39.北陸のローカル私鉄たち

富山地方鉄道
万葉線
北陸鉄道
えちぜん鉄道
福井鉄道


 北陸三県富山・石川・福井)は、鉄道輸送という面では微妙な地域である。
 関西方面・中京方面からのJRの特急列車が、これでもかという勢いでじゃんじゃん走っており、その営業成績もきわめて良い。新幹線の通っていない地域としては、鉄道がいちばん元気の良いところなのではないかとも思う。
 が、それらの特急列車を除いて考えると、途端にぱっとしなくなってしまうのである。
 早い話がJRだけ考えても、普通列車は特急に較べて本数も少ないし、通学輸送時以外は閑散としている。区間にもよるが、特急4本に対して普通1本くらいの割合でしかなかったりする。当然、特急の停まらない駅では不便きわまりない。
 遠方から北陸地方を訪れる人は鉄道を使うことが多いが、地元の人々の足はもっぱらマイカーになってしまっている。クルマの運転ができない高校生たちだけがお得意様だ。あとはせいぜい病院通いの老人か。
 JRを見てもそんな状態なのだが、JR以外となると、遠方からの特急なども走らないのだから、さらに苦しいことになっている。

 北陸三県にはJR以外にもいくつかの鉄道がある。
 富山県には富山地方鉄道万葉線(××鉄道万葉線というのではなく、「万葉線」が社名だ)、石川県には北陸鉄道のと鉄道、福井県にはえちぜん鉄道福井鉄道が、それぞれ鉄道を経営している。
 このうち万葉線・のと鉄道・えちぜん鉄道は第三セクターである。もとから第三セクターとして設立されたわけではなく、3つとも最初は別の経営体があったのに、その経営が危なくなったために第三セクターとして生まれ変わったのだ。
 のと鉄道を先に説明しておくと、これはもともと国鉄七尾線の一部と能登線であった路線である。能登線が赤字ローカル線として廃止されることになった際に、他の多くのローカル線同様地元が第三セクターとして引き受けた。その後七尾線の和倉温泉──輪島間もJRから譲り受けて、第三セクターとしては珍しく複数の路線を持つ会社となったが、あとから譲渡された部分に関しては国から補助が受けられず、しかもJR西日本に払う譲渡料が高すぎて経営が成り立たず、あえなく穴水──輪島間は廃止となってしまった。赤字線を引き受けてくれるのだから、JRとしては代金なぞ求めずに、むしろノシをつけて進呈すべきだったと思うのだが……。
 残った和倉温泉──蛸島間も経営は苦しく、2005年3月をもって穴水以遠が廃止されることが決まっている。能登半島の大部分から鉄道が姿を消すことになり、なんとも寂しいことになってしまった。
 やはり、この地域で鉄道業を営むのは相当に苦しいことらしい。
 万葉線とえちぜん鉄道は民間経営の鉄道だった。鉄道を経営していた会社そのものはまだ健在なのだが、今やバス会社となってしまった。
 現在も純然たる民間鉄道である富山地鉄・北鉄・福鉄の三社も、広域に渡るバス路線網を抱えているからこそなんとか鉄道経営が成り立っていると言ってよい。バスがなかったら、こちらもとうに鉄道は廃業していたに違いない。現に、あとで触れるが北鉄は、全盛期と較べると著しく路線規模が縮小してしまっている。バスの儲けでさえ埋め合わせきれない赤字線ばかりだったのだ。
 2004年9月13日〜14日にかけて、のと鉄道を除くこれらローカル私鉄たちに乗って、彼らの奮闘ぶりを眺めてきた。今回はその話をしようと思う。

 前日別件の用事があって、長野県松本のホテルに泊まった私は、朝早い大糸線の電車に乗った。この路線に乗るのは4度目だが、なぜかいつ乗っても混み合っている印象がある。北アルプスの麓を走るので、シーズンには登山客御用達となり、色とりどりの大きなバックパックやシュラーフを抱えた人々でラッシュ同然の混雑になるのだ。
 今回はじめてオフシーズンに乗ったのだが、朝の便とあって高校生がわんさか乗っている。松本に向かう方向が混み合うのだとばかり思っていたが、そうでもないらしい。駅ごとに高校生の群れがプラットフォームに待っており、混雑はどんどんひどくなってゆく。
 松本──信濃大町間はもともと私鉄だった区間だけあってやたらと駅が多い。そのひとつひとつに停まってゆくものだから、ちっともはかがゆかない。高校生たちも毎朝これではうんざりするのではあるまいか。
 45分ほど走った信濃松川で、松本から乗っていた高校生の大半は下りたが、今度は別の制服の高校生たちがまたどっと乗ってきた。信濃大町に着いてようやく高校生軍団から解放された。松本から約1時間かかっているけれど、距離としては35キロばかりしか来ていないのである。
 信濃大町より先は、高原の宝石のような仁科三湖(木崎湖・中綱湖・青木湖)を眺めつつ、分水嶺を越えて姫川の流域に出る。分水嶺が長野県と新潟県の県境ではなく、青木湖のすぐ北にある佐野坂峠であることをはじめて知った。
 南小谷(みなみおたり)で電化区間が終わるので、ディーゼルカーに乗り換える。姫川という愛らしい名前に似合わぬ暴れ川に沿って、一気に日本海側に出る。南小谷──糸魚川は、距離にすると松本──信濃大町とほぼ同じだし、所要時間もさして変わらないのだが、駅の数が少ないためにずっと短く感じる。もっと乗っていたいと思う。

