黒田官兵衛という人物

         

 NHK大河ドラマはしばらく見ていなかったのですが、2014年「軍師官兵衛」はわりと好きな題材であるのと、うちにビデオデッキが増えて毎週録画が容易になったのとで、いちおう最初から毎回見ています。
 第1話の冒頭から小田原攻め「人を殺すことを好まない戦国武将」というキャラクターをアピールしていましたが、これは大河ドラマの主人公としてはもう仕方のないことでしょう。近年の戦国もの大河を見ても、直江兼続山本勘助山内一豊も、みんなそんなことになってしまっています。戦好きで敵をじゃんじゃん殺すような人物では、大河の主人公にはして貰えません。実像はどうあろうと、主人公になるのならば戦嫌いの平和主義者にせざるを得ず、その分他の誰かが割を食う、というのがいつものパターンです。
 それでのっけから「ああ、またか」と呟いてしまいましたが、まあ大河ドラマを見る以上そこは納得しなければなりません。
 秀吉役が竹中直人氏で、たぶんわざとだと思いますが97年「秀吉」とかぶらせた脚本・演出になっています。空中に一文字ずつ置くようにしながら「心・配・御・無・用」と言うのを聞いた時は噴き出しそうになりました。こういう遊びがあるのは楽しいですね。

 いまのところいかにも黒田官兵衛らしい謀略の凄みみたいなものはあまり出てきておらず、むしろ播磨の小領主としてあくせくしているばかりで、これからどうなってゆくのか興味あるところです。司馬遼太郎『播磨灘物語』では、官兵衛は秀吉に邂逅する前にちょくちょくへ出かけてゆき、そこでいわば「世界」というものに触れることで開眼したという風になっていたと思いますが、ドラマでは堺へは一度しか行っていないようです。実際の官兵衛がどうであったのかはなんとも言えませんが、書物の知識だけで稀代の戦略家が誕生するとも思えません。何か、単なる地方の一武将でなく、大所高所の見える戦略家となるきっかけがあったに違いなく、そういうところがドラマの中で描かれるのかどうか、やや心許ない予感を覚えつつも、今後を楽しみにしてゆきたいと思っています。

 さて、前に「軍師」について書いた時は、主に竹中半兵衛について触れました。竹中半兵衛は、はっきりした証拠はありませんが「史記」に出てくる張良をモデルにして、自分自身を育てて行った形跡があります。
 高祖劉邦の幕僚として大戦略を立て、劉邦が天下を盗るための道筋をつけた張良は、言ってみれば史上もっとも「軍師」らしい軍師です。まず、富貴や功名をさして望んだようではなく、大目的のために謀略を立てることそのものが好きでたまらないといった、いわば仕事のための仕事をしているような雰囲気があるところがその一点です。それから、実際の戦闘指揮を任されるとあんまりうまくなく、本人に卓越した戦闘力があるわけでもなく、ただ帷幕にあって作戦を立てさせれば天下一品だったというあたりも、いかにもな軍師という感じです。
 ちなみに諸葛孔明軍師将軍という地位に就いていたことはありますが、どちらかというと本質は政治家であって、実際の戦争における軍略は苦手であったふしがあります。われわれのイメージする「軍師」に近いのはやはり張良でしょう。
 張良はからだが弱かったようでもあり、同じように虚弱体質であった竹中半兵衛が大いに共感を持ったことは容易に想像できます。槍をふるう体力が無くとも、人にぬきんでた智慧さえあれば世の中を動かすことができる……という実例としての張良は、蒲柳の質の半兵衛少年にとっては救いであり、希望でもあったに違いありません。
 半兵衛は、秀吉の中に、劉邦そのものではないにせよ、それに近い資質を見て取って、この人に天下をとらせようと思ったのでしょう。織田信長の家臣にはなったものの、みずから希望して秀吉の組下に加わったのは、そういう魂胆があったからではないでしょうか。少なくとも、自分自身が織田家の重臣として出世しようなどという気持ちはこれっぱかりも無かったように思われます。
 残念ながら半兵衛は、秀吉が天下をとるところまでは見ることができずに病死してしまいますが、ある程度のスケジュールは秀吉に告げていた可能性もあります。秀吉の天下とりの過程を見ると、かなりきわどい行動が何度もあります。何か半兵衛が生前に示唆していたことがあったのかもしれません。

