音楽には、さまざまなタイトルがつけられています。 歌を伴う曲であれば、そのテキストとなった詩の題名がそのままタイトルになることがほとんどです。また歌い出しのフレーズがタイトルの代用として使われることもあります。題名を持たない詩であったり、オペラの中のアリアだったりするとそういうことが多いと思います。 例えば『ドン・ジョヴァンニ』の「お手をどうぞ」の二重唱とか、『トゥーランドット』のアリア「誰も寝てはならぬ」とかいうのがそれにあたりますが、時としてタイトル詐欺というか、歌い出しの文句だけでは誤解を招くこともあるので注意が必要です。今上天皇陛下のご成婚のときに歌われたマルティーニの「愛の喜び」などその最たるもので、タイトルどおり愛の喜びを朗々と歌い上げるめでたい歌かと思えばさにあらず、
──愛の喜びは一瞬で終わるのに、愛の苦しみは一生続く。
という縁起でもない歌詞なのでした。この曲を式次第に載せた役人は切腹ものと言えそうです。きっとタイトルだけで勘違いして入れてしまったのでしょう。 『ラ・ボエーム』の「私の名はミミ」なんてのも誤解を招くタイトルで、これだとヒロインの名前がミミだということになってしまいそうです。実は、歌詞を見ると、
──みんなはなぜかあたしのことをミミって呼ぶの。本当はルチアっていうのに。
となっています。まあ、このヒロインは死ぬまでミミと呼ばれ続けるので、「私の名はミミ」でも良いようなものではありますが、せめて訳題は「ミミと呼ばれているわ」くらいに変えたほうが良いと思います。 宗教音楽なども、冒頭の一節をタイトルにしていることが多いようです。バッハの200曲ある教会カンタータは、たいてい「第何番」と番号で呼ばれますが、ときどきタイトルのようにつけられている言葉は、基本的に冒頭の一節です。
声楽曲についてはそんなものですが、器楽曲でもタイトルがついているものはたくさんあります。 そのうち、「ソナタ」とか「協奏曲」とか、その曲の形態を示しているだけのものは、原則としてタイトルとは見なしません。この種の曲のことを「絶対音楽」と呼ぶことがあります。 また、「バラード」「ノクターン」のようなのはキャラクターピースと呼ばれ、これもタイトルとは考えないことになっています。いわば「曲種」を示しているだけというわけです。 器楽曲のタイトルは、「森の水車」とか「花の歌」とか「乙女の祈り」とか、その曲固有のもので、偶然同じになってしまったという場合を除いては、その曲しか持っていない「題名」ということになりなす。そして、これまた原則としては、作曲者自身が題したものに限られます。 ベートーヴェンの作品はよく聴かれているために、後世の者がタイトルを与えた曲がたくさんあります。ピアノソナタでは「悲愴」「おしどり」「葬送」「幻想」「月光」「田園」「テンペスト」「ヴァルトシュタイン」「熱情」「テレーゼ」「かっこう」「告別」「ハンマークラヴィーア」などありますが、この中でベートーヴェン自身が名付けたのは第13番「幻想」と第26番「告別」だけです。しかも本来は第13番と第14番を合わせた2曲を「幻想曲風ソナタ」と題して刊行したのに、第14番が「月光」と呼ばれたため、「幻想」があたかも第13番のみを指すように誤解されてしまいました。「告別」のほうも、「告別ソナタ」と題して刊行したわけではなく、3つの楽章それぞれに「告別」「不在」「再会」とタイトルをつけておいたのを、第一楽章のタイトルが全体のタイトルに拡大解釈されたのでした。 交響曲でも、「英雄」「運命」「田園」「合唱」と呼ばれていますが、作曲者によるものは「田園」だけです。あとは、作曲に関するエピソードなどから他人が命名したものです。ちなみに「田園」の原語はパストラールPastoralで、これ自体「牧歌」というような意味を持つキャラクターピース名であり、実はタイトルというほどのものではないのでした。 こういう、後世の者が命名したタイトルは、いわば「あだ名」とでも称すべきもので、本当の意味でのタイトル(標題)とは言えません。