 糸魚川からは北陸本線の普通列車に乗った。この辺でよく見かける、583系改造の419系という車輌である。夜は寝台車、昼は座席車として使えるよう設計された、前代未聞の「寝台特急用電車」だったが、コンセプトが中途半端なだけにあまり評判がよろしくなく、現在の定期優等列車では急行「きたぐに」にしか使われていない。あとは改造されて普通列車用になってしまった。収納式の上部寝台がそのままになっており、車内は独特の雰囲気を持っている。シートピッチはかつて寝台だっただけに広く、普通列車としてはなかなか快適と言える。
 50分ほど乗って魚津に到着。ここで富山地方鉄道に乗り換える。本当は全線に乗りたかったのだが、日程が限られており、富山地鉄だけは飛び抜けて営業距離が長いため、今回は未乗区間をクリアするにとどめた。すなわち、魚津(現在の地鉄の駅名は新魚津)から先端部分の宇奈月温泉まではかつて乗ったことがあるため除外し、逆方向へと向かったのである。

★富山地方鉄道★

 富山地鉄は北陸のローカル私鉄群の中ではもっとも条件が良いと思われる。本線の終点である宇奈月温泉に隣接して黒部峡谷鉄道の宇奈月駅があり、シーズン中は大変な人気であるし、支線の立山線の終点立山は、むろん「立山・黒部アルペンルート」の出発点でこれまた観光客に恵まれている。宇奈月や立山(ひどい時には室堂)までバスで行ってしまう不届き者(?)も少なくないけれども、こういう大観光地を擁している地鉄が有利であることは言うまでもない。
 それゆえ、ローカル私鉄としては珍しく、有料の特急を走らせている。主に本線を走っているが、本線と立山線を股にかけて宇奈月温泉──立山間を走るアルペン特急というのもある。富山に立ち寄らないで直行してしまうのがミソだ。
 以前は名鉄から高山本線を経由して立山に直通する雄大なる乗り入れ特急「北アルプス」も走っていたが、残念ながら廃止された。国鉄時代は急行が乗り入れたりもしていたのだが、なぜかJRになってからは私鉄との乗り入れを避けるようになった気がする。観光客の掘り起こしにもなることだし、「サンダーバード」「(ワイドビュー)ひだ」などを宇奈月温泉なり立山なりまで乗り入れることを、JRも地鉄もあらためて考えてみても良いのではないだろうか。
 ただ黒部峡谷鉄道にしろ立山・黒部アルペンルートにしろ、夏季限定なのは痛い。沿線唯一の温泉地である宇奈月温泉を、黒部峡谷鉄道への中継地点としてのみならず、もっと独立した観光地としてアピールする必要がありそうだ。

 私は過去に、本線の電鉄富山──寺田魚津(現・新魚津──宇奈月温泉、立山線の全線(寺田──立山)、不二越・上滝線稲荷町──南富山、そして路面電車全線に乗ったことがあったので、今回は未乗の部分、すなわち本線の寺田──新魚津、不二越・上滝線の南富山──岩峅寺(いわくらじ)に乗ることにした。ルートとしては、新魚津から上り電車に乗って寺田へ、そこから立山線で岩峅寺へ、そして不二越・上滝線に乗り換えて電鉄富山へ、という経路をとった。
 山岳路線となりゆく本線や立山線の末端部分をカットしているので、どこを乗ってもわりと平凡な田園風景の中を行くばかりである。しばしば睡魔が襲ってきた。
 面白いと思ったのは、分岐駅である寺田や岩峅寺、それから稲荷町でも、プラットフォームが分岐したあとに設置されていることである。頭だけ突き合わせたような形になっている。たぶん、各線がそれぞれ別々の会社による経営であった時代の名残ではないかと思うのだが、それは戦前の話であって、今に至るまで線路なりプラットフォームなりの付け替えをしていないあたり、財政が苦しいんだろうなあなどと考えてしまう。
 分岐駅である寺田にしろ岩峅寺にしろ、さして大きな街があるわけではない。寺田など本当に地形の関係でたまたま分岐駅になっただけではないかと思える。
 営業距離が長いわりに沿線にしかるべき街が少ないのはのは痛いところだ。市になっているのは富山の他は滑川・魚津・黒部と、JRと競合している所しかなく、これらの都市へ行くのならJRのほうが遙かに便利なのである。
 速度でかなわなければ頻度(フリークェンシー)で勝負するというのが、JRと競合する私鉄のよく採る戦略なのだが、地鉄はそれもやっていない。日中はどの線もせいぜい一時間に一本程度しか走らない。クルマが普及してしまって、電車をたくさん走らせても客が乗らないということなのだろうが、東海地方の静岡鉄道・遠州鉄道・豊橋鉄道などはいずれも10分〜15分おきという頻発戦略でけっこううまくやっている。これらの地域がクルマ依存度が低いとは言えないはずで、東海でできたことが北陸でできないはずはないように思えるのだが。

