10.霊媒音楽家ローズマリー

 ローズマリーは、ロンドンの貧民街に住む貧しい給食婦だった。
 子供の頃、ほんの少しだけピアノを習ったことがあったが、特に才能もなく、親が経済的に苦しかったこともあって、すぐにやめてしまった。しかし音楽は好きで、暇があるとぼろぼろなアップライトピアノに向かって、たどたどしく指を走らせるのが、彼女の唯一と言ってよい道楽だった。
 貧しいジャーナリストと結婚したものの、その夫も彼女が36歳の時に世を去った。何やら夢も希望もないような人生である。
 だが、ある夜。
 1日の労働に疲れて家に帰ってきたローズマリーは、いつものようにオンボロピアノの鍵盤を弄んでいた。
 その時、彼女の指に異変が起こった。
 自分の意志で動かせなくなり、何者かが乗り移ったかのように、突然見事な演奏を始めたのだ。彼女がそれまで一度も使ったこともないペダルさえも巧みに踏みながら……。
 その時、ローズマリーは子供の頃の白日夢を思い出した。
 少女であった彼女の前に、白髪の老人が現れ、
「君が大人になったら、私がピアノを教えてあげよう」
と約束して消えたのである。
 後年、肖像画を見て知った、その老人の名は、フランツ・リスト

 リストが、その時の約束を果たしに来たのだ、と、ローズマリーは、なんの疑いもなく、知った。
 リストの亡霊は、ローズマリーにピアノの演奏法を教えるだけではなく、彼女を通して、生前発表できなかった作品を世に出そうとさえした。何度も何度も彼女の手足を操って演奏し、彼女の肉体が完全にその曲を記憶してしまうまで繰り返したのだ。
 そのうち、リストだけではなく、何人もの作曲家の亡霊が、ローズマリーのもとへ現れては、自分の未発表作品を伝授するようになった。特にショパンはしげしげと彼女のもとを訪れ、懇切丁寧に指導した。
 彼女のテストを行った音楽教育家のファース夫妻によると、作曲家たちの憑依していない状態での、ローズマリー本来の音楽的才能はほとんどゼロに近かったという。知識もいい加減で、ごく平易な聴音もできなかった。
 彼女の演奏は、そのタッチやルバートの調子が、はっきりと19世紀風であったという。リストやショパンなど、19世紀の作曲家に指導を受けたからなのではないか。
 ともあれ、ローズマリーは、霊媒音楽家として一躍有名になり、テレビ出演、レコードや著書の出版など大変多忙な日々を送ったのち、貧民街を脱出してウィンブルドンの高級住宅地へ移り住んだのであった。

 霊媒音楽家ローズマリー・ブラウンの話は、私も昔、子供向けの「世界の不思議な話」といったような本で読んだのを憶えていたが、1987年に、ドレミ楽譜出版社から、「大楽聖・霊界からのピアノ名曲集」という本が出版されたのを見て、つい買い求めてしまった。
 ローズマリーの出したレコードから、和田則彦氏が抜粋、採譜してまとめたものである。ベートーヴェンシューベルトからドビュッシーに至る、8人の作曲家の17の(死後の?)作品がおさめられている。
 私が弾いてみたところ、一応それっぽいスタイルでは書かれているようだが、まあ大した作品とは思えなかった。作曲家たちが、晩年に至って到達した境地が現れているとは言いがたい気がする。
 試みに、この中で最高傑作と呼ばれ、かの高名なピアニスト、グレン・グールドが、
「ブラウン夫人が霊感にもっとも冴えを見せている」
と絶賛したというリスト(の亡霊)作曲の「グリューベライ」をMIDI化してみた(全曲)ので、聴いてみていただきたい。
 いかがでしょうか。死後のリストを思わせる作品でしたでしょうか。

 本当に死後の作品なのか、でっち上げなのか。
 でっち上げであるとすれば、「生前の未発表作」と偽るならまだしも、なぜわざわざ「死後の作」などと、もともと信用しずらいような名目で発表したのかという疑問が残る。
 少なくともローズマリーが、これらを作曲家たちの亡霊から教わったのだと信じていたということだけは、認めてもいいかもしれない。
 私に言えることは、大作曲家の作であろうとなかろうと、作品そのものが問題なのだということだけである。駄作なら価値がない。名曲なら価値がある。乱暴な言い方をするようだが、誰が作ったかなどということは、実は大した問題ではないのである。
 和田氏は、ローズマリーのレコードに収録された沢山の曲の中から、比較的よくできたものを選んで採譜したのだろうが、それでこの程度のものなのであれば、「霊媒音楽家」の音楽史への寄与はほとんどないものと言わざるを得ない。これを、大作曲家も死んでからはヤキが廻ったと見るか、でっち上げの正体を見たと見るかはそれぞれの自由であるけれど。
 


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