II
4月28日(木)は、マダムは仕事とフランス語の学校があったので、先に家を出て、東京駅で落ち合うことにしました。私は晩まで特に予定がなかったため、こまごまとした用事を済ませたり、前項のブログを書いたりして過ごし、22時半過ぎてから出かけました。わりと長い旅行になるのでキャリーバッグを持った上、マダムのスーツケースも運んでゆくことになっていたため、かなり大荷物になりました。 乗るのは、夜行バス「ドリーム323号」です。山陰に行くのに京阪地域までの夜行バスに乗るというのは、私ひとりならよくやりますが、マダムと同行するにあたっては本意ではありませんでした。最初は乗り換え無しで行ける寝台特急「サンライズ出雲」に乗るつもりだったのです。これに乗ると、松江には9時30分、出雲市にも9時58分に到着しますから、29日がまるまる使え、松江市内の観光をするにしても、美保関とか日御碕とかに行くにしても、動きが取りやすいはずです。
ところが、「サンライズ出雲」の切符が発売になる3月28日午前10時、駅の窓口に行った私は、全部売り切れと言われて愕然としたのでした。前の客がちょっと手間取っていたのは確かですが、時計を見るとまだ10時03分でしかありません。ゴールデンウィーク前夜の寝台特急の切符は、なんと3分足らずですべて売り切れてしまったのです。「サンライズ出雲」にはひとり用個室、ふたり用個室、「ノビノビ座席」と称するごろ寝スペースなどが連結されていますが、全部ダメでした。
キャンセル待ちをすれば、2枚くらい入手できたかもしれませんが、連番で取れるとは限りませんし、「サンライズ」のキャンセル待ちをしているうちに他の交通手段も塞がってしまうと元も子もありませんから、ショックを受けつつも列車で行くことは諦めました。
飛行機は最初から選択肢にも挙げておらず、直通の寝台列車がダメとなると、次に考えるのは直通の夜行バスです。マダムは夜行バスが好きで、ひとりで青森まで往復してきたりしたこともあるくらいです。私の感化ではありません。
松江や出雲市に行く直通の夜行バスは存在します。JRバスと一畑バスが共同運行している「スサノオ号」です。ところが、非常に長距離であるだけに、発車時刻が19時台と、えらく早いのでした。マダムが学校を終えた頃には、もうとっくに出発しています。学校を休みたくはないというので、これを使うわけにはゆきません。
結局、京都まで「ドリーム」で行って、京阪神地域と山陰を直通する特急「スーパーはくと」に乗り換え、その後鈍行を乗り継ぎながら目的地へ向かうことにしました。松江着は14時台になりますので、あんまり市内観光に宛てられる時間も無くなってしまいましたが、レンタサイクルなどを借りて走ったりすることはできるでしょう。「スーパーはくと」は一度乗ってみたい列車でもありましたし、まあ次善のスケジュールというところです。
「ドリーム323号」の東京駅発車は23時30分。マダムとは無事に落ち合えました。
東京駅八重洲南口の夜行バス乗り場はえらくごった返していました。夜行バスで出かけようとする人がやたらと多いことがわかります。思うに、これは「サンライズ」以外の夜行列車が全滅したせいでしょう。九州特急はもちろん、大阪行きの急行「銀河」、大垣行きの快速「ムーンライトながら」などまで片っ端から廃止されてしまったので、時間を無駄にしたくない旅行客はバスを使わざるを得ないのです。新幹線や飛行機なら速いから時間が無駄にならないと考えるのは大きな間違いで、睡眠時間をまるまる移動に宛てられる夜行列車とは較べものになりません。せめて多客期くらい運転しても良いと思うのですが、かろうじて「ムーンライトながら」が臨時運転されるくらいで、受け皿には小さすぎます。「銀河」でも残っていれば、私も「サンライズ」がダメだった瞬間にその可能性を考えたでしょう。JR経営陣には、サンライズ型を増備して夜行列車を復活させていただきたいと願います。
「ドリーム323号」も満席でした。夜行バスは独立三列シートで楽ではあるのですが、混んでいると椅子のリクライニングをフルに利かせるのに気が引けてしまうのが欠点です。フルリクライニングだと、かなりからだを伸ばすことができて、横臥に近い姿勢をとれるのですが、うしろに他の客が居るとなんとなく悪いような気がしてしまうのでした。
