歴史の本を読むと、いまだに、
──織田信長は平氏だったので征夷大将軍にはなれなかった。
とか、
──豊臣秀吉は足利義昭の養子になろうとしたが断られたため、源平藤橘に続く第五の姓「豊臣」を創始したが、源氏でなかったため征夷大将軍にはなれず、仕方がないので関白の地位に就いて全国を支配した。
とかいう記述がちょくちょく見受けられます。
「源氏でなければ征夷大将軍にはなれない」という話が、いつ頃、どのあたりから言われ始めたのか、不思議でなりません。これが俗説に過ぎないことは、歴代の征夷大将軍の姓名を見ただけでも明らかです。
●初代 大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)
●2代 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
●3代 文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)
●4代 藤原忠文(ふじわらのただふみ)
●5代 源義仲(みなもとのよしなか)
●6代 源頼朝(みなもとのよりとも)
●7代 源頼家(みなもとのよりいえ)
●8代 源実朝(みなもとのさねとも)
●9代 藤原頼経(ふじわらのよりつね)
●10代 藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)
●11代 宗尊(むねたか)親王
●12代 源惟康(みなもとのこれやす)
●13代 久明(ひさあきら)親王
●14代 守邦(もりくに)親王
●15代 護良(もりなが、あるいはもりよし)親王
初代から15代目までの征夷大将軍をリストアップしてみましたが、源姓は5人しか居ません。しかも12代の源惟康は11代宗尊親王の子で、退任してから親王宣下を受けています。実際には源氏とは言えません。最初の3人は大伴氏、坂上氏、文室氏で源平藤橘ですらありませんし、藤姓の征夷大将軍が3人、皇族が4人(惟康を含めれば5人)居ます。どこを見れば「源氏でなければ」などと言えるのでしょうか。
初代の大伴弟麻呂は、60歳過ぎて桓武天皇から征夷大将軍を拝命し、蝦夷を征伐してこいと言われました。もういい齢ですし、本人にとっては大迷惑だったことでしょう。桓武天皇という人は、意欲満々な帝王であっただけに、とにかく人使いが荒かったようで、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)なんかも何度も隠退を願ったのに許されず、長岡京造営や平安京造営にこき使われました。
弟麻呂も仕方なく征旅に発ったものの、実際には副使であった坂上田村麻呂に任せきりであったようです。それでも一応の成果を得たのか、のち従三位勲二等を授けられました。
弟麻呂が引退した後、田村麻呂が征夷大将軍の位を継ぎます。この人についてはよく知られています。むしろ田村麻呂が初代征夷大将軍だと思っている人が多いのではないでしょうか。
坂上田村麻呂は日本史上最初に生まれた名将と言われ、平安初期を代表する武人とされていますが、そのわりに具体的な戦さ話はあんまり伝えられていません。華々しい合戦絵巻くらい作られても良さそうなものですが、彼が制圧した東北地方にも、凱旋した京都にも、激戦があったような言い伝えは残っていないようです。
実のところ、この「征夷」は、征服戦争というようなものではなかったという説もあります。未開の地に水田耕作を勧めてまわり、原住民がそれを受け容れたらそれで「征夷」は成ったと見なしたらしく、そうであってみれば戦闘よりも外交交渉が主になったに違いありません。彼に征服されたはずの東北地方でも、田村麻呂はむしろ尊敬の念をもって記憶されているところを見ると、むしろ親身になって「指導」したというのが田村麻呂の実情であったように思われます。
もちろん軍事的才能が無かったわけではありません。桓武天皇歿後、平城上皇と嵯峨天皇の間で起こった紛争、いわゆる「薬子の変」の時には、嵯峨天皇側に立って、平城上皇の脱出路をいちはやく断ち、抗戦を諦めさせています。しかもその後、上皇側の将であった文室綿麻呂の助命を嘆願しています。彼はそれ以前に蝦夷の首長であったアテルイの助命嘆願もおこなっており、そこから見てもなるべく人を殺したくないという考えを持っている人物であったことが窺えます。アテルイは残念ながら斬首されてしまいましたが、綿麻呂は一命をとりとめました。文室綿麻呂は、こののち田村麻呂の忠実な副官となり、田村麻呂の死後征夷大将軍の位を継ぐことになります。