CDや演奏会では、聴く人のイメージを喚起するために記載されることが多いのですが、作曲者自身がそのタイトルによって発想しているわけではない点、あんまりこだわるべきではないと思います。 メンデルスゾーンの「無言歌」なんかもそうで、「狩りの歌」「春の歌」「つむぎ歌」「詩人のハープ」など、そうとしか聞こえないような曲でもメンデルスゾーン自身の命名ではありません。48曲の無言歌の中で作曲者自身が名付けたのは、3曲ある「ヴェニスのゴンドラの歌」と、「民謡」「二重唱」だけです。これらも、どちらかというとキャラクターピース名みたいなもので、タイトルというほどの個性はないように思えます。 ショパンも多くの曲が愛されているだけに、タイトルらしきものがついている作品がたくさんありますが、これもすべて「あだ名」です。「子犬のワルツ」も「革命のエチュード」も「雨だれの前奏曲」も「幻想即興曲」もすべて単なる「あだ名」に過ぎません。 メンデルスゾーンもショパンも、1850年になる前に亡くなっています。この頃までの作曲家には、曲それぞれにタイトルをつけるというような習慣は、あまり無かったのではないでしょうか。
とはいえ、タイトルをつける習慣がそれまで無かったかといえば、そうでもありません。バロック時代のラモーやクープランなど、さかんにタイトル付きの曲を書いています。「めんどり」とか「恋のウグイス」とか「ティクトクショック(とんとん木槌)」とかならまだわかるのですが、「神秘のバリケード」「サイクロプス(ひとつ眼巨人)」「修道女モニク」とかになると、なぜそのタイトルでなければならないのかさっぱりわかりません。たぶん刊行したりするときの都合ではないかと思うのですが、いかにも「名は体を表」しているタイトルと、曲想や曲の構造となんの関係も無いようなタイトルの二極に分かれるのは、19世紀後半あたりから流行する「標題音楽」のはらむ問題と同様のことでしょう。 ヴィヴァルディの「四季」なども標題音楽になりそうです。ヴィヴァルディはこの4曲の協奏曲に、1篇ずつのソネットを置き、そのソネットの内容に沿うように曲想を配置しています。もしかしたら曲ができてから、それに合わせたソネットが作られた可能性もありますが、ともあれ「春」「夏」「秋」「冬」の各曲が、かなりそれらの季節感をうまく表現した音楽になっていることは、たいていの人が認めるところでしょう。 バッハやヘンデルがその種の標題音楽をほとんど作らなかったのは不思議な気がします。ヘンデルには「水上の音楽」とか「王宮の花火」とかのタイトルを持つ作品もありますが、これらは作曲された状況を示しているだけで、曲そのものの内容を説明しているわけではありません。また「愉快な鍛冶屋」なんかはそれこそ「あだ名」に過ぎません。 ドイツ人は標題を嫌うのだろうか、などとも想像しますが、ドメニコ・スカルラッティもタイトルのある曲をほとんど作っていないところを見ると、そうとも言い切れなさそうです。要するにバロック末期くらいから、曲にタイトルをつけるのがはやらなくなったとしか言いようがありません。
19世紀に復活した「標題音楽」の先頭を切ったのはベルリオーズの「幻想交響曲」であると見なされています。これは「幻想」という言葉もさることながら、ひとまとまりの「ストーリー」が設定され、曲がそれに従って進行するというアイディアが斬新だったのでした。恋人に捨てられた男が、自暴自棄になってヤクを決め、さまざまな幻覚を見るというのがその骨子です。この「男」はベルリオーズ自身とされていますが、ひょっとしたらただのネタかもしれません。とにかく「恋人のテーマ」なるものが設置され、第一楽章ではまことに端正な姿を見せているのに、終楽章では小悪魔みたいになって再登場する、などの工夫がこらされています。この「恋人のテーマ」のような考えかたは、そののちヴァーグナーが導入するライトモティーフ(固定動機)に通じるものがあります。 