 車輌に関しては、大いに地鉄を賞賛したいものがある。ほぼすべての車輌が転換クロスシートを装備しているので、JRよりむしろ快適だ。もちろん都市部の大手私鉄で使っていた中古車輌ばかりなのだが、座席だけは付け替えている。
 今回、立山線に乗った時には、なんと西武レッドアローがやって来たので仰天した。特急に使用しているのならわかるが、鈍行なのである。乗り込むとデッキがあり、そのデッキから車室に入るドアは自動であり、ジュースの自動販売機までついている。座席は転換クロスシートよりさらに格上の回転クロスシートで、リクライニングもちゃんと効いた。要するに西武特急として走っていた頃そのままで、編成を半分の3輌に切り詰めた他はほとんど改造ということをしていないのであった。まったくローカル線の鈍行としては分不相応なほどの風格である。もっとも、さすがにそう滅多に走っているわけではないようで、途中から乗ってきた中学生たちが、
 「おおっ、レッドアローじゃん。やったあ」
と大騒ぎしていた。私は運が良かったと言うべきだろう。
 ただ、鈍行にあまり上等な車輌を使ってしまうと、特急料金を払うのがばかばかしくなるきらいはあり、ある程度バランスを考えるべきであろうとは思う。

 地鉄はせっかく大観光地をふたつも抱えているという有利な立場にあるのだから、もう少し頑張れば成績を好転させることは充分可能だと思う。他線からの直通および、少なくとも近郊部分(本線の滑川まで、立山線と不二越・上滝線の岩峅寺まで)での頻発を薦めたい。

 私は電鉄富山に着くと、JRの富山港線に乗って終点の岩瀬浜まで行き、そこから徒歩とバスで堀岡渡船場まで行った。富山新港の湾口を横断する渡し船の乗り場だ。この渡し船、自動車も載せられるれっきとしたカーフェリーなのだが、なんと乗船無料なのだ。現在この間を結ぶ海上橋を建設中で、その完成に伴い渡し船も廃止されるのだろう。以前、まったく偶然にこの渡し船を発見し、もう一度乗ってみたいと思って足を伸ばしたのだった。
 渡し船は5分ほどで湾口を突っ切り、対岸に着く。対岸の渡船場の隣に、万葉線の越の潟駅がある。

★万葉線★

 万葉線は現在では第三セクター「万葉線株式会社」により運営されるようになったが、つい最近までは加越能鉄道という民間会社が運営していた。この会社はバス会社として健在で、社名はもちろん「加賀・越中・能登」の3国から採られている。ずいぶんと大きな名前をつけたものだが、鉄道会社としてはもとから小規模で、加賀や能登(つまり石川県)まで路線を拡げたことは一度もない。かつては富山県内とはいえ、石動から庄川町までの加越線という路線も持っていた。
 現在の、高岡──越の潟という路線は、本来高岡軌道線新湊港線という2本の路線がつながったもので、愛称として万葉線と呼ばれていたのだが、第三セクターとして新発足する時に、正式名称となった。「軌道線」の名の通り、高岡駅前から米島口までは路面電車となっている。そこから先は一部路面部分もあるが基本的には専用軌道を走る。
 路面電車がだんだんと見直されている昨今とはいえ、経営難に陥った万葉線の面倒を見ることにした高岡市・新湊市の決断はなかなかのものがあると思う。ただ、同じ形で引き継ぐだけでは、収益性が上がるわけでもないので、いずれは財政を圧迫することになり、廃止の憂き目を見ることになりかねない。加越能鉄道の頃は、バス運行の利益から赤字を補填するということもできたのだが、その道も絶たれたわけだし。
 現在、万葉線の電車は一時間に2〜4本が走っているが、まずは毎時4本体制を確立し、正確な15分おき運転とすべきだろう。路面電車の場合は特に、「いちいち時刻表を見なくても、停留所に行けばそれほど待ち時間にストレスを感じずに乗れる」という便利さが大切だ。この待ち時間の限度は大都市で10分、地方都市で15〜20分といったところである。広島や長崎の路面電車が繁栄しているのは、幹線区間であれば数分おきに電車がやってくるという便利さが大きい。豊橋鉄道も15分おきにして客が増えた。
 また、路線網を形成するというのも重要なことだ。万葉線は高岡市と新湊市を結んでいるとはいえ、行程の半分くらいをほぼJR氷見線に並行したルートを採っているのがもったいない。国道8号線上に軌道を敷くのは無理かもしれないが例えば鏡宮地区、波岡地区などへの支線を作るのはどうだろう。路面電車の建設費はモノレールや新交通システムに較べれば格安であるので、今後各地での新線建設を期待したいと思っている。省エネ、無公害という観点からも大いに推進すべきで、まずは高岡市くらいのサイズの地方都市から先鞭をつけてはいかがかと思う。