途中渋滞が発生しているらしいとのことでした。29日になると大変だろうとは思いましたが、28日の晩からすでに渋滞になっているとは、ゴールデンウィークを甘く見ていたかもしれません。列車なら渋滞知らずだよな、と、つい思ってしまいます。
首都高速に乗った途端にノロノロ運転になってしまったので、どうもいやな予感がしました。
バスでも列車でも、夜行の場合はひと続きに眠るということがなかなか難しく、途中何度か眼が醒めましたが、やがて明るくなってきました。4月29日(金)の夜が明けたわけです。
マダムがちょっとカーテンを開けて外を覗いていました。私は真ん中の列だったので、外の様子を伺うためには、窓際の人がカーテンを開けている時に透かし見るようにするしかありません。マダムの開けた隙間からかいま見ると、高速路線バスのバス停らしきものが過ぎ去ってゆくのが見えました。漢字二文字で、うしろの「津」だけわかりました。京都着は7時17分の予定ですから、すでに明るくなっていることを考えると、「草津」でしょうか。しかしなんとなく「岩津」と読めたような気がしたのが不気味でした。岩津であれば、まだ名古屋附近にすら達していないことになります。
そのうちマダムが表示を見て、
「そっち行くと、刈谷だって」
と呟いたので、やれやれと思いました。やはりバスはまだ、東名高速から抜けていないのです。
京都駅では「スーパーはくと3号」に乗り換えるにあたって、けっこう余裕をとっていました。ゆっくり朝食でも摂ろうと考えていたのですが、この調子だと朝食の時間を捻出するどころか、乗り継ぎ自体ができなくなりかねません。ここからでもスムーズに行けばと思いましたが、走り出したと思うとすぐスピードを落とすことが繰り返されます。これは無理かな。計画を練り直したいところですが、これほど遅れるとは予想しなかったので、時刻表は荷物室に預けたキャリーバッグの中に入れてあります。やきもきしながら京都到着を待つしかありません。
名古屋からは名神高速ではなく、東名阪に入りました。そのほうが空いているという判断だったのでしょうが、それからもあまり快速に走るという感じはなく、四日市から新名神に。甲南パーキングエリアで予定外の休憩をとったりしたので、余計に到着は遅れることになりました。とはいえ、そろそろ休憩を入れないとエコノミー症候群になる客も出そうです。
草津からは京滋バイパスに入り、京都駅に着いたのはすでに10時を過ぎていました。かれこれ2時間50分ほどの遅れです。特急列車などでこんな遅れが出れば、特急料金を払い戻すことができるのですが、バスでは残念ながらそうはゆきません。
もちろん予定していた「スーパーはくと3号」はとっくに出発してしまっています。新快速や普通列車を乗り継いで岡山から来る「スーパーいなば5号」に乗り換えるという手も検討してみましたが、おそらくそれも間に合わないと思われます。スーパーはくとの次の便、5号に乗るしかないでしょう。松江着は16時20分、ほとんど夕方になりますが、やむを得ません。
ところで「スーパーはくと」も「スーパーいなば」も、智頭急行という第三セクター線を通る特急です。智頭急行にこだわらず、こうなった以上、岡山まで新幹線で行き、伯備線の特急「やくも」に乗り継ぐという選択肢も当然考えられます。おそらくそれがいちばん早いでしょう。
昔の周遊券であれば、それが可能でした。出発点から周遊範囲に入るまで、いくつかの乗車経路が指定されており、その場の事情や気分で経路を変更するのも自由だったのです。ところが今回作った「山陰周遊きっぷ」は──「山陰」だけではありませんが──「ゆき券」と「かえり券」を別にあつらえなければならず、これは一旦経路を決めると変更が利きません。「前の周遊券よりも、往復の経路が随意に設定できるので、自由度が上がった」とJRは自画自賛していましたが、利用者から言わせて貰えばはるかに不自由になったとしか言いようがありません。今回のような場合に、旅の途上で智頭急行経由を伯備線経由に変更することは、絶対不可能ではないにしても、非常に面倒くさい手続きを必要とするようになってしまいました。