ただ、あらかじめそのテーマが「恋人のテーマ」であると知っていればそのようにわかるのですが、予備知識無しで聴いた場合、そのテーマのメロディーから「恋人」を感じ取れるかと言えば心許ないものがあります。「標題音楽」には、具体的な「標題」が与えられるほど、その種の齟齬が発生する可能性が高くなるようです。 それに較べるとリストの「レ・プレリュード」などは、抽象的なタイトルのおかげで助かっていると言えます。「人生は死への前奏(プレリュード)に過ぎない」という、誰だかの言葉を主題にしているそうですが、この程度であれば「ストーリーに沿って作曲する」とか「曲がタイトルに合わない」とかの事態に陥ることは無さそうです。 「レ・プレリュード」は「交響詩(シンフォニック・ポエム)」というジャンルに区分されます。「幻想交響曲」はまだ、楽章立てになっているとか、ソナタ形式やロンド形式に基づいているとか、「交響曲」としての体裁を保持していますが、そういう「定型」にとらわれずに自由な管弦楽作品として作られたのが「交響詩」です。 交響詩の直接の先祖は「序曲」かもしれません。序曲というのはもともと、オペラとかオラトリオなどの、大規模な作品の冒頭に置かれる曲であるわけですが、そのうち本体たるべきオペラやオラトリオなどが無くても成立するようになりました。ベートーヴェンの「レオノーレ序曲」は全部で3曲あり、いちおう彼の唯一のオペラ「フィデリオ」の序曲ということになっているのですが、内容的にあんまり関係が無く、独立して演奏されることのほうが多くなっています。さらにメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」になると、もはやそういう名のオペラやカンタータは存在せず、完全に独立した楽曲として作られています。こうなれば交響詩まではあと一歩という感じです。 交響詩というジャンル名を発明したのは誰だかわかりませんが、リストがそのもっとも早い時期の作者であったことは確かでしょう。 交響詩は単一楽章であることが多いのですが、スメタナの『我が祖国』のように組曲の形をとっていることもあります。ただ、それはその後、「交響組曲(シンフォニック・スイート)」という別のジャンル名を与えられるようにもなりました。ホルストの『惑星』などはそのひとつですね。 また交響詩全盛の頃にも、チャイコフスキーのように「序曲」という名を好む作曲家も居ました。「1812年」「ロミオとジュリエット」などがそれです。 リヒアルト・シュトラウスとなると、「ツァラトゥストラかく語りき」「英雄の生涯」「ティル・オイレンシュピーゲルのいたずら」「死と変容」「ドン・ファン」等々、思わせぶりなタイトルを持つ交響詩をたくさん書いています。なるほど、とひざを叩きたくなる作品と、なんでこのタイトル? と首を傾げたくなる作品が混在しているのは、ありし日のクープランなどと同様です。 要するに、標題音楽とは言っても、「音でそのタイトル内容を描写している」「音でストーリーを構成している」とばかり考えないほうが良いと思うのです。むしろ「音で描写」というのは失敗することが多く、成功していたとしてもあまり音楽的価値が高くない場合が多いようです。わりと簡単に弾けるピアノ曲で「ワーテルローの戦い」(アンダースン=ギルマン)というのがあって、それぞれの部分に戦争のどの局面を描いているのか註記されていたりするのですが、さして血湧き肉躍ったり感動したり、戦いのむなしさを感じさせられたりする曲ではありません。 19世紀後半には、わりにそういう、安直な描写を旨とする標題音楽が粗製濫造されていました。ガチガチの反動保守とされた評論家ハンスリックも、そうした風潮を嫌っていたのでした。言い換えれば、音楽が、音楽以外のものに支配されることが許せなかったのだと言えるでしょう。