 私の乗った万葉線電車には、高岡駅近くのビアホールの宣伝が貼ってあった。車内に置いてある紙片を持ってそこへ行くと、精算時に帰りの電車の乗車券をプレゼントしてくれるとある。なんともささやかながら、こうした地に足の着いたタイアップ企画などもこつこつおこなってゆく必要があるのだろう。
 越の潟から40分ばかりで高岡駅前に到着。JR駅に駆け込んで4分後の普通列車に乗り、金沢へ。

★北陸鉄道★

 北陸鉄道浅野川線の起点である北鉄金沢駅は、長らく金沢駅前広場の北東の一隅にあったが、とりわけ堀川町踏切での交通渋滞が深刻なものになっていたため、都市再開発の一環として地下化された。地方ローカル私鉄の地下化としては長野電鉄に続いて2つめだが、長電のように何駅も地下を行くわけではなく、ほどなく地上へ出てくる。北鉄金沢駅そのものも、地下は地下なのだが、新宿駅のような二層構造になっていて、駅から空を見ることができる。北鉄金沢駅を含めた駅前再開発は、2005年3月完成予定である。
 島式2線プラットフォームの地下駅に、京王から譲り受けてほとんど手を加えていない井の頭線そのものの電車が停まっているさまは、あたかも渋谷駅を見るような観があるのだが、その電車に乗って地上へ出れば、やはりローカル私鉄である。繁華な街並みはほどなく途切れて閑静な住宅地となり、それもやがてまばらになって浅野川流域の田園地帯となるのであった。もっともそれも僅かな間で、大野川の橋を渡ればふたたび新興住宅街となり終点の内灘(うちなだ)に到着する。延長距離6.8キロ、所要17分のミニ路線である。
 こんな短い路線だが、なぜか昔から急行電車が運転されている。三ツ屋──蚊爪(かがつめ)間を除いてはすべてひと駅おきに停車するいわゆる「隔駅停車」だ。独立した路線で急行が運転されているものとしては最短かもしれない。路線が短いことの他、途中に追い越し設備のある駅がないため、先行の鈍行を追い抜くということはない。そもそも列車交換のできる駅からして三ツ屋のみで、あとは単線の片面駅ばかりなのだ。終点の内灘も、側線はあるもののプラットフォームは片面だけである。

 北鉄金沢に戻り、バスでもう一本の路線石川線の起点である野町へ向かう。すでに陽が暮れているので、野町駅そばのホテルに投宿し、石川線に乗るのは翌朝にした。
 金沢駅から野町までは、武蔵ヶ辻香林坊片町と、金沢の繁華街が次々と連なっており、バスはなかなかはかがゆかない。各停留所での乗り降りも多い。
 その様子を見て思った。北鉄金沢駅を地下化してしまったのだから、余勢を駆って百万石通りの下に地下鉄を通してしまい、野町までつなげて浅野川線と石川線を直通させれば良いではないか。あとでも触れるが、一時は県南部に多くの路線を持っていた北鉄がぱっとしなくなってしまったのは、それぞれの路線の間に連絡がほとんどなく、路線網を形成できなかったからだと私は見ている。残った2路線の活性化のためにも、ぜひ直通すべきである。市街中心部の渋滞解消にも役立つはずだ。長野にできて金沢にできないはずはあるまい。

