歴史における数字の読みかた

         

 歴史の本などを読んでいると、よく戦争のシーンが出てきます。
 双方何万とか何十万とかの軍勢を催して一大決戦をおこなった、なんて記述が普通にあるのですが、はたしてその数字にどのくらいの信憑性があるのだろうかと、いつも考えてしまいます。
 中国史で言えば、まずは(殷)を亡ぼした牧野の戦いというのがあって、旧勢力である商は実に70万人の大軍団を差し向けたと言います。これに対して周の軍勢はわずかに数万人。しかし商軍の兵士はほとんどが奴隷兵であって、むしろ商が倒れてくれたほうがありがたかったため、たちまち寝返って商を亡ぼす側についたというのです。
 牧野の戦いが西暦何年にあったのかは定かでありませんが、紀元前11世紀くらいであったことは間違いありません。そんな頃に、70万などという人数を一箇所に集めることが可能であったかどうか、はなはだ疑問です。
 それから、戦国時代に強国とその隣のが戦った長平の戦いというのがあります。守る側の趙の将軍廉頗(れんぱ)は、秦の大軍を相手に堅く守って持久戦を強いましたが、秦の工作が入った趙王から呼び戻されてしまいます。代わって司令官となった若手の将軍趙括(ちょうかつ)は、功にはやって突出し、秦の白起(はくき)将軍によって叩き潰されます。白起は趙軍をことごとく捕らえて皆殺しにしたのですが、その数なんと45万と言われます。45万人などという軍勢が当時ありえたのか、それを本当に皆殺しにすることが可能だったのか、これまた眉唾物です。

 秦帝国が亡びたあと、その跡目を争ったのが劉邦項羽でした。劉邦は先に秦の首都である咸陽を制圧したために項羽に憎まれ、僻地の漢中に申し訳ばかりの領地を貰いましたが、そこから盛り返して、項羽の本拠である彭城に攻め寄せます。項羽の論功行賞に不満を持っていた連中が次々と加わったため、彭城に着いた時にはなんと56万人の大軍になっていました。もちろんたちまち城は落ちましたが、北方の叛乱を鎮圧していた項羽はこれを聞いて怒り心頭に発し、わずかに3万の兵だけ率いて彭城に攻めかかります。56万の軍は、この猛攻を受けてたちまち潰走したのでした。
 しかし56万という人数が、はたして当時のひとつの城におさまったものでしょうか。
 五胡十六国時代に、華北を統一した前秦の皇帝苻堅(ふけん)は、百万の軍勢を率いて華南の東晋を征伐に向かいます。東晋がやっとかき集めた軍は8万に過ぎません。淝水という川をはさんでにらみ合った両軍でしたが、先に渡河を始めた前秦軍の先鋒が急に崩れ、「負けた負けた」と叫びながら後方に引き返したため、大軍であったことが仇で、逆にパニックを惹き起こし、あっという間に壊滅してしまったとか。
 先鋒部隊はもともと、途中で吸収した東晋の降伏部隊だったもので、最初から寝返る気だったというのですが、それにしても100万というのはべらぼうな数です。
 100万という数が史書にしっかり載っているのはさすがにこの前秦軍の他にはあまりありませんが、何十万という単位の軍勢なら中国史にはしょっちゅう出てきます。

 数十万という人数は、現代でも中型の都市人口に匹敵します。そんな人数に統一行動をとらせるのは、どうも難しいのではないでしょうか。食糧もものすごい分量になるはずですし、この人数が毎日炊事をし排泄をするのですから、燃料もとてつもない量になり、ウンコの始末だけでもえらい騒ぎになりそうです。
 実は、中国の史書の読み方にはちょっとしたコツがあるようです。まず、兵力を「○○万と号する」と書いてあった場合は、実数はその半分か3分の1というところと考えるべきだそうです。三国志で有名な赤壁の戦いの時、曹操は実数20万の軍を80万とサバを読んでいます。4分の1だったわけです。本当は20万というのも怪しいものだと私は踏んでいます。
 次に、人数は戦闘員だけではないということ。ひとつの都市が動くような人数ですから、戦闘以外の用務をこなす非戦闘員がかなり含まれています。荷物担ぎの人夫、炊事担当者、上記の排泄物の後始末などをする掃除夫などの他、途中で掠奪した女を連れている将兵も居ましたし、春をひさぐ商売女たちも同行していました。遠征軍であればその比率も高くなり、全体の5割から、ひどい時には8割近い非戦闘員が含まれていたりしました。
 これで上記の淝水の戦いにおける前秦軍を考えてみれば、まず100万と「号する」とありますので実数はその半分から3分の1、つまり50万ないし30万くらいだったと思われます。そしてこれは遠征軍でしたから、非戦闘員の割合が大きく、実質の戦闘員は10万を切っていたような気がします。これに対し、東晋軍は自国の領内で戦うので、8万人のうちほとんどは戦闘員だったでしょう。10万の遠征軍対8万の防衛軍なら、実はまあ良い勝負です。ちなみに純戦闘員だけを指す記述は、「精兵○万」などと書くことになっています。
 彭城での劉邦と項羽の戦いでも、項羽の3万はほぼ精兵でしょう。それに対し、劉邦の56万というのは大半が「軍に従っていればメシが食える」と考えて着いてきただけの連中で、おそらく戦闘員は6、7万であったのではないかと思われます。
 とはいえ、牧野の戦いや長平の戦いでは、自国領内で守る側がすごい数になっていますので、いつでもこの計算が成り立つかどうかはわかりません。