このように、初期の征夷大将軍は、文字通り「蝦夷を征する」将軍であって、もちろん世襲ではなく、有力な副官に受け継がれる位であったことがわかります。
綿麻呂の死後、しばらく征夷大将軍という位は置かれませんでした。4代目の藤原忠文は実際には「征東大将軍」という職名で、平将門の乱を鎮圧すべく任命されたものです。あいにく、忠文が関東に到着する前に、将門は藤原秀郷に討たれてしまっていたため、忠文は「征東代将軍」としてはなんら為すところ無く終わってしまいました。もっとも、その代わりと言ってはなんですが、そのあとで今度は「征西大将軍」にも任命され、藤原純友の乱を鎮圧します。こちらは首尾良く任務を果たしたようです。正確には征夷大将軍ではありませんが、一応彼が4代目ということになっています。
5代目の源義仲は木曽義仲の名でよく知られています。朝日将軍という別名もありますね。平家の一党を京都から追い払った功で将軍位を与えられましたが、記録的な飢饉のために彼の軍勢が掠奪を働いたりしたので評判を落とし、後白河法皇と不仲になって討伐令を受けてしまって、従弟の源義経に斃されてしまいます。
その次の、6代目の征夷大将軍が源頼朝ですが、これまでの例からして、征夷大将軍という位は別に「全国の武士を統括する」というような職能を持つ地位ではないことがおわかりだと思います。大体最初の3人の頃には、まだ「武士」なる身分は存在していませんでした。藤原忠文も、木曽義仲も、全国の武士に号令する権利などは持っていません。それが頼朝に至っていきなり「武家の棟梁」になるなんてこともあり得ないはずです。
ただし、頼朝の時に始まったことがひとつあります。言うまでもなく、幕府を開いたということです。
幕府というのは本来、中国で皇帝に派遣された将軍が、出先で一時的に軍政を敷くための機関を意味します。わざわざ建造物など作らず、テント(幕)で間に合わせたりしていたので幕府という名がついたのでしょう。頼朝は軍政の中枢として幕府という機関を作ったわけです。物知りの大江広元あたりが命名したのかもしれません。
この一時的な軍政機関が常設となり、次第に全国の武士を傘下におさめていくわけですが、鎌倉時代の終わり頃では、まだ幕府系でない武士も数多く居たわけで、楠木正成とか赤松円心とかがその代表でしょう。幕府がすべての武士を統括するようになるのは、江戸時代に入ってからのことと言えそうです。
頼朝のあとは長男の頼家が、それからその弟の実朝が征夷大将軍位を継ぎましたので、ここから将軍位の世襲が始まったと言っても良いのですが、源氏宗家が実朝の暗殺と、その下手人であった頼家の子公暁(くぎょう)の誅殺とで絶えてしまったあとは、また源氏でない将軍が続くことになりますし、世襲ということもなくなります。
鎌倉時代の将軍というのは、実朝からあとはほとんど知らない人が多いのではないでしょうか。執権である北條氏のほうが主役になるため、将軍が誰かなどということは、歴史の授業でもまず扱われません。そして、この時期の将軍が盲点になっているため、「将軍は源氏でなければ……」みたいな俗説が信じられやすくなるのだと思われます。
鎌倉4代将軍から9代将軍までは、3組の父子が就任しています。藤原頼経の息子が頼嗣、宗尊親王の息子が上記の通り源惟康、久明親王の息子が守邦親王です。いずれも、幼少で鎌倉入りし、成人すると京都に追い返されるということが繰り返されました。守邦親王の時に鎌倉幕府が亡びますが、親王はそれに伴って剃髪出家し、間もなく病死しました。なんの実権も無いお飾りの将軍ではありましたが、一応幕府のトップとしてのけじめをつけた形と言えるかもしれません。
その次の征夷大将軍が大塔宮こと護良親王です。「太平記」を読んだ人にはお馴染みですね。非常に有能なオーガナイザーで、父・後醍醐天皇が隠岐へ流されているあいだに全国の不平分子を組織し、倒幕の機運を盛り上げました。鎌倉幕府が倒れてのちは、足利尊氏の危険性にいちはやく気づき、後醍醐天皇に繰り返し進言しますが聞き入れられず、逆に足利側に身柄を引き渡されて非業の最期を遂げます。粗暴な人だったとも言われますが、それは勝者である足利側から見ての評価ですから、あまりあてにはなりません。