 野町駅前は広大なバスターミナルになっているが、商店街などはない。自動販売機がむやみと並んでいるだけである。駅はむしろバスターミナルの片隅に附属している観がある。
 2線あるものの片方はほとんど使われておらず、事実上片面駅だ。そこにひと目で東急から譲り受けたとわかるステンレス車が入線してきた。浅野川線の井の頭線電車と言い、北鉄は譲渡車輌にあまり手をかけない方針のようで、改造費をけちっているのかどうか。どこの車輌でも座席だけはクロスシートに改造している富山地鉄よりも、いくぶんしょぼくれた印象がある。
 野町を出た電車は、西泉を経て、唯一のJR接続駅である新西金沢に着く。小さな駅前広場を挟んで北陸本線の西金沢駅があった。ちなみにその2駅先にある野々市は、北陸本線にも同名の駅があるが全く接続はなく、2キロばかり離れている。やや紛らわしい。
 四十万(しじま)あたりまでは住宅地を行くが、ほどなく両白山地の裾が迫ってくる。反対側からも山が近づいてきて、それに押し寄せられるように手取川が近くに来ると鶴来(つるぎ)だ。廃止された能美線との分岐駅であり、現在も鶴来止まりの電車が多い。乗客もほとんど下りてしまった。
 路線はさらに2駅進んで、加賀一の宮で終点となる。かつてはこの先白山下まで16.8キロの金名線が通じていた。石川線は15.9キロなので、それより長い。沿線には手取温泉手取峡谷手取湖、そしてもちろん白山山塊という観光地があったので、やりようによっては持ちこたえたと思われるのだが、昭和59年末、橋脚を支える岩盤に亀裂が見つかって運転を休止して以来、ふたたび電車が走ることなく廃止されてしまった。観光地と言っても富山地鉄の立山や黒部に較べれば地味であり、巨費を投じて補強工事をしてまで存続させる意欲はなかったのだろう。
 鶴来──加賀一の宮間も廃止してしまいたいところだったのかもしれない。ただ、線区の境目が加賀一の宮であったことと、文字通り加賀国の一の宮である白山比(はくさんひめ)神社に近いため、正月などには参拝客が多いことを期待されて、この末端区間が残されたのだろうか。
 金名線に直通していた時代は、加賀一の宮駅は交換可能な複線駅だったそうだが、現在は片面駅となっている。ただ駅舎は、寺社参拝駅によくあるように、瓦葺きの堂々たる構えで、大きな一枚板の駅名板が掲げられている。

 北陸鉄道はそもそも昭和18年、例の戦時統合により、石川県南部の群小私鉄(なぜか逃れた尾小屋鉄道──昭和52年廃止──を除いて)を一挙にまとめて発足した。一時は総延長140キロを超える、大都市の私鉄にも匹敵する規模を誇ったが、昭和40年頃から次々と廃止がはじまった。もちろんモータリゼーションの進行に耐えられなかったのが主因である。北鉄は一時は自棄になったのか、すべての鉄道路線を廃止すると発表して世間を驚かせた。地元の猛反対や、知事・金沢市長の慰撫によって全面廃止には至らなかったものの、昭和50年代まで頑張っていた金名線、能美線、そして小松から出ていた小松線も廃止され、現在の小規模なローカル私鉄に落ち着いてしまった。
 金名線廃止の経緯を見ても、北鉄という会社は、鉄道路線を積極的に維持しようという熱意が感じられないのは事実である。地元の要請で渋々続けてはいるものの、何か機会があれば手を引きたいという気持ちが今なお残っているような気がする。購入した中古車輌を、ほとんど手を加えずに走らせているというのも、邪推すればそういうやる気の無さの顕れではないのだろうか。
 クルマの進出に対抗できなかったというのが事実にせよ、例えば各線をつないで大きな路線網を作るなどの手を昭和20〜30年代頃に打っておけば、まだやりようもあったのではないかと思う。いくら路線長や路線数が多くとも、ネットワークを作れない鉄道というのは弱い。茨城県における関東鉄道などと同様だ。石川・金名・能美の3線、あるいは動橋(いぶりはし)・大聖寺(だいしょうじ)あたりを起点として山中温泉方面へ伸びていた加南線のように、小規模な分岐を形成していた部分はあったものの、おおむね、旧国鉄の駅を起点にてんでんばらばらに支線として伸びていた路線ばかりであったために、路線相互の乗り入れなどの策がとれずに、モータリゼーションに各個撃破されてしまったというのが実際のところだったろう。金名線の名称の元となった名古屋への乗り入れはさすがに夢物語であったとはいえ、石川県下における、路線網形成のための新線建設などは惜しむべきではなかったと思う。

