先週末、うちのマダムが京都に遊びに行って、ガラスの茶室とかいろいろ観てきたようなのですが、こまごましたものをあれこれ買い込んで帰ってきました。
その中に、小壜に入った金平糖がありました。金平糖はご存じのとおり、カステラと共に歴史ある舶来菓子で、豊臣秀吉が好んで食べていたなんて話もあります。その語源も、英語のConfection(菓子)に相当するポルトガル語Confecção(コンフェクサン)から来たという節が有力です。日本中で買えますけれども、やはり「本場」と呼ぶべきは京都か堺かというところがあって、マダムが買ってきたのも青や緑の透き通った色とりどりの、きれいなものでした。
さて、その金平糖の製造販売者を記したラベルを見て、私は俄然興味を惹かれました。
住所が、「京都市伏見区桃山羽柴長吉東町」と記されていたのです。
伏見区在住の人からは「今さら何ゆうてはりますのん」と言われそうですが、「桃山羽柴長吉」なんて地名があることに驚かざるを得ませんでした。 羽柴長吉というのは、もっとよく知られた名前で言えば浅野長政のことです。秀吉の正室ねねの義弟で、武人としてはさほど活躍しませんでしたが、人間関係の周旋に秀で、五奉行筆頭とされた人物です。ちなみに石田三成のことをよく五奉行筆頭などと呼んでいる本がありますが、三成の序列は五奉行中第4位でした。浅野長政が筆頭、前田玄以が次席、増田長盛が第3位で、そのつぎがようやく三成となり、末席は長束正家でした。
浅野長政はかなり遅い時期まで「長吉(ながよし)」を名乗っていました。なぜ「長政」に改名したのかわかりませんが、もしかしたら「チョウキチさん」「チョウキッつぁん」みたいに気安く呼ばれてしまうことが多かったからではなかろうか、と私は想像したことがあります。この時代のそこそこの武士には「名乗り」と「通称」があって、例えば「秀吉」と「藤吉郎」、「三成」と「佐吉」、「利家」と「又左衛門」といった具合ですが、「長吉」はナガヨシと読めば名乗りですが、チョウキチと通称っぽくも読め、ややこしかったのではないでしょうか。実際、町名は「はしばちょうきち」になっています。
秀吉は血縁が近い人、手柄を挙げた家臣などに羽柴姓を与えており、長政も当然貰っていました。従って「羽柴長吉」は「浅野長政」のことであると判断されるわけです。 たぶんそのあたりに、長政の屋敷があったのだろうと思います。伏見城は秀吉が甥の秀次に執政権を譲り、大坂城はわが子の秀頼のために明け渡したのちの隠居所として作った城ですが、政治の中心はやはり秀吉が居るところになってしまい、多くの家臣が伏見城の近くに屋敷を構えました。そのため聚楽第に居る秀次との二重政権みたいなことになって、混乱を呼ぶことになります。
それにしても、その名前がそのまま現代の町名になっていることに驚きました。
もしかしたら、他にも同じような例があるかもしれない……と思い、桃山周辺の地図を確認してみたら、いやはやあるわあるわ。おやおやこれは……と瞠目するような地名が次から次へと出てきました。とりあえず「桃山」がつく町名だけでも、 ・桃山井伊掃部(東町・西町)
・桃山町板倉周防
・桃山町金森出雲
・桃山町治部少丸
・桃山町島津
・桃山町永井久太郎
・桃山町鍋島
・桃山町本多上野
・桃山町松平筑前
・桃山町松平武蔵
・桃山筒井伊賀(東町・西町)
・桃山長岡越中(北町・東町・南町)
・桃山羽柴長吉(東町・中町・西町)
・桃山福島太夫(北町・南町・西町)
・桃山水野左近(東町・西町)
・桃山毛利長門(東町・西町)
・桃山最上町 と出てきました。他にも気になる町名がありましたが、それはあとまわしとします。 「井伊掃部(いいかもん)」は徳川家臣の井伊直孝のことでしょう。井伊掃部頭といえば幕末の大老井伊直弼が思い浮かびますが、掃部頭の官位は徳川時代を通じ、代々井伊家が世襲したようなものでした。そのうち桃山に屋敷を構えていそうなのは直孝です。家康の片腕として有名な井伊直政は彼の父親で、直政が就任した官位は修理大夫とか侍従とかで、掃部と呼ばれていた形跡がありません。