 「軍師」に徹しようとした半兵衛に対し、官兵衛のほうはそこまで透明度が高くないように思えます。野望も大きければ功名心も強く、あわよくば自分自身で天下をとってみたいというような気分が見え隠れしている気がします。たぶんドラマでは、そのあたりはきれいごとで片づけそうですが、伝えられる言動を考えてみると、けっこう黒いところがありそうです。
 まず歴史への登場の仕方も、何度も乞われて重い腰を上げた半兵衛とは違い、いわば自分から売り込んできた観があります。織田と毛利の角逐の場となった播磨で、いち早く織田に従うことで、播磨における自分の地位を高めようというもくろみがあったことは確かでしょう。官兵衛は御着城主小寺政職(こでらまさもと)の家老でしたが、小寺家における発言力も、織田信長が背後についているとなれば非常に大きなものになります。実際、彼は信長の威光を背負って、播磨一国をもう一歩でまとめるところまで漕ぎ着けます。
 ただしそののち、東隣の別所家が織田に離反し、動揺した小寺政職も毛利に寝返り、官兵衛はせっかくまとめかけた播磨のほとんどを取りこぼしてしまいます。それでも秀吉は官兵衛を重用し続けるのですが、信長のほうはこの時官兵衛を見限っていたかもしれません。だからこそ、その後官兵衛が、信長に叛旗を翻した荒木村重の説得に乗り込んで幽囚の憂き目を見た際に、冷酷にも官兵衛の一子松寿丸黒田長政)を殺すよう秀吉に命じたりもしたのでしょう。
 秀吉は悩んだ結果、命令に従おうとしますが、病身の竹中半兵衛が松寿丸を匿い、信長に直談判して一命を救います。
 後年、黒田長政が実に軽々と豊臣家を裏切り、徳川家康に乗り換えるのは、こういう幼時体験があったからと思われます。彼は信長にも秀吉にも、なんら恩義を感じていなかったのです。
 しかし秀吉と官兵衛は、それなりに気の合う仲であったのでしょう。ここまでは失敗続きの官兵衛を、秀吉は身近に置き続けます。

 高松城の水攻めを進言したのは官兵衛だったと言われています。これはかなり残酷な方法であり、官兵衛が敵を殺すことを好まなかったというのはどうも怪しいのですが、こういうところを見ると、官兵衛は戦略家というよりも戦術家の面が強かったようにも思われます。四国攻めの時に長曽我部元親のたくらみを簡単に見抜いたというのも、官兵衛の手柄のひとつとなっていますが、これも戦略というより戦術レベルの話でしょう。
 戦略家らしさを感じさせるとすれば、高松城攻めの最中の秀吉軍に本能寺の変が伝えられた時の発言でしょうか。動揺する秀吉軍首脳の面々の前で、官兵衛は

 ──お嘆きになっておられる時ではありません。いまこそ殿が天下を狙う絶好の機会でございますぞ。

 と進言したと伝えられます。秀吉はそれを聞いて「中国大返し」を決意したというのですが、どんなものでしょうか。
 この時秀吉が天下を目指す切所に居るということは、官兵衛に言われなくとも、小一郎秀長も、蜂須賀小六も、浅野長政も、石田三成も、首脳陣はみんな意識していたのではないかという気がするのです。つまり官兵衛の言葉は、言わずもがなというか、誰もが思っていたけれど言わずにいたことだったのではありますまいか。だとすればこのひとことは、むしろ秀吉を失望させたとも考えられます。
 実際この時点からのち、官兵衛はむしろ小一郎秀長に属しているような立場になってゆきます。山崎の合戦でも賤ヶ岳の合戦でも、そして上記の四国攻めでも、彼は秀長の管理下で動いています。
 はたして、黒田官兵衛には、「軍師」としての華々しい成功というようなものはあったのでしょうか。

 秀吉政権が安定してゆくにつれ、官兵衛の謀略癖はむしろ邪魔になってきたと思われます。安定した政権に必要なのは、石田三成タイプの能吏であって、奇策縦横な「軍師」ではありません。
 この時期の逸話としては、秀吉が
 「わしのあとに天下を盗るのは誰だと思う?」
 と群臣に訊ね、みんなが徳川殿だとか毛利殿だとかかまびすしい中、大きく首を振った秀吉は
 「あのちんばよ」
 と自答した、というものがあります。官兵衛は荒木村重に囚われていたあいだ、無理な姿勢で土牢に入れられていたために、足の筋を傷めてびっこを引くようになっていました。
 この話と似ていますが、誰かが
 「官兵衛殿の所領が少なすぎるのではありませんか」
 と秀吉に訊ねたところ、秀吉は
 「あやつに百万石も与えてみろ、たちまち天下を盗ってしまうわ」
 と応えた、というのもあります。どちらにしても史実としての信憑性は薄いのですが、秀吉が官兵衛を油断のならぬ奴と見ていたらしいことは窺えます。少なくとも、播磨攻略時代から本能寺の変の頃にかけてふたりのあいだに漂っていた親密さや信頼感が、天下統一後に失われていたのは確かでしょう。これは中国やヨーロッパの王朝創始者などにもよく見られる状況で、特に珍しいというものではありません。
 ともあれ官兵衛は剃髪して如水を名乗り、家督を長政に譲って隠居します。秀吉からの無用の猜疑心を避けたというところでしょう。

