忘れ得ぬことども

クリスマスに思う

 クリスマスが近いですね。
 クリスマスは恋人と過ごす、などという風習が生まれたのはいつ頃だったのでしょう。
 私の学生時代、10年余り前までは、それほどのこともなかったような気がします。
 そう言えば、さらにさかのぼること10年、私が小学生時代には、猫も杓子もバレンタインデーにチョコをあげたり待ち望んだりするということもなかったような気がする。私の世代は、どうもトレンドより少し早く生まれてしまったらしい(^_^;;
 バレンタインデーのことは今は措いておきます。
 クリスマスを恋人と過ごす、という風習が日本だけのものであることは疑いを得ません。
 欧米では、と言うよりクリスマスを祝うすべての外国では、この日は家族で過ごすのが当然です。ふだんひとり暮らしの人も、クリスマスだけは実家に帰るのが普通です。日本で言えば、盆か正月みたいなものなのです。大体、クリスマスというのは独立した祝日というわけではなく、クリスマスタイドという一連の「季節」であり、本来はイエスの誕生から12日目に東方の博士たちが祝いに訪れたという伝説に基づき、12月25日の12日後、1月6日までがクリスマスの時期とされています。
 まあ、そんなことはどうでもよいのですが、日本のクリスマスが本来の意味から大きく逸脱していることは間違いありませんね。
 相手の居ないひとり者が肩身の狭い想いをするクリスマスなど、どんな意味があるというのでしょう。
 そういう人は本来の意義に戻り、家族と過ごせば、という考え方もありましょうが、家族の方も風潮に乗せられ、イヴの晩にどこにも行かないとかえって冷やかされたりします。困ったもんだ。
 生きとし生ける者たちの幸福を願うのがクリスマスであるはずです。肩身の狭い人などが居てはならないのです。
 こんな風習をはやらせた人間は、冒涜的と言われても仕方がありません。
 ただ、こんな風に憤るのは、肩身の狭い側の人間であると決まっています(^_^;;
 もしそうでない側の人間が主張すれば……それはそれでイヤミにしか見えないかもしれない。
 私はどちらかって? 上のように憤っていることからおわかりでしょう(^o^)
 そういうわけで、私がいくら主張しても、全然説得力がありませんね。今年もまた、寂しい男女が大量発生することでしょう。
 ただし、信心深い人はそんな流行には乗りません。
 私がはじめて真剣に恋した人は、敬虔なクリスチャンでした。彼女に24日の晩電話をかけると、不在でした。
 すでに、彼女にはつきあっている男がおり、その旨を伝えられて、私の告白は拒絶されたあとのことです。ただ、ちょっと用事があったので、電話をかけざるを得なかったのです。
 イヴの晩に居ない。これはきっと、彼氏とどこかへ出かけて、何かやっているに違いない。
 そんなことを思って、胸が張り裂けそうな気がしました。
 しかし、後日連絡が取れてみると、彼女はずっと、夜通しのミサに出かけていたのでした。クリスチャンとしては当然の行動です。でも私はそのことに思い至らなかった。彼女のことをなんにも理解していないくせに、嫉妬だけは一人前にしていた。
 とても、はずかしい想いをしたことを憶えています。
 誰もが、寂しい想い、はずかしい想いなどすることがありませんように。メリークリスマス! 

(1997.12.23.)

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