「板倉周防(いたくらすほう)」は同じく徳川家臣、板倉重宗と思われます。「周防」の名では幕末の老中板倉勝静(かつきよ)が有名ですが、これも重宗以後板倉家の世襲官位のようになりました。関ヶ原後に京都所司代として辣腕をふるった板倉勝重の息子です。才気煥発な弟・重昌にコンプレックスを持っていたようですが、父勝重は万事に慎重だった重宗に後を継がせました。
「金森出雲(かなもりいづも)」は飛騨高山藩2代藩主・金森可重(ありしげ)でしょう。織田信長の有力な家臣だった金森長近の養子です。長近は姉小路氏を亡ぼして飛騨全域を支配しましたので、信長麾下の国守クラスの部将というわけで、相当に序列も高かったと思われるのですが、なにぶん当時としては陸の孤島のような飛騨のこと、あまり歴史の大舞台には関わりませんでした。養子の可重も、まあまあ順当に秀吉・家康と折り合って生涯を送り、大坂の陣の直後に伏見で亡くなりました。その屋敷跡が「桃山町金森出雲」であるに違いありません。
「治部少丸(じぶしょうまる)」はどう考えても石田治部少輔三成にちなむ地名と思われます。「島津」も言わずもがな、薩摩の雄・島津氏の屋敷跡でしょう。「鍋島」も当然佐賀の鍋島氏です。 「永井久太郎(ながいきゅうたろう)」というのはちょっと凝っていて、永井(右近太夫)直勝と、堀(久太郎)秀治の屋敷の両方にかかっている区域だったことからの地名であるようです。永井直勝は徳川家臣で永井荷風の遠い先祖。堀秀治は信長・秀吉の双方に仕えて軍事も行政もそつなくこなし「名人久太郎」と呼ばれた堀秀政の息子です。父と同じ通称を持ったわけですが、秀政は小田原の陣の最中に病死していますので、伏見桃山に屋敷があったとは思えません。ここは息子のほうの屋敷だったのでしょう。
「本多上野(ほんだこうづけ)」は徳川家臣の本多正純でしょう。家康の知恵袋と言われた佐渡守正信の息子で、本人も卓越した知謀で家康や秀忠を助けましたが、「謀臣は大封を得るべからず」という父の教えに反して宇都宮で15万石も拝領してしまい、周囲から総スカンをくらったあげくに「釣り天井事件」で失脚しました。
「松平筑前(まつだいらちくぜん)」は徳川家の宗族かと思われますが、実は前田利常のことだそうです。前田利家の四男で、長兄利長の養子となって加賀前田家2代藩主となった人物です。徳川秀忠の娘・珠姫をめとったことで松平姓を貰いましたが、本人が使ったことは無いようです。ただ、世間的には「松平筑前さま」で通っていたのかもしれません。「松平武蔵(まつだいらむさし)」も徳川家ではなく、姫路藩2代藩主の池田利隆のことであるようです。信長の乳兄弟であった池田恒興の孫で、関ヶ原で東軍のために暗躍した池田輝政の長男にあたります。彼も秀忠の養女・鶴姫をめとって松平姓を与えられました。 「筒井伊賀(つついいが)」は筒井定次のことでしょう。「洞ヶ峠」で有名な(史実ではないようですが)筒井順慶の養子です。伊賀守の官位を持っていました。
「長岡越中(ながおかえっちゅう)」はおそらく細川忠興のことと思われます。細川家は室町幕府の執政の家系でしたが、戦国時代に入ると衰微し、長岡藤孝にその家名を譲りました。関東管領の上杉氏が長尾景虎(上杉謙信)に家名を譲ったようなものです。長岡藤孝は細川藤孝(幽斎)となって、熊本藩細川氏の藩祖となるのですが、息子の忠興のころは、まだ細川姓と長岡姓の両方で知られていたのかもしれません。越中守の官位を持っていました。
