ飯とデザートがついていましたが、ほうとうは単品で充分な量があり、麦とろ飯を食べるのは私も手伝いました。

 美術館の隣には県立文学館というのもあって、この日(8月14日)は美術館との合同企画で『くじらぐもからチックタックまで』なる特別展をやっていました。小学校の国語の教科書に載った文章の挿絵原画展です。ミレーなどの他にそちらも見ることにしたので、だいぶ時間がかかりました。常設展だけでも相当に充実しているのです。
 正直に言って、日本の地方におけるミュージアムの水準はなかなか高いものがあると思います。それぞれに得意技というか、重点を決めて展示物を蒐集しているので、特色がはっきりし、見ごたえがあります。決して東京一極集中ということはありません。
 美術でこれだけのことができているのに、なぜ音楽はそうなっていないのかが不思議でなりません。「日本オペラ事情」という文章で書いたことがありますが、地方へ行くと、最新式の設備を持ちながら遊んでいるホールがいくつもあります。それらを活用し、音楽においても「得意技」を作れば良いと思うのです。地方都市に居ると、旅公演で時折やってくるオーケストラによる総花的なプログラムの演奏会しか聴けない……というのでは、地域の音楽文化などは育ちようがありません。甲府に3月に行けば「椿姫」が、水戸に5月に行けば「トスカ」が、前橋に9月に行けば「魔笛」が必ず観られる、というようなことにはならないものでしょうか。そういう有名どころは地方に任せ、東京ではもっとマイナーな作品や新作を上演するように棲み分ければ、日本のクラシック音楽界もなかなか面白いことになるはずです。

 一旦宿に帰ろうと思っていたのですが、美術館と文学館で思ったより時間を費やしてしまい、予約していたイタリアンレストランに直行することにしました。宿近くの飲食店を探していて見つけた店で、自家製ハーブなどを使用していてなかなか良さそうです。
 バスに3区間ほど乗り、そこからまた1キロばかり歩きました。イタリア国旗が出ていたからレストランとわかりましたが、構えは普通の民家のようです。住宅の1階をレストランに改装したわけでしょう。
 最初の前菜盛り合わせからして、種類・量ともにかなりあったので圧倒されました。
 「イタリアンなら軽いから。わたしはイタリアンといえば軽食のイメージなの」
 と、ダイエット中のマダムが主張してこの店を選んだのですが、私は何度か、
 「田舎のメシの量を甘く見てはいかん」
 と忠告していました。実際、旅先で食堂に入ると、東京近辺の同種の店に較べ、びっくりするほどの盛りになっていたことが少なくないのです。知多半島の港町の食堂でアジフライ定食を頼んだところ、アジが実に6尾分も皿に載っていて唖然としたことがありますし、伊豆では海鮮丼のヘビーさに驚愕したこともあります。質量共に、東京なら倍の値段でも足りないのではないかと思われることになっていることが珍しくありません。ただし、ガイドブックに載っているような店はダメですが。
 このイタリアンレストランも、たぶん地元の客しか来ないのではないかと思われる店でしたので、上記の法則が適用されます。サラダの盛りも豪快でしたし、メインディッシュも相当な量がありました。コースの内容はどちらかというとイタリアンというよりフレンチに近かったようです。味も申し分ないし、デザートに「フォンダンショコラのヴァニラアイス添え」が出てきた時にはマダムは有頂天で、声までうわずっていました。
 「日本でこれ滅多に食べられないよ! 日本でこれ滅多に食べられないよ!」
 と繰り返しています。
 店から宿まではまた1キロほど歩きますが、腹ごなしにちょうど良いほどの夕食の量でした。

