作曲をしたいが……
ダービーさん 2001.12.16.
 MICさん、はじめまして。
 私は作曲をかじっているダービーと申します。
 私は作曲を出来る様になりたいんです。できれば将来ちょっとでもそういう仕事が出来ればいいなと思っています。
 MICさんの母校も数回程受けました。
 しかし、これまで1度も楽しいと思って作った事がないんです。
 何でだろう? って考えてみたところ、完璧主義が災いしてるんだろう、と言う結論に到達しました。
 なので、凄いものを作ろう!と言う考えを捨てて、本当に簡単なものを作ろうとしました。サルでも作れるような。
 しかし、それでも「これじゃ駄目だ」と自分の首を締めてしまいます。
 素人がヘンテコなのしか作れないのは良く分かっているし、その事を常に自分に言い聞かせてます。
 でも駄目なんです…
 私は工作も大好きで、いざ工作するとなると時間を忘れ、眠いのも忘れ、上手く出来ようが下手に出来ようが関係なく熱中できます。
 どうしたらこんな風に作曲も出来る様になるのかな…と考えますが答えがでません。
 和声、フーガは楽しくできるのですが…
 もしかしたら自分には向いてないのかなぁ、とも思ったりします。
 もし作曲に対しての適正がない、と言う事がはっきり分かればそれはそれで挫折として認めるんですけど…
 うじうじしてる分他の事に時間を使えますからね。
 ………
 なんか支離滅裂になっちゃってすみません。
 こんな私にアドバイスをお願いします。 
MIC 2001.12.17.
 ダービーさん、ご投稿ありがとうございました。
 作曲をやりたいが、やっていて楽しいと思えない、ということですね。
 作ったものを拝見したわけではないので、あまり的確な助言はできそうにありませんが、一応作曲でメシを食っている立場の人間として、思ったことを書かせていただきます。

 作曲をしている途中というのは、いつだってそう楽しいものではなく、むしろつらいことが多いものです。
 自分の力不足ということを含む諸々の事情から、最初に夢想したような形にどうしてもまとまってくれない、ということもしばしばで、そんな時には切歯扼腕というか、まったく身もだえしたいようなじれったさにさいなまれます。
 仕事としてやってゆく段になると、「諸々の事情」の中に、クライアントの意向という要素も大きく関わってくるので、さらに制約が大きくなります。
 あるいは、最初に夢想している間がいちばん楽しいのかもしれません。
 しかし一方、身を削る想いで書いた音符が実際に音になって、それが自分の考えた通りの響きを奏でてくれた時の歓びというのは、これはもう何物にも替えがたいものでして、苦労が酬われて余りある気がいたします。
 そして、おれはこの瞬間のために作曲という苦行をしているのだな、としみじみ実感します。

 もちろん、そうしたことは私個人の感慨かもしれませんが、同じ気持ちで作曲をしている人は多いはずで、そういう歓びを伴わないままで作曲などということを続けられるとは、どうしても思えないのです。その歓びをまだ味わっておられないのが、ダービーさんの不幸なのかもしれませんね。
 そして実際、歓びを味わえないがゆえに、せっかく音大の作曲科を出ても、筆を折ってしまう人も数多く居るのです。

 「これは、ただ『書くこと』だけができる音楽だ」
などと気取ってうそぶいている現代音楽作家がいないことはありませんが、そういう連中は別として、作曲家というのは普通は、「音符」を、あるいは「楽譜」を作っているわけではありません。
 「音楽」を作るのであって、楽譜というのはその手がかりに過ぎないわけです。
いくら一生懸命楽譜を仕上げても、それは結局、演奏されてナンボ、聴いて貰ってナンボのものなのだと、私は思うようになっています。
 そして、演奏された時に歓びを感じる、聴いた人が受け容れてくれた時に幸せを感じる、というのは、表現者として普通の感情でありましょう。
 ダービーさんが、そういう時にすら楽しさを感じられないのか、それともそれ以前に自作を演奏する機会が得られないために楽しさをご存じないだけなのか、それは私には判断がつきませんけれども……