 関ヶ原の戦いに際しては、如水は北九州の領地に引きこもり、それまで蓄えた金銭を投じて数千の兵を募り、上方へ出かけている近隣の大名の領地をものすごい勢いで席巻します。こういうことができるのは、やはり軍師であるよりも武将であったということかもしれません。
 なお黒田家の正規兵は、長政に連れられて出払っていました。あらためて兵を募らなければならなかったのはそのためです。それにしても、新規募集で訓練不足の兵を率いて、留守城とはいえ次々に落としていったあたりは如水の面目躍如といったところです。
 如水が何をしたかったのかは微妙です。あとで関ヶ原の勝者となった家康に、
 「徳川様のために、九州に波風が起こらぬよう平定しておりました」
 と弁解しましたが、当時の人々にも後世の者にも、そんな弁解はほとんど信じられていないようです。家康もたぶん

 ──こいつ……

 と苦笑したでしょうが、息子の長政が大いに働いてくれたことでもあるし、下手にとがめだてして如水が反抗しはじめたりしたら面倒だと思ったのでしょう、如水の言い分をほぼそのまま認めることにしました。
 如水の意図はいろいろ勘繰られていますが、上方で混戦状態になっているうちに自前の勢力を大きくしておこうと考えたことは間違いないでしょう。大きくしたあとで、

 1) 西軍と東軍、勝ったほうと決戦をおこなって天下を狙う。
 2) 西軍と東軍、勝ったほうに高く売りつけて所領および地位の拡大を狙う。

 のどちらかのつもりだったろうと考えるのが、まあ妥当かと思われます。
 が、如水のたくらみはここでも挫かれます。関ヶ原の戦いはたった一日で決着がついてしまいました。決戦をおこなうにしろ、高く売りつけるにしろ、もっと大きくなっていないことには話になりません。
 関ヶ原の戦いの決着をつけたのは、小早川秀秋をはじめとする西軍諸将の裏切りが主因でしたが、その根回しに奮闘したのが、ほかならぬ黒田長政でした。如水は、息子の活躍のおかげで、最後の野望も砕かれてしまったわけです。
 意気揚々と帰ってきた長政に対して如水が言ったと伝えられる言葉は、これまた面白すぎて史実性は低そうですが、如水がよほど残念がっていたのだろうと窺わせる逸話ではあります。
 伝えられる言葉はふたとおりあって、まず、

 ──天下分け目の合戦というものはゆるゆるとおこなうべきものぞ。そんなに早々と内府(家康)に天下をとらせてなんとする!

 この言葉が本当に発せられたものだとすれば、如水は明らかに戦が長引くことを念じていたことになります。官兵衛を平和主義者に仕立ててある大河ドラマでは、この逸話をどう扱うでしょうか。
 もうひとつは、もっと凄絶です。
 「内府殿はそれがしの手をとられ、戦に勝てたはそこもとのおかげじゃと、深く感謝なさいましたぞ」
 とはしゃいでいる長政に冷水を浴びせるように、
 「それで、内府はそなたのどちらの手をとったのだ?」
 と如水が訊ねたというのです。
 「右手でございましたが……」
 「その時、そなたの左手は何をしておった?」
 なぜ家康の心臓を脇差しで貫かなかったのか、とすさまじいことを言ってのけたとか。長政は凍りついたようになったことでしょう。
 家康を暗殺しろとまでは、本当には言わなかったかもしれませんが、家康の走狗となって無邪気に喜んでいる息子が情けなかったのだろうとは想像できます。

 如水は家康の疑念を晴らすため、このあと加藤清正鍋島直茂と一緒に、柳河城に立てこもった立花宗茂を攻めます。が、音に聞こえた名将で戦意も充分な宗茂は、連合軍の攻撃に一歩も引かず、むしろ優勢に戦い続けます。連合軍は攻めあぐね、結局武力での制圧は諦めて説得にかかり、ようやく宗茂の降伏に持ち込みます。
 いろんな条件はあるでしょうが、立花宗茂クラスの名将を相手にしては、黒田如水の謀略も戦術もあまり功を奏しなかったということになりそうです。
 播磨の小豪族たちを説得したり、北九州の留守城を落としまくったりという、言ってみればいささかセコい作戦には能力を発揮するものの、堂々たる合戦となるとあんまり役に立たなかったのが如水・官兵衛の実像だったのかもしれません。
 それはもちろん黒田官兵衛の責任というよりも、彼を不世出の軍師であるかのように囃し立てた後世の講釈師たちの責任であったでしょう。彼の作戦がセコく見えるとすれば、講釈師たちが真に遠大な謀略を想像することができなかったからです。実際の官兵衛は、彼なりに自分の生き残るすべを考えて必死にあがいていた、大勢の歴史上の人物のひとりであったということなのだろうと思います。

(2014.2.24.)


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