ハンスリックは現在では、救いがたいほどの頑迷固陋な人物のように思われることが多いのですが、まあ当時の安直な描写ばかりの標題音楽が氾濫していたことを考えると、彼のような頑固オヤジが現れるのも仕方がないという気もします。 曲に、例えば誰かの詩と同じタイトルが与えられているからと言って、その詩を「音楽化」したのだとは考えないほうが良いでしょう。作曲家がその詩を読んでどこかが触発され、曲を書く原動力となった、という程度に理解しておけばよろしいのです。詩でなくとも、小説でも絵でも写真でも、なんでも同様です。それを「小説の音楽化」「絵の音楽化」などと思ってしまうから、なんでこのタイトルに?……という疑問が生まれることになります。 ドビュッシーはそのあたりをよくわかっていたので、『前奏曲集』を書くにあたって、タイトルを曲頭に示さず、末尾に控えめに記すにとどめました。俺はこういうイメージで作曲したけれど、演奏する者がこのタイトルにとらわれる必要は無い、というつもりであろうかと思われます。しかるに、「タイトルの意味をよく考えなさい」というような指示を生徒に出すピアノの先生の多いこと。亜麻色の髪の乙女をいかに鮮明に思い浮かべるかなどということは、決してドビュッシーの本意ではないのです。 現代音楽になると、さらに意味不明なタイトルを持つものが多くなりましたが、そのあたりは現代美術でも同じことなので、まあ「モダンぶり」とでも言うようなところでしょうか。統計を取ったわけではありませんが、 「いや、タイトルはあんまり気にしなくて良いですよ」 と言う作曲家のほうが多数ではないかと思われます。
私自身はどうかと言えば、けっこう標題を持つ作品をたくさん書いています。ただし、その標題に対するスタンスはいくつかのパターンがあります。 まず、最初から「テーマ」としてタイトルをつけたもの。「オノゴロ島」「私事」「満潮に乗って」「水の変想曲」「Suite:Sweet Home」「いのちの渦紋」などがこれに属します。「オノゴロ島」だけは古事記という出典があるので、演奏者も少し目を通しておいて欲しいなと思ったりしますが、あとは個人的なキーワードみたいなものなので、ちょっと頭の片隅にとどめておいてくれれば良いという程度です。 一応方向性だけは決めて作曲し、ある程度曲が形になってからタイトルを決めたもの。「生々流転」「有為転生」「Nostalgia」「The Dance at Twilight」なんかがこれです。組曲で、各楽章のタイトルが先に決まり、全体のタイトルがあとになったという「進化の構図」なんかもこのタイプに近いですね。これらも、奏者があまりこだわらなくてもいい感じです。 最後までタイトルが決まらず困ったというのも、「法楽の刻」などいくつかあります。「月姫の舞」に至っては他人につけて貰いました。 いずれにしろ、曲の理解のちょっとしたよすがになればそれで良いので、タイトルに拘泥する必要はさらさら無いというのが私の標題へのスタンスであるようです。つまり、いかなる意味でも「描写音楽」ではないということですね。 「満潮に乗って」はアガサ・クリスティの推理小説のタイトルから借用したし、「いのちの渦紋」は宮城谷昌光氏の「太公望」の中の章題から借用しましたが、いずれも小説の内容とはまったく関係がありません。単にそのタイトルの語感からイメージをふくらませて作曲したまでのことです。たぶん、他の作曲家も、いまはおおむねそんな感じでタイトルをつけているのではないかと推測します。リヒアルト・シュトラウスはかなりガチでタイトルに用いた物語などの内容を音楽化しようとしている感じですが、そういう人はむしろ少数派なのではないかと思います。 それはそうと、タイトル無しの作品に「あだ名」をつけられるくらいになってみたい、という気はしています。よほど人口に膾炙しないと、そんなことは起こらないでしょうが。
(2019.12.21.)
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