忘れ得ぬことども

アルシス第6回演奏会

 「アルシス」という作曲家グループに属しております。この名前は本来、ギリシャ語で、「抑揚」の「揚」の方を表す言葉です。「抑」の方は「テージス」と言います。揚げ調子のイントネーションを意味し、転じて、音楽の、盛り上がりに向かう動きのことを指すようになりました。
 私の大学の1期上の作曲科卒業生たちが作ったグループですが、第3回目あたりから出品者が少なくなって(転勤や留学などで)、他の期の人間も参加するようになりました。大体、グループといっても、常時何か活動しているわけではなく、時々寄り集まって作品発表会をやろうじゃないかという、それだけのつながりですが。
 従って、実年齢でも私とそう差がない、20〜30代の若手の作曲家が参加しているわけです。
 モーツァルト35歳、シューベルト31歳、ショパン39歳、などと言った没年齢を考えると、
 ――30代が若手なのか?
 と思われるかもしれませんが、まあ平均寿命も延びていることゆえ、一応若手と言われています。40代、50代が中堅と言うところでしょうか。
 ともあれ、そうした仲間が、毎年というわけではありませんがなんとか回を重ねて、6回目になりました。
 第5回目は「打楽器の夕べ」と題して、みんなで打楽器の作品を持ち寄ったのですが、その時にお世話になった岸田佳津子さんは国際的に活躍なさっているマリンバ奏者で、指揮者の大町陽一郎氏をして
 ――世界3大マリンバ奏者のひとり
 とまで言わしめた方です。あとのふたりが誰なのか、私は寡聞にして存じ上げませんが(^_^;;
 その岸田さんに、もう一度お願いして、今度はドラムの類を用いない、純粋に鍵盤打楽器を用いた作品展を行おうということになったのが、今回の第6回「アルシスvs.パーカッション」です。岸田さんの後輩やお弟子さんにも出演をお願いしました。
 ですから、演奏に関しては、保証いたしますです。

 肝心の作品ですが、若手作曲家の新曲などというと、何やら小難しいゲンダイオンガクではないかと思われてしまうのですが、実は現代音楽の潮流も最近ではやや変わってきています。50年代から70年代にかけて、いろいろな実験的作品が書かれましたが、あまりに理性にばかり訴えかけるようになり、聴いていてちっとも面白くないではないかという反省が、80年代頃から徐々に生まれてきました。
 「アルシス」は別に作品の傾向や主義主張が近い人間が集まったわけではありませんが、今回の出品者に関しては、
 ――音楽はやはり、聴いていて面白くなくては……
 ――わくわくさせたり、しんみりさせたり、人間の感情に訴えるものでなくては……
 という考え方の者ばかりだといって良さそうに思います。もちろん私自身もそういう考えを持っています。
 ですから、決して理解困難な作品でないことは請け合えます。さらに、新曲ばかりでは聴いている方が退屈しかねないからというので、今回は初めて、アレンジステージを設定いたしました。よく知られた曲を、4人の出品者が鍵盤打楽器用にオリジナルアレンジしたものです。
 もともと、打楽器というものは、音もさることながら、演奏を観ていても楽しいものですので、きっと退屈しない演奏会になると思います。

(1997.11.15.)

 さて、今日は昼からホールに詰めて、「アルシス」の作品発表会です(これを書いているのは午前1時頃です(^_^))。「事業計画」に載せておいたのですが、残念ながら問い合わせが一件もありませんでした。先着10名ご招待キャンペーンまでしたのですが……(^_^;;
 これは私の営業努力が足りないものと反省するしかありません。すでにいくつかの検索エンジンには載せて貰っているのですが、定評ある「YAHOO!JAPAN」がなかなか載せてくれないため、どうもHPの存在自体があまり知られていないようです。最初に10月28日に申し込んだのですが音沙汰無し。その後もう一度お願いしたのですが、今までのところまだ反応はありません。どうなっているのだろう……♪
 そう言うわけで、集客は非常に不安で、どのくらいお客があるか神のみぞ知るところですが、結果についてはまた明日の日誌で書きたいと思います。
 曲は本当に親しみやすい感じのものが揃ったと思うのですが……(^_^;;
 ともあれ、コンサートを控えておりますので、今日は不得要領ながらここまでとさせていただきます。

(1997.12.2.)

 ようやく演奏会がひとつ終わり、ホッとしています。実はホッとする間もなく、仕事はたまっているのですが、それでもやっとひとつ峠を越したという気分です。
 どうしても、自主企画演奏会というのは気を使うもので、頼まれ仕事として何かやるのとは疲労感が違いますね。
 客入りは、思ったよりは良く、これもホッとする原因となっているようです。
 ご来聴のお客様へのアンケート結果を見ても、
 ――新曲の演奏会と言うから、不協和音の連続する現代音楽ばかりかと思ったら、とても楽しめる曲ばかりだった。
 ――マリンバの音色がこんなに素晴らしいものだとは思わなかった。
 などの意見がたくさん寄せられて、まずはわれわれの意図が伝わったものと喜んでおります。
 音楽というもの、まず最低限、楽しめなくてはいけないものではないかと思います。もちろん楽しめるとひとことで言っても、いろんなレベルがあって、誰でも楽しめるもの、一部の人だけ楽しめるもの、作った本人しか楽しめないもの、などなどあるわけですし、楽しめるというのが必ずしも喜びの感情だけではなく、哀しみ、憐れみ、敬虔さといった感情をも内包しているものですから、一概には言えないのですが、それにしても世の中には「楽しめない」音楽が多かったように思います。よく冗談で「音が苦」などと書くことがありますが、聴いているのが苦痛になってしまってはどうしようもない。
 実名は挙げませんが、現代音楽の分野では高名な作曲家が、
「私の音楽は現代の人間に理解されるとは思っていない。私は1000年後の人類のために書いているのだ」
と、開き直ったとしか思えない発言をしています。確かに、ある時代に認められなかった音楽が、時を経るに連れて再発見され、認められるようになるということは決して珍しくはありませんが、この発言は、表現はそれを受け取るものがいてこそ成立するものだという真理を全く無視しているとしか言いようがありません。はっきり言って、死後認められることは、その作曲家本人にとってはなんの意味もないのであります。表現は常にインタラクティヴなものであり、単独では存在し得ないというのが私の考えです。
 なんだか面倒くさい話になってしまって申し訳ございません。ともあれ私は、他の人に楽しんで貰える音楽を作ってゆこうと思っておりますので、今後ともよろしく応援をお願い申し上げます(^_^;;

(1997.12.3.)

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