 宿に帰ってからまたすぐに浴場へ。マダムが韓国式垢擦り、私がタイ古式マッサージを予約していました。だいぶ歩いたので少々腰が痛かったのですが、マッサージを受けたらすっかり治りました。こちらの料金は残念ながらそれほど安くはなく、うちの近くの風呂屋と同レベルです。しかし宿泊料を抑えられたおかげでこれらのエステを受けることができたわけです。
 15日は、9時ちょっと前に宿をチェックアウトし、再び美術館通りまで歩き、バスで甲府駅に出ました。このホテル、ほとんど不満は無かったのですが、鉄道やバスなど公共交通機関のルートから少々遠いのが難点です。バイパス沿いではあり、たいていの人はクルマで来るのでしょう。
 甲府から身延線の電車に乗りました。中央本線で戻るだけではつまらないし、大体川口――竜王間の運賃は、青春18きっぷの1回分より僅かに高いだけで、元はとれるとはいえ、せっかくの18きっぷの威力があまり発揮できません。そこで、身延線→東海道線というルートで帰ることにしました。そしてどうせ身延線に乗るのなら、身延山に寄ってみることにしました。
 身延山久遠寺は言うまでもなく日蓮宗の総本山で、私の家は臨済宗ですからあまり馴染みがありません。ただ、マダムの祖母の実家は日蓮だったかもしれないと言います。祖父母がふたり連れで何度か身延山を訪れていたそうです。
 身延線はもともと私鉄なので、駅間距離が短く、ちょっと走るとすぐ次の駅に着いてしまいます。なかなかはかがゆかず、乗っているとじれったくなる点、小型の飯田線とも言えるでしょう。しかし甲府から1時間くらい過ぎると、にわかに山が近づいて、駅間距離も長くなってきます。武田信玄の隠し湯と言われる下部温泉を過ぎると、間もなく身延に着きます。甲府からの道が富士川の流れに合流するあたりであるようです。

 久遠寺を訪れる前に、「ゆばの里」へ行くことにしました。実態は地域振興センターか「道の駅」みたいなものらしいのですが、食堂で供している湯葉づくしの定食が、ダイエットにいそしむマダムのお眼鏡にかなったのでした。
 ただし、ゆばの里に行くための公共交通機関は、朝夕に一本ずつ路線バスがあるに過ぎず、いささか不便です。そこへ行くことはもちろん、帰りも困りますから、駅の窓口で
 「レンタサイクルはありませんかね」
 と訊いてみました。
 「いや〜、ここはそういうもの無いですね〜」
 駅員はあっさり答えました。タクシーを使うしかないようです。
 大きな荷物をコインロッカーに放り込んで、タクシーに乗り込みました。話し好きの運転手で、ゆばの里に到着するまでずっとしゃべり続けていました。
 すぐ食堂へ行き、マダムは松花堂、私は「清流」(この食堂の屋号と同じ名前)を頼みました。どちらも湯葉づくしの定食です。こんなにいちどきに湯葉を食べたことは無いような気がします。刺身、天ぷら、田楽、小鍋などみんな湯葉で、茶碗蒸しにさえ湯葉が入っていました。何はなくともヘルシー感は満点です。
 少々土産物を買ってから、タクシーを呼んだら、さっきの運転手の車がまたやってきました。台数も少ないんだろうな。
 久遠寺までは歩けない距離ではなかったと思いますが、車はお寺の受付前まで行ってくれたので助かりました。実は久遠寺は、山門から本道までが非常に遠く、途中には280段ほどある「菩提梯」と称する急勾配の大階段があるのでした。帰る時にはそこを通りましたが、下るだけでもめまいがするほどです。男坂、女坂と名付けられた迂回ルートもありますが、いずれにしろかなり手間取るのは確かで、案外と時間が差し迫っていたため、直行できたのは(運賃は思ったより高くなりましたが)ありがたかったと思います。
 お盆の特別法要で、入れない場所も多かったのですが、大急ぎでひとまわりしました。もっとじっくり廻るべきだったかもしれません。宝物殿を見学する余裕はかろうじてありました。展示されていた見事な写経にマダムは圧倒されたようで、
 「わたしこれから、写経を趣味にしよう」
 などと口走っていました。

 バスで久遠寺を後にし、身延駅に戻りました。身延から富士までの電車はロングシートで落ち着かない感じでした。富士で東海道線に乗り換え、熱海小田原で乗り換えつつ、最後は湘南新宿ライン赤羽まで一気に帰ってきました。
 最後のちょっとした贅沢で、湘南新宿ラインではグリーン車に乗りました。これもロングシートがほとんどで、弁当も食べられないのが困るということもありました。小田原で駅弁を買い、湘南新宿ラインの車中で食べるつもりだったのです。電車が入ってくると、比較的ボックス席も多めに連結された編成でしたが、往路で感じたように、ボックス席でも、4席埋まっていると少々食べづらい雰囲気です。
 平塚あたりでしばらく停車しました。どうも藤沢近辺の踏切で事故があったようです。行きも帰りも事故に遭遇するとは運の悪いことですが、どちらも急ぐ旅ではありません。幸い、こちらは7分ほどで発車し、赤羽にはほぼ定刻に到着しました。
 川口に着いて、家への道を歩くと、やはり山梨よりも数段暑苦しいと思いました。もっともこの日はどこも猛暑だったようではありますが。
 それでも、久しぶりの旅行で、だいぶリフレッシュできた気がします。  

(2010.8.18.)

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