 先の第二次世界大戦で、日本は合計220万人くらいの兵力を動員したとされています。当時の総人口は1億に少し欠けるくらいでしたが、これだけの壮丁が動員されると、国内の働き手が大半居なくなったような印象があったようです。そのため女性や児童までもが勤労奉仕に駆り出されました。
 これで見ると、総人口の3%も動員されれば、印象としてはほとんど総動員という感じになることが想像されます。意外と少ないものだと思われないでしょうか。
 昔の戦争は近代戦のような国家総力戦ではありませんし、どこの国でも農業が主な産業でしたから、このパーセンテージはもう少し低くなるでしょう。
 日本の戦国時代では、大体領地の石高1万石につき200~250人というのが可能な兵力だったと考えられています。なお当時の石高と人口は、ほぼ似たオーダーの数字になると考えて良さそうです。人間ひとりが1年間に消費する米が約1石とされます。当時は別に米をどこかに輸出していたわけではありませんから、ほとんどが国内消費でした。従って、米1石は大体人間ひとりと考えてそれほどの誤差はありません。1万石なら1万人とざっと見積もることができ、そこから200~250人の兵力を捻出できるとすれば、やはり2~2.5%ということになります。
 1万人の兵力を動かすためには40~50万石の領地が必要となり、50万石以上の領地を持っていた大名などは戦国末期でもそう多くはありません。万単位の軍勢などというのは本当に珍しいものであったということがわかります。
 中国の場合、非戦闘員の割合が多いので、パーセンテージはもう少し上がるかもしれませんが、それにしても国民の1割を兵および軍属として動員するなんてことは不可能でしょう。そんなことをしたら、田畑の働き手が居なくなって翌年の収穫が全然無くなってしまい、国そのものが立ちゆきません。
 牧野の戦いで70万の兵を繰り出したと言われる商ですが、70万の兵を繰り出すためには総人口が少なくとも2千万人くらいは必要となります。紀元前11世紀に、中国にそれほどの人口が居たとは考えられません。ずっと後世の秦帝国発足時頃に5千万居たかどうかというくらいで、しかもこの時代の「中国」は商の頃よりずっと拡がっています。
 赤壁の戦いでの曹操軍が実数20万というのも、このことを考えると怪しいと私は思うわけです。
 三国時代は人口が激減した時期でした。でもでもでも、人集めには躍起になっています。戸籍に載っている人口は、三国合わせても千万を大きく割り込み、数百万に過ぎなかったそうです。実際には各地の豪族の私有民という形で、戸籍に載っていない人口がかなりあったと考えられますが、それにしても2千万人とは居なかったでしょう。曹操はそのうち6~7割くらいを支配していましたが、その中からひとつの戦場に20万人も駆り出したら、おそらく他の国境守備隊などはほとんど空っぽになったはずです。
 古書にある軍勢の数というのは、よくよく眉に唾をつけて読むべきなのです。

 なお「軍」というのは春秋時代には1万2500人の単位だったと言われます。500人の部隊が「旅」であり、それが5つ集まった2500人の部隊が「師」、そして師が5つ集まって軍になっていました。現在の軍隊でも旅団、師団という名称が残っています。
 春秋時代に最強であったの国が、一時期6軍を持っていたとされます。7万5千人です。しかし間もなくそのうち2軍が廃止されて4軍となったり、普通は3軍であったようです。
 他のといった強国でも、大体3~4軍が基本でした。その次のクラスのなどは2軍がせいぜいでした。
 春秋時代頃の国というのは、都市国家がいくつか集まって領域国家を作った段階ですから、いくら強国でも5万人程度の兵力を動員するのが精一杯であったことは想像がつきます。「軍」すら持てない弱小国も数多くありました。
 それが戦国時代になると、強い国が弱小国を併呑して、7つくらいの強国が分立する状態になったわけですが、それにしても動員力が急に何十倍にもなるはずはありません。やはりどの国も十数万というのがぎりぎりいっぱいだったでしょう。長平の戦いで殺された趙軍45万というのも、実数はその10分の1くらいだったのではないでしょうか。