 まあ死児の齢を数えるような話はこれくらいにして、現時点での改善策としてはやはり上で述べた、金沢市街地に地下鉄を建設して浅野川線と石川線を直通させるという策が良いように思える。北鉄にその力がないならば、県や市の事業として敷設し、運行だけ北鉄がおこなえば良い。いわゆる上下分離方式である。
 運転本数は現在のところ、浅野川線が日中毎時2〜3本で、3本に1本が急行となっている。石川線は毎時鶴来発着の準急と加賀一の宮発着の鈍行が一本ずつ走る。なお石川線の準急というのは通過するのが僅か4駅で、ほとんど優等列車という気がしない。
 浅野川線の発車時刻がばらばらなのは改善したい。ただ所要17分、交換駅が三ツ屋のみという状態だと、15分ヘッドにはできない。駅の数からして所要時間を13分くらいまで切り詰めるというのも難しいし、交換駅を増やすのも大変だろう。1時間に3本、うち1本が急行という形に整理するのが精一杯か。
 石川線のほうは途中鶴来を含めた4駅で交換可能であり、所要は鶴来まで28分、加賀一の宮まで34分。15分ヘッド運転をしようと思えば可能だが、浅野川線と直通させる場合、やはり1時間3本が妥当だろうか。香林坊あたり複々線にしておいて、交換と共に急行の追い越しができるようにすれば、もう少し急行らしい急行を走らせることもできるだろう。

 帰りは新西金沢で下り、JRに乗り換えた。この日(2004年9月14日)の朝、福井地方で大雨が降り、北陸本線のダイヤはやや乱れていた。
 小松で特急に乗り継ぐ。この駅はしばらく訪れない間に橋上駅になっていた。主要駅を橋上駅にする場合、島式プラットフォーム2面の複々線を備える場合が多いのだが、小松はなぜか3線しかないので、何やら狭苦しい気がする。かつてこの駅から、北鉄小松線が鵜川遊泉寺まで、尾小屋鉄道が尾小屋まで出ていたが、今は跡形もない。
 特急に20分だけ揺られて、芦原温泉へ。昔は金津と呼ばれていた駅で、「芦原」までひと駅だけの支線(三国線)が出ていた。支線の廃止に伴って芦原温泉に改称したが、駅は金津町にあって芦原町ではなかった。しかし、2004年3月に両町は合併してあわら市となり、JR駅の僭称に決着がついた。
 三国線の終点芦原のほうが、旧芦原町の中心であり、温泉地の中心でもある。現在そこには、えちぜん鉄道三国芦原線あわら湯のまち駅があり、JR芦原温泉駅からバスが通じている。

★えちぜん鉄道★

 今回の乗り潰しでいちばん楽しみだったのがえちぜん鉄道だった。2003年に発足したばかりの第三セクターで、しかも旧経営体である京福電気鉄道からの移管の経緯が非常に劇的だったからだ。
 京福電鉄といえばその名の通り京都と福井という離れた土地に鉄道を持っている会社で、京都のほうでは四条大宮から嵐山北野白梅町まで走っている路面電車として知られている。以前は叡山電鉄も京福の一部だった。福井のほうは路面電車ではなくれっきとした地方鉄道で、京都側とは比較にならない60キロ以上の路線を有していた。
 昭和40年代からのモータリゼーションに圧迫されたのは他のローカル私鉄同様で、頑張ってはいたものの平成4年にはついに音を上げて、一部廃止を表明した。地元の存続運動で、補助を受けつつ営業を続けることになった。この辺までは北陸鉄道とよく似た経緯をたどっている。
 だが、2000年から2001年にかけて、半年間に2度までも、多くの重軽傷者を出した列車衝突事故が発生する。経営悪化のための安全対策費の切り詰め、そして何より、経営のやる気の無さを反映した社員の心構えの弛緩が指摘された。ローカル私鉄に携わる人々に対する一大警鐘となった事件だった。
 中部運輸局は直ちに京福電鉄の福井管区全線の運転休止を求め、代行バス輸送に切り替えられた。
 間もなく京福電鉄側は、もはや自力で鉄道運行の再開ができないことを発表した。
 おそらくそのまま廃止されてしまうのだろうと、多くの人が思った。ローカル私鉄が代行バス輸送になった場合、そのまま廃止されてしまう例がきわめて多いのだ。
 が、もはや電車など見捨てていたかと思われた沿線住民に、意外と愛着が残っていた。すったもんだの末、京福電鉄福井管区は、第三セクター「えちぜん鉄道」として奇跡の復活を遂げることになったのである。ただし、永平寺線6.2キロは廃止され、越前本線と言われていた福井──勝山間が勝山永平寺線と改名された。
 私は京福時代に、すでに全線に乗ったことがあったのだが、えちぜん鉄道になって何が変わったかをぜひ見てみたかった。