ともあれ、京都駅ビルで軽く遅い朝食を摂り、駅弁を買って10時51分発の「スーパーはくと5号」に乗り込みます。細面の瀟洒な特急で、いちど乗りたいと思っていて今まで果たせませんでした。今回「サンライズ」がダメになった時に、「スーパーはくと」を考えたのはそのためで、しかもどうせ乗るなら全区間を乗り通したいと思ったので「ドリーム」を京都までの乗車にしておいたのでした。こうなってみるとそれで正解でした。京都以西も名神高速が大渋滞で、「ドリーム」に大阪まで乗ることにしていたら、午前中に着けたかどうかわかりません。運転手も、大阪までの客に、京都下車を薦めていました。
「スーパーはくと」は京都から大阪・神戸・姫路を経て、山陽本線の上郡から智頭急行に入り、鳥取を経て倉吉まで走ります。約3時間半、新幹線以外では短距離の列車が増えた昨今としては、まあまあの乗りごたえを感じられます。
この日の乗車率はかなり高く、一輌増結していたにもかかわらず指定席は満席、自由席では立ち客も見受けられました。増結車は2号車と3号車の間に連結され、「増2号車」と表示されていましたが、車内アナウンスでこれを「まし2号車」と言っていたので、思わず笑ってしまいました。関東だったら「ぞう2号車」と読むでしょう。しかし考えてみると、「ぞう2号車」だと「12号車」などと間違えやすそうで、「まし2号車」のほうが確実に聞き分けられるようにも思えます。とはいえ、「2号車よりはまし」みたいにも感じられて、やはりどこか笑えます。
非電化区間を走る列車なので当然ディーゼルカーですが、京阪神地域では電車と遜色ない走りっぷりです。複々線になっているところでは新快速電車と同じ「外線」を走りますので、「内線」を走る各停や快速とデッドヒートを繰り拡げたりもしました。新快速の停車駅がだんだん増えてきたため、京都・新大阪・大阪・三ノ宮・明石・姫路……という飛ばしっぷりも痛快です。高槻と尼崎、神戸を通過する時にとりわけ感激があります。
姫路までは88分、ここまでは平均時速89キロで飛ばしてきたことになります。驚いたことには、姫路まででも下車客がけっこう居るのでした。京都から姫路までは、新快速が15分おきに走っている区間であり、所要時間はほとんど変わりませんので、わざわざ特急料金を払って乗るほどのことはなさそうですが、湘南新宿ラインなどでグリーン車に乗るみたいな感覚かもしれません。千円足らず払って良い座席に坐ろうというわけです。しかし、関西の場合は新快速自体がけっこうグレードの高い座席ですから、関東の電車の普通車とグリーン車ほどの格差はないように思います。
さて、「スーパーはくと」はその先もなかなか快速で、単線の智頭急行線内に入ったらスピードが落ちるかと思いきや、末期の鉄建公団が惜しみなく技術とカネを注ぎ込んだ高規格路線であるため、さほど減速もしないので感心しました。前にこの路線に乗った時は、のんびりと鈍行で旅しましたし、運転区間の関係で途中の大原で街を歩いたりもしましたので、余計に「スーパーはくと」の速さが感じられます。
智頭から再びJRに入ります。ここは因美線というローカル規格の路線で、線路が見るからに細くなり、列車の揺れも明らかに大きくなりました。やや減速を余儀なくされた感じですが、それでも制限速度いっぱいで一生懸命走っている印象です。
鳥取から山陰本線に入りますが、この路線は図体こそ大きいものの、京都附近と電車特急「やくも」が乗り入れる伯耆大山―西出雲の電化区間を除いては、どこをとってもローカル線風情満点な路線です。故宮脇俊三氏など「偉大なるローカル線」と呼んでいました。因美線沿線とさほど差のない車窓を眺めつつ、14時23分、倉吉に到着しました。
乗り継ぎに少し時間があるので、一旦改札を出て、遅ればせに歯を磨いたり洗顔をしたりします。すでに朝食や昼食も食べているので、本当に遅ればせなのですが、やはり顔を洗っておかないと少々気分が悪かったのでした。マダムなどは洗面所で服まで着替えていたようです。