 日本でも、承久の乱鎌倉幕府が20万の兵をこぞったとか、応仁の乱山名宗全の西軍と細川勝元の東軍がそれぞれ10万ずつの兵を京都に入れて市街戦をおこなったとか、いろいろ数字は出てきますが、これらはほとんど信用できません。中国と違って日本には大会戦ができる平原が少ないですし、行軍するための道路もごく狭いもので、2列縦隊すらできない路幅の道がほとんどでした。
 仮に無理矢理2列縦隊で行軍したとしましょう。軍隊の移動には騎馬や荷車なども伴いますから、平均して前後2メートルくらいは空けなければなりません。すると、例えば1万人の軍勢が移動するには、5000×2メートルで、10キロくらいに拡がってしまうことになります。実際にはもっと長蛇の列になったと思われます。だから日本の軍勢の移動は、いくつかのルートに分けて進み、要所要所で集結するのが普通でした。
 日本の戦記はどうしても中国の史書の影響を受けていますので、表現が似たようなものになります。何十万などという数字を平気で書いてしまうのもそのためです。
 元寇の時に、元軍が降伏した南宋の将兵などをこぞって、総数14万人で攻め寄せるという情報が届けられたところ、そのあまりの多さに、幕府要人たちは誰も信じなかったという話があるほどです。承久の乱で20万などという軍勢を動かしていたのなら、14万くらいで驚くはずはありません。
 おそらく、戦国時代以前の戦記に顕れる軍勢の数字は、平家物語にせよ太平記にせよ、少なくともゼロをひとつ落として読むべきでしょう。場合によってはふたつくらい落としても構わないと思います。
 戦国時代になると、上記のように石高あたりの動員兵力が明確に規定され始めますので、もう少し正確な数字になるでしょう。しかしそれでも、動員兵力ぎりぎりいっぱいを一方面にだけ向けるわけにはゆきませんから、ひとつの戦場に集まりうる兵数は少し小さめの数字で見ておいたほうが良いと思われます。
 豊臣秀吉小田原征伐の際に動員した22万人というのが、明治以前ではおそらく最大の兵力でしょう。この戦いには、関東と東北を除くほとんど全国の軍勢が集まりました。当時の人口からしても、大体可能な限りをこぞってそんなものであったことが推定されます。しかも、この22万人は別に全部が小田原に来ていたわけではなく、大半は関東各地で北条氏の支城を攻略していました。
 その前の織田信長の最大動員兵力が、たぶん20万に少し届かないくらいだったろうと思われます。ただし信長は多方面に同時に作戦を展開していましたので、それらがひとつの戦場に集結したことは一度もありません。秀吉が毛利氏と対陣するべく率いていた5万人くらいというのがいちばん大きな部隊だったでしょう。
 それ以前になると、今川義元武田信玄が2万とか2万5千とか言われる兵を率いて上洛しようとしたのがおそらく最大級です。どちらも、旧分国を3つくらい手中に収めてようやくそれだけ動かすことができました。一箇国だけでは、どんなに肥沃な土地だったとしても、そんな数の兵を養うことは不可能です。
 今川義元が2万の兵を率いて尾張に進入したとすると、先ほどの計算からすると行軍の長さは20~30キロに及んでいたはずです。つまり、先頭から後尾まで、軽騎で駆けたとしても2時間以上かかりました。ましてや、桶狭間の本陣への信長の攻撃が伝えられてから兵を動かそうとしても、例えば最後尾であれば戦場に到着するのに4時間5時間かかるのは間違いありません。実際には途中に他の軍勢もひしめいていますから、まさに現代の高速道路における大渋滞と同じことが起こり、何時間も動くことすらままならないという状態になったはずです。
 桶狭間の戦いは信長の奇襲などではなく、軍勢の姿も見せ、攻撃意図も明らかにしての堂々の挑戦でした。義元が前後数十キロに散らばった軍勢を呼び集めるまでに片を付ければ済むことだと見切った信長の作戦勝ちだったわけです。今川軍で戦闘に参加したのは、おそらく千人以下だったでしょう。つまり、桶狭間という限定した戦場についてだけ見れば、信長軍のほうがはるかに多勢であったわけで、決して少数よく多数を制した戦いだったのではありません。
 歴史を読む時には、数字に関してはよくよく注意する必要がありそうです。いや、現代の話であっても、数字には気をつけなければなりません。数字というのは、しばしば嘘をつくものです。

(2012.3.3.)


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