 ──京福の体質のままであれば、復活させないほうがマシだ。

 という意見も聞いていたのだ。

 あわら湯のまち駅の出札口に行くと、若い女性が応対した。
 「三国港まで」
 「はい、260円になります。次の電車は36分です。踏切を渡って向こう側のホームでお待ちください」
彼女は愛想良く、かつきびきびと言いながら、切符を渡してよこした。
 プラットフォームで待っていると、やがて対面に2輌編成の電車が到着した。この駅は交換駅なので、私の乗る下り電車をここで待つわけだ。電車の側面は白地に鮮やかな青(扉部分は黄色)のストライプに塗り替えられている。ただ屋根と足許は古びていて、その落差が大きかった。
 遅れて到着した下り電車は、単行(一輌だけ)だったが今年できたばかりの新車だった。セミクロスシートである。
 客は少なかったが、運転士の傍らに、車掌ともガイドともつかない、若い女性乗務員が立っている。アテンダントと称する接客乗務員だ。次の停車駅などの案内はテープで流れるのだが、
 「この時間帯、○○駅は無人となっておりますので、いちばん前の扉からお降りください」
というような補完的なアナウンスをやり、無人駅からの乗車客への切符販売、無人駅での下車客からの切符徴収なども彼女の仕事だ。時には客の話し相手にもなっている。
 私は終点の三国港まで行き、折り返す電車に乗って福井へ向かった。終点は無人駅になっていたので、アテンダントの彼女から切符を買うことになる。そのついでに話しかけてみた。
 「少しはお客増えましたか? えちぜん鉄道になって……」
 「ええ、お休みの日なんかは少し。平日はまあ、こんな感じですねえ」
 彼女は車内を示した。3、4人しか乗っていない。もっとも、次の駅の三国では10人ほど乗ってきたが。
 「あと、雨が降ったりすると減るようで……家から出たくないんでしょうね」
 福井は今年の7月に集中豪雨による大被害を受けているので、これはかりそめならぬ言葉と言わねばならない。
 ともあれ、アテンダントの対応にはかなりの好感を持てた。
 運転士は運転士で、大声で指差し確認しながら運転している。やや滑稽なようでもあるが、これを怠っていたからこそ大事故になったのだ。二度とあんな事故は起こさないという決意がみなぎっているようで、私は思わず感動を覚えた。

 JR、私鉄を問わず、ローカル線では人件費を極力抑えることを旨としている。駅は片端から無人化。列車はことごとくワンマンカー。整理券をとって、運賃表に示された運賃を払って下りる。経営努力として当然のことではあろうが、バスに乗っているような味気なさを感じてしまうのは否定できない。客にとっては明らかにサービスダウンである。やむを得ない理由がない限り、二度三度と乗りたいとは思えなくなってしまう。
 そんな趨勢の中、えちぜん鉄道はあえてアテンダントの乗務をおこなった。全列車ではないが大半の列車には乗っている。無人駅も多いとはいえ、時間を決めて駅員を配置するなどの工夫もしている。合理化という見方からすると逆行しているようでもある。
 だが、「気持ちよく乗って貰える電車」を志すのは、人員削減、サービスダウンによる合理化とはまた違った行き方として評価すべきではないだろうか。第三セクターということで、県や沿線自治体からかなりの補助を受けているからこそできる試みかもしれないが、ともかくも京福時代のあり方の反省に立って、こうした方針を打ち出したには違いない。
 休日の客が増えたというのは、さほど急がない場合には移動手段として電車を選ぶ人が多くなったということである。その何割かは、アテンダントの笑顔に誘われてのことではあるまいか。
 さらに、スピードと利便性を挙げれば、平日の利用ももっと増えると思う。現在、勝山永平寺線・三国芦原線とも、朝の上り1本だけ快速電車が走っているが、これはぜひ終日に拡大するべきであろう。ダイヤは日中きれいに毎時2本ずつ、正確に同じ時分で走っている。プラス快速1本を走らせればずいぶん便利になるだろう。列車交換が可能な駅はかなり多いので、北鉄などに較べれば増発はしやすいはずだ。
 そして、永平寺線を復活させるわけにはゆかないものだろうか。支線として鈍行ばかりがたらたら走っていたから利用客が少なかったのであって、福井や三国からの直通急行電車などを走らせれば、充分バスに対抗できたと思う。永平寺駅は山門からもさほど遠くなく、条件は悪くなかった。

 利便性を高めるということでは、私が行った時、ちょうど福井鉄道との乗り継ぎ割引実験をしていた。三国芦原線の田原町で、福鉄に接続しているのだが、通して乗る場合に割り引き運賃を設定しようという話があり、そのいわばお試し期間だったのだ。
 私はあとで福鉄電車から乗り継いでみたが、田原町駅で学生アルバイトからちょっとしたアンケートをとられた。その回答用紙を渡され、下車駅でそれを出せば30円返金します、と言われた。
 割引は良いのだが、肝心の電車同士の接続があまりよろしくない。福鉄のほうが市内は路面電車であることもあって、どうしても遅れがちだし、えちぜん鉄道ほど整然としたダイヤにはなっていないので、便利さという点ではいまひとつである。
 福鉄と一体となったダイヤ編成が必要だろう。さらにラディカルな提案として、福井駅周辺のトランジットモール化を主張する向きもある。