「スーパーはくと5号」の到着からすぐに出る普通列車もあるのですが、次の快速「とっとりライナー」に途中の御来屋(みくりや)で抜かされ、米子到着は「とっとりライナー」のほうが早くなるので、倉吉で待ったわけです。14時57分、2輌編成の「とっとりライナー」がプラットフォームに入ってきました。山陰本線の列車は「嵯峨野線」と呼ばれている京都附近以外、ほとんど2輌編成というのがスタンダードで、特急すら例外ではありません。「スーパーまつかぜ」や「スーパーおき」などが2輌で走っているのを見ると、 ──特急も落ちたものだなあ。 ──どこが「スーパー」なんだか。 といった感慨がこもごもに湧いてくるのでした。
米子で2分の乗り換え、松江には定刻16時20分に到着しました。陽が長い季節になりましたし、だいぶ西に来ているので、日暮れまでは間がありそうですが、市内見物をするにはいささかあわただしいようです。
荷物をコインロッカーに預けようとしたら、私のキャリーバッグがロッカーに収まらないことが判明し、仕方なくレンタサイクルの事務所までころがしてゆきました。マツダのレンタカー事務所で自転車も貸しているというところだったので、係員が
「責任は持てませんが……」
と渋るのを押して、事務所に置かせて貰うことにしました。
松江の街は、宍道湖と海をつないでいる大橋川を渡る何本かの橋の前後を除いては、ほとんど起伏が無く、自転車で走りやすい土地でした。
松江城や武家屋敷なども訪ねてみたかったのですが、何しろ時間がないので、マダムの意向を汲んで小泉八雲にポイントを絞りました。小泉八雲記念館と、その隣の旧居跡のみ訪ね、他はすべて捨てたわけです。もっとも駅と八雲記念館は、松江の中心街の南端と北端に位置しているようなものなので、「街の風情」のようなものは途中で充分に感じられました。
マダムは島根県を訪れたのははじめてだそうで、はじめて訪れる人によくあるように、いささか大げさなイメージをずっと持っていたようです。というのは、以前の教科書や資料集に、よく「日本一の過疎地帯」として、島根県の匹見町(現益田市内)の廃屋写真が掲載されていたもので、県内はどこも過疎で、人跡稀な状態になっているとばかり思っていたのでした。だから、松江市内を自転車で走りながら、
「ずいぶん都会じゃない」
と驚いていました。現地のかたには申し訳ないことながら、知らない人間のイメージなんてこんなものだったりします。
ちなみにその匹見町──というか益田市匹見地区──ですが、教科書であまり過疎を強調されたせいか、その後工芸などをやる若い人がかなり移住し、今では「木工の町」としてそこそこ有名になりました。もう「日本一の過疎地帯」などという不名誉なタイトルをかぶせられることは無いでしょう。
小泉八雲ことラフカディオ・ハーンについては、私は文学史上のひと通りの知識はありましたが、そもそも何国人で、何歳くらいまで生きたか、日本語はどのくらい解していたのかというようなことはよく知りませんでした。有名な『怪談』にしても、八雲が自分で日本語で書いたものなのか翻訳されたものなのかという点すら曖昧でした。記念館で、家族に宛てた手紙などを眺めて、ようやく人物像がはっきりしてきた感じです。松江に骨を埋めたのだとばかり思っていましたが、亡くなったのは東京でのことだったというのもはじめて知りました。
松江に住んでいたのは、思ったより短期間だったようです。しかしここで日本人の妻をめとり、長男をもうけたということで、やはり思い出深い地であったのでしょう。英語教師としての辞令なども展示されていましたが、明治20年代で月給200円くらいだったようなので驚くべき高給取りです。たぶん今の200万円くらいに相当するでしょう。
面白かったのは特製の机でした。八雲は少年時代の事故のため片眼が失明しており、もう片方も極度の近眼だったので、顔を書物や原稿用紙に非常に近づけないと文字を読んだり書いたりすることができず、そのためおそろしく高い机を作らせて、そこで読書や書き物をしたそうです。旧居にレプリカが置いてあり、添えられた椅子に坐ってみました。八雲は小柄な人で、身長で言えば私よりマダムのほうが近いのですが、マダムが机の前に坐ると、ほとんど高窓から部屋を覗き込んでいるみたいな姿勢になりました。これで読むほうは良いとしても、原稿を書くのはだいぶ疲れる作業だったのではないかと思います。
マダムが堀川の地ビール館に寄りたがったので、八雲旧居のあと行ってみましたが、そこはすでに閉まっていました。一畑電鉄の松江しんじ湖温泉駅に立ち寄ってから松江駅に戻ります。時間に余裕があった時点では、宿泊予定地の出雲市まで、一畑電鉄で行ってみようと考えていたのですが、もう無理そうです。しかし一応駅は見ておきたかったのでした。