 もちろん私にも、曲を書くのが苦痛でしかなかった時期は存在します。
 大学に入って、なんとなく例えば
「無調の曲を書かないとバカにされるんではないか」
というような気分の中で書いていた頃は、どうにも筆が進みませんでした。
 学校に提出する曲を書いていても、どうも自分の中で違和感がある。
 かと言って、自分がどういう音楽を作りたいのか、見当がつかない。
 そういう感覚が2年余り続きました。
 それがある時、ハッと気がついたのです。
 自分のやるべきこと、少なくともやりたい方向性が、突然見え始めました。
 それからは、大体その方向性に基づいて作曲をしてきたと思っています。
 個々の作業は決して楽にはなっておらず、苦吟することもしばしばですが、大きな方向性について悩むことはなくなりました。
 こういう「天啓」のような一瞬を持つことができるかどうか……それもまた、表現活動を仕事としてやってゆけるかどうかの岐路になるのかもしれません。

 ダービーさんに作曲の適性があるかないかは、作品を拝見していないため、私にはなんとも言えません。
 それに、自分自身、本当に「適性があって」やっているのかどうかもわかりませんし。
 私はいろいろ興味の範囲も広い人間ですので、もしかしたらもっと自分に向いた仕事があったかもしれない、音楽は趣味にとどめておいた方が幸せだったのかもしれない、と思うことも珍しくはありません。
 しかし、それは言ってみても詮ないことです。
 適性をあれこれ考え悩むより、結局は「好き」かどうかではないでしょうか。
 自分の表現をみんなに示したい、どうしてもこの想いを形にして伝えてみたい、その想いが伝わることに幸せを感じる……そういうことがあるかないかということです。
 「凄いものを作ろう」「簡単なものを作ろう」などというのは本質的な問題ではないように思えます。
 伝えたいこと、表現したいことがまず最初にあって、それをどういう形で伝えようか、表現しようか、と考えるのが順序というものでしょう。
 その手段の一助となるのが、和声学であったり対位法であったり、要するに「作曲技術」と呼ばれるものです。

 楽しいと思って作れない、とおっしゃる。
 繰り返しますが、作っている最中は、楽しいなんてものじゃありません。
 しょっちゅう煮詰まっては意味もなく家の中をうろうろし、頭をかきむしり、他のことに逃避し、早く終わらないかと念じる。それが常であり、誰だってそんなものです。
 ただ、楽しくないというのが、作り上げたあとも同じであるのならば、

 ・もともと、音楽の形で表現したいことがないか、稀薄である
 ・技術不足で、表現したいことが充分に表現しきれないから欲求不満に陥る


のどちらかだと思われます。
 前者であれば、作曲なんかやっても仕方がないのではないかと。
 ダービーさんがどうなのかは存じませんけれど、私のところにも時折
「作曲を習いたい」
と言ってくる若い人がいますが、驚いたことに案外前者であることが多いのです。
 作曲家というとなんとなくカッコいいから、という理由で志したとしか思えないような返事しか返ってこなかったり。
 「完璧主義のせいで……」
とありましたけれど、それが本当ならダービーさんの場合は後者なのかな。
 そうであれば、これはもう技術を磨くしかありません。
 ひとつだけ申し上げたいことは、表現には「完璧」は決してあり得ず、無限の「ベター」があるだけだという点です。
 だから文字通りの完璧主義者には、表現活動はできません。

 現時点で見定めるのは難しいかもしれませんが、ご自身の感じておられる「つまらなさ」が、どちらに起因するものなのか、今一度よく考えてみてください。
 あまりご参考にはならないと存じますが、いま私から申し上げられることはこんなところです。
 何か疑問点があれば、またおいでください。
ダービーさん 2001.12.22.
 MICさん、レスありがとうございます!
 とても嬉しいです。参考になります。
 考えを色々書きたいのですが、上手くまとまらないのでまた今度にしようと思います。
 私は物事を消化するのに時間がかかるので良く考えてみます。

 とにかくありがとうございました!
 考えがまとまったらまた来ますのでよろしくお願いします。

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