「福島太夫(ふくしまだゆう)」はもちろん秀吉の子飼いの猛将、福島(左衛門大夫)正則でしょう。左衛門大夫というのは左衛門尉の間違いではないかとされていますが、この地名が残っているということは、長いこと「左衛門大夫」と呼ばれ、そう認識されてきたことになります。歴史学者というのはわりと簡単に「これは誤り」「これは間違い」と片づけますが、過去の人々がどう考え、どう認識してきたかということを、軽々しく否定し去るのはいかがなものでしょうか。 「水野左近(みずのさこん)」はよくわかりません。水野氏は徳川の譜代家系のひとつで、あちこちに枝葉がひろがっていますが、その中で桃山時代に「左近」の名で知られていたのは水野正重あるいは清久という人物であるようです。ただ、この人は家康の旗本どころか御家人に過ぎなかったらしく、果たして伏見城近くに屋敷を構えるほどの身分であったかどうかは微妙です。「永井久太郎」同様、合成町名なのかもしれません。
「毛利長門(もうりながと)」は、たぶん毛利秀就ではないかと思うのですが、はっきりしません。毛利家の同時代人としては他に、父の輝元、義兄の秀元、大叔父の秀包などが考えられますが、長門守の官位を持っていたのは秀就だけで、他に「毛利長門さま」などと呼ばれた可能性がある人物は居なさそうです。ただ、秀就は1595年生まれで、桃山に屋敷を持っていたにしては少々若すぎるようにも思えます。関ヶ原後もこのあたりは大名屋敷が多かったのでしょうか。
「最上町(もがみちょう)」は山形の最上氏に違いありません。 この他にも桃山には、「伊賀」「和泉」「因幡」「下野」「駿河」「丹後」「三河」「美濃」と、旧国名を冠した町名がたくさんあります。これらも「和泉守」「因幡守」等々と呼ばれた人物にちなんでいるのではないかと思います。
「紅雪」「真斉」「泰長老」「養斉」など、いかにも誰かの雅号みたいな町名もありますし、「大蔵」「弾正島」のように誰かの官名らしき町名もあります。「与五郎」も明らかに誰かの通称です。たぶん、詳しく調べればちゃんとわかるのだろうと思いますが、少々根気が尽きました。
いずれにしろ、16世紀末から17世紀はじめにかけて、歴史上の人物としてよく知っている人たちが、このあたりである程度生活していたのだろうと思うと、なんだか夢を見ているかのようです。まあ本宅ではなくて、いまで言えば出張所みたいなものだったろうとは思いますが、それにしても誰と誰が隣り合っていたのだろうかなどと考えてみると、当時の人間関係までもがうっすら想像できてしまいそうで、思わず感動してしまいます。
例えば、町名としての「桃山町治部少丸」と「桃山町島津」は非常に近く、たぶんお隣さんだったのではないでしょうか。石田三成と島津家の緊密なつきあいが眼に見えるようで、島津義弘が関ヶ原で少数の兵にもかかわらず三成に与したといういきさつを、なんとなく想像できる気がするのでした。
このあたりの町名はきわめて錯綜しており、50メートルも行けば町名が変わっているという様子で、近代的住居表示の考えかたからすると実に不経済なのですが、しかしよくぞこの町名を残しておいてくれたものだと思わざるを得ません。伏見区にはまさに感謝感激です。
また、歴史上の人物が、当時どのように呼ばれていたかも推察できます。細川忠興が、むしろ長岡越中として一般に認識されていたなんてことは、他の文献ではなかなかわからないでしょう。
京都の南郊の、当時はまだ荒れ地みたいなものだった伏見に城を築いた秀吉にも感謝しなければなりません。おかげで、それ以前の地名と混じり合うことなく、桃山時代から江戸時代初期という短い期間の様子が統一的に残されたと言えます。 この前、千葉県の流山市に「加(か)」とか「木(き)」とかの字名があることを知って驚きましたし、その後同じく千葉県の旭市あたりには「イ」「ロ」「ハ」という地名があると知ってさらに驚いたのですが、桃山のこれらの町名はそれ以上の驚きでした。
地名を探ってゆくと、もっといろいろ面白いことがあるに違いありません。また何か、驚かせて貰いたいものだと思います。
(2017.9.13.) |