「漢詩」と言えば、高校時代の漢文の時間に悩まされた記憶しかなかったのですが、この頃少し興味が出てきました。
それも、内容とか字句の意味とかのことではありません。
漢詩の、本来の音の響きというものに惹かれつつあるのです。
日本でも古来、漢詩を声に出して詠うことが行われました。
いわゆる「詩吟」です。♪べんせーいーしゅくーしゅくーぅぅ、よるぅぅぅかわーをぉぉぉわたーるぅぅぅ♪という類。こういう「詩吟」になると、なんだか趣味としては渋くて、しかつめらしくて、年寄りじみているという印象があります。そんなことはないと言う人もいるでしょうが、私はそう感じます。
しかし、私がここで言っているのは、「詩吟」のことではありません。
もともとの、中国語で読んだ時の響きのことです。
詩吟のように日本語の読み下し文にしてしまうと、当然ながら「漢語」が多く含まれることになります。日本文において、「漢語」は何か姿勢を正した、堅苦しい、よそゆきな雰囲気があります。これは元来外国語なのだから当然ですが、例えば「言語」と漢語で言えば発音もガチガチして、しゃちほこばった感じがしますが、「ことば」と和語で言えば柔らかい印象がありますね。このように、漢詩を日本語で読み下してしまうと、四角張った、固い響きになってしまいます。
でも、これを中国語で読むとどうでしょう?
中国語はもともと音楽的な言語だと言われます。日本語のアクセントは高いか低いかの2種類しかありませんが、中国語には四声といって4種類あり、それが組み合わさって語られると、大変リズミカルな感じがします。
実際、中国語の歌謡曲などを聞いても、なんだかひどくなまめかしい気がします。
私たちが高校で苦しめられた「漢詩」も、実はそういう、なまめかしい響きを持っているに違いありません。詩とは本来、声に出して読んで心地よいものでなければならないのですから。
中国語の発音自体が、唐朝の頃と現代とは異なっているでしょうが、ぜひ当時の発音で漢詩の朗読を聞いてみたい気がします。
私は全然中国語など話せませんし、辞書と首っ引きになりますが、有名な孟浩然の「春暁」を例にとって、現代の北京官話の発音から、この詩の本来の響きを偲んでみましょう。
――春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少――
日本語で読み下すと、
――春眠 暁を覚えず 処処に 啼鳥を聞く 夜来 風雨の声 花 落ちること知りぬ多少――
と、すこぶる格調高く、襟を正さしめる雰囲気があります。
これを中国語で読むと(カタカナにしてあるのであまり適切ではありませんが)、
――チュンミャンプーチェシャォ チュゥチュゥウェンティィニャォ
イェラィフェンユゥシァン ホァルォツィドゥォシャォ――
なんだかとてもなめらかで柔らかく、心地よくするすると耳に入ってくる気がしませんか。チャイナドレスのきれいなおねいさんあたりが読んでくれれば、メロメロになってしまいそうな予感がするのですが……。
いろんな漢詩の朗読を、原語で聴いてみたいと思う今日この頃です。
(1998.3.4.)
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