学生時代に山陰を旅した時に、当時は松江温泉駅と言ったこの駅も訪れました。確かその時は雑居ビルみたいなところだったような記憶があるのですが、すっかり再開発されて、広大なバスターミナルに隣接したモダンな建物になっていました。駅舎の前に足湯のコーナーがあり、温泉好きなマダムが早速漬かり始めました。私も隣で足をお湯に漬けましたが、そろそろ時間が迫ってきました。18時40分発の特急「やくも19号」に乗るつもりだったのに、すでに18時半に近くなっています。マダムをせかしてふたたび自転車を走らせてゆくと、宍道湖大橋にさしかかった頃、大きく真っ赤な夕陽が宍道湖の上に映えて、見事な光景になっていました。完全なサンセットではないものの、いいタイミングだったと思います。
大急ぎで自転車を返して、松江駅に駆け込んだのがちょうど18時40分、それから改札を通ってエレベーターなりエスカレーターなりに乗ったところで間に合うはずはありません。やむなく「やくも19号」は諦め、次の19時07分発の特急「スーパーまつかぜ9号」に乗ることにしました。プラットフォームに上がってみると、「スーパーまつかぜ9号」も、その前に出ているべき普通列車も、なんだか遅れているようです。結局普通列車は発車を遅らせて、特急を先に通すことにしたようですが、それならなぜ「やくも19号」は時間通りに行ってしまったのかと恨みがましく思いたくなりました。
35分ほどで出雲市に到着。予約しておいたホテルは駅の目の前でした。翌30日はTasty 4の演奏会なので、このホテルに2連泊する予定です。
ホテルで夕食はついていないので、チェックインしてから食事に出ました。出雲市駅は北口のほうが繁華街になっているようでしたが、私たちのホテルは南口で、あまり飲食店の姿は見えないように思えました。回転寿司の店があったので、そこに入りましたが、関東では馴染みのないチェーンで、なかなか美味しくいただきました。
それからホテルの隣にある「らんぷの湯」という温泉に立ち寄りました。例によって大深度地下から汲み上げた都市温泉ですが、店名どおり照明がランプ風の電灯ばかりなのが売りです。いろんな種類の浴槽があるわけではなく、サウナなどもごく狭いものでしたが、じっくり汗を流せました。
4月30日(土)の朝、朝食を摂りにホテルのロビーに下りてゆくと、以前Chorus STのメンバーであったやのくんとばったり出逢ったので驚きました。彼は清水雅彦さんの関係する演奏会でよくスタッフをやっていますし、奥さんの佐保子さんは故大國和子さんの弟子でもあり、秘書と間違えられるほど事務的な作業を頼まれていた人でもありますから、Tasty
4のコンサートにあたって東京から駆けつけたのは自然な話ですが、私たちと同じ宿に泊まっているとは思いませんでした。
彼らは私たちより少し遅く活動開始するつもりだったようですので、また後で、という感じで別れを告げ、部屋に戻って身支度をし、9時12分の一畑電車に乗りました。
途中分岐駅の川跡(かわと)で出雲大社前行きの支線に乗り換えます。最初の予定では、ここで一本やり過ごして、次に来る急行「大社号」に乗ろうかと目論んでいたのですが、それは取りやめました。というのは、前日のサイクリング中、マダムが急ブレーキをかけた時に衝撃が加わったようで、しきりに首の痛みを訴えるもので──首の痛みは前からあったもののそれが悪化したようなので──早く薬局に立ち寄りたかったのです。川跡駅前にはなんにも無さそうで、たぶん大社前まで行ったほうがありそうだったので、すぐに接続する電車に乗り換えたのです。
思った通り、出雲大社前の駅を出るとすぐに薬局が見つかりました。湿布薬と鎮痛剤を買って、その場で貼ったり服んだりしてひとまず落ち着きました。
大社前の駅で、Chorus STの団長である田川くん夫妻と待ち合わせています。彼らは飛行機で米子まで飛んでレンタカーを借り、前夜は松江市内に泊まったそうです。「大社号」に乗るつもりだったので、その到着時刻に落ち合うことにしていました。おかげで彼らを待たせることなく薬局に立ち寄