★福井鉄道★

 福井鉄道というのは風変わりな路線で、上に書いた通り、福井駅周辺の市街地では路面電車として走り、郊外(福井新以南)は地方鉄道となる。プラットフォームの高さも違っている。
 似た例としては、広島電鉄宮島線直通電車、名古屋鉄道岐阜市内線──揖斐線直通電車がある。海外で普及しつつあるLRT(Light Rail Transit──軽快電車)にやや似ている。LRTは、市街地は路面電車として、郊外では専用線路をゆく高速電車として身軽に走る電車のことだが、専用線路では少なくとも時速100キロくらいのスピードを出すのが普通で、その点日本のこれら類似の例はいささか力不足である。どういうわけだか日本では、あまり本格的なLRTの導入を考えているところはないようだが、モノレールや新交通システムなどを作るよりはずっと安上がりで、しかも融通が利く方法なのだから、ぜひ実現させて貰いたいところだ。
 さて、そのテストケースとして、福井鉄道・えちぜん鉄道両者を巻き込んで、福井駅周辺をトランジットモールにすればどうかという意見が川島令三氏などから出されている。
 トランジットモールは歩行者天国のこと。指定されたもの以外はクルマの進入を認めない。そして、その外環に路面電車による環状線を走らせるというのだ。
 具体的には、現在の福井鉄道福井駅前停留所から、福井駅前広場を通って、三の丸交差点・宝永交差点・裁判所前交差点を経由し、現在の福鉄軌道に戻る。県庁(福井城址)を囲む形の、直径500メートルばかりの環状線である。この内側は指定車輌以外の進入を禁じ、すべて歩行者天国とする。環状線の規模が小さいので一方通行とし、ここにえちぜん鉄道と福井鉄道の電車を乗り入れさせる。えちぜん鉄道三国芦原線は田原町から現在の福鉄軌道を経て裁判所前から乗り入れ、一周してふたたび三国方面へ向かう。同勝山永平寺線は現在の新福井駅の手前でJRの線路を跨ぎ、三の丸交差点から入って一周し、ふたたび勝山方面へ向かう。そして福鉄電車は今と同じく市役所前で合流して、一周して武生方面へ向かう。さらにJR越美北線、できればJR北陸本線の一部列車も乗り入れる。
 これだけ乗り入れ電車が多ければ、たとえ各線の運転本数が現在のままであっても一時間に7、8本は走ることになり、環状線内では「待たずに乗れる」状態になる。停留所は8箇所くらいは設けたいし、環状線内はどの会社の電車でも100円で乗れる、というようなことにしておきたい。
 各線の駅前には広い駐車場を設けることにして、パーク&ライド(駅までマイカーで来て鉄道に乗り換える)を奨励すれば、各線とももっと本数も増やせるはずで、環状線内は最終的には広島電鉄の市内線のごとく、2、3分おきに電車が来るようにもできるだろう。建設費のうち大きなものは勝山永平寺線のJR跨線橋くらいで、極小の予算で実現できるプランなのだ。
 福井というのはよく考えてみると、実に6方向に線路が拡がった街なのであって、地方都市としてはきわめて充実している。北陸本線以外はローカル線ばかりとはいえ、このように有機的に結びつけることで現在の何倍もの利便性を得ることができる。ぜひ本気で検討してくれないものかと思う。

 さて、北陸ローカル私鉄めぐりの最後は福井鉄道だった。過去2回乗ったことがある。2回とも急行だったが、今回は鈍行だった。日中の急行運転はやめてしまったようで、朝夕だけになっていた。どうしたことだろう。
 16時台の電車だったので、高校生でいっぱいだった。途中駅でもなかなか下りず、私はなかなか坐ることもできなかった。
 終点(実際には起点)・武生新まで45分ほど。北陸本線の福井──武生間は普通列車でも20分足らずで、スピード的にはまるでかなわない。路面部分があるのでこれはもうどうしようもないだろう。ただ、北陸本線のこの区間の日中の普通列車は一時間に約1本ずつ、福鉄電車は2本ずつなので、きわめてレベルの低い争いながら、頻度では勝っている(この区間をJRの特急に乗る人はあまり多くないだろうから)。できれば区間運転でよいからもう少し増やしたいところで、上記の環状線案は考えないにしても、路面部分の運転が、路面電車としては少なすぎる。
 武生新とJR武生駅は少し離れている。それはわかっていたのだが、記憶にあるより遠く感じる。前に来た時はなかった大きなショッピングモールが間に立ち塞がっていたせいかもしれない。
 かつてはJR(当時国鉄)武生駅東側に隣接して、福井鉄道のもう1本の路線である南越線社武生駅があった。武生市の東隣の今立町にある粟田部(あわたべ)まで(本来はさらに北行して鯖江市に入った戸ノ口まで)線路が通じていたが、昭和56年に廃止された。乗れなかったのは残念だが、やむを得ない。

(2004.9.23.)


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