護良親王の次の征夷大将軍が足利尊氏かと思いたくなりますが、そうではありません。護良親王の異母弟である成良(なりよし、あるいはなりなが)親王が将軍位を引き継ぎます。ただしこの16代征夷大将軍は、別に何をしたということもなく、すぐに辞任してしまいます。そのあとがようやく尊氏ということになります。
また、足利幕府と対立していた南朝では、そのあとも宗良(むねよし、あるいはむねなが)親王、尹良(これよし、あるいはこれなが)親王という征夷大将軍が任命されています。宗良親王は後醍醐天皇の皇子ですから護良・成良両親王の弟であり、尹良親王はその息子です。この人は地侍に襲われて落命するという悲運の人物でした。
それ以降の征夷大将軍は、確かに全員源氏となっています。しかし、それは結果的にそうなったというだけのことではないかと思います。源氏でなければ征夷大将軍になれないなどという認識は、少なくとも室町期・戦国期には無かったでしょう。
実際に、晩年の信長に対して朝廷は、太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに就任するよう求めていたという記録が残っています。信長は若い頃藤原氏を名乗ったり平氏を名乗ったりしていましたが、源氏を自称したことは無く、その信長にほかならぬ朝廷が征夷大将軍位を打診したということは、源氏と将軍位にはなんの関連も無かったことの何よりの証拠ではないでしょうか。
信長はこの打診に明確に返答する前に本能寺の変で斃されてしまいます。どれかの地位に就任する気があったのか、あるいは全部断る気で居たのか、それは永遠の謎となってしまいました。信長の革命性・先進性を高く評価している人は「全部断る気だった」と思いたがるようです。
続く秀吉についても、はたして征夷大将軍になりたくてもなれなかったのか、そもそもならなくても構わないと思っていたのか、そのあたりははっきりしません。ひとつ言えることは、応仁の乱以後、征夷大将軍の位はほとんど実質を伴っておらず、この位が全国の武士の棟梁であるなどという感覚は、秀吉の時期でもまだそれほど明確には備わっていなかっただろうということです。
実は、「武家の棟梁」とは征夷大将軍ではなく、「源氏の長者」に対して意識される立ち位置であったという説があり、私は非常に納得しています。もっとも、これも古来そうだったというわけではなく、征夷大将軍にして源氏の長者を兼ねたのは足利義満が最初でした。それまでは、いわゆる公家源氏の、久我氏や堀川氏などが就任することが多かったようです。源氏の中でいちばん官位が高い者が源氏の長者になるわけなので、それも当然でしょう。
ただ、義満以後、源氏の長者にならなかった将軍というのは、なんとなく影が薄い印象があります。足利将軍では5代義量(よしかず)、7代義勝(よしかつ)、9代義尚(よしひさ)、そして11代義澄(よしずみ)以降は源氏の長者になっていません。義量・義勝・義尚は若くして亡くなり、義澄以降などはもういかにもダメダメな感じです。
徳川将軍でも、2代秀忠は源氏の長者になりませんでした。家康は将軍位は早々に秀忠に譲りましたが、源氏の長者の地位は死ぬまで自分が持っていたのです。将軍位を譲っても、家康は「大御所」と称していつまでもでしゃばり、幕府が出す布令などにも必ず自分が添え書きしていました。徳川の世を早く安定させたいのなら、自分は完全に裏に回り、表には秀忠だけを立てて布令を出させておいたほうが得策だったと思うのですが、「征夷大将軍」などという地位にさほどの権限が無いことは家康がいちばん良く知っていたのかもしれません。
家光からあとの徳川将軍は、全員源氏の長者になっています。将軍宣下と同時に源氏の長者に就任するのが、はっきりと慣例になったわけです。征夷大将軍と源氏が不可分と錯覚されるようになったのは、この慣例がほぼ根付いた、18世紀以後のことだったのではないかと思います。
少なくとも徳川幕府以前には、そんなことを考える人は居なかったでしょう。だから、信長も秀吉も、征夷大将軍に「なれなかった」わけではないし、まして家康が「征夷大将軍になるために」藤原氏から源氏に改姓したなどというのも、まったくの憶説でしかありません。
こういうことは、別に秘文書を探し当てなければわからないような話ではなくて、普通に歴史を見て常識的に考えればわかることなのですが、一旦俗説として根付くと、それを覆すのはなかなか大変なことらしく、いまでも「征夷大将軍=源氏」説をさらりと書いてある本は少なくないのでした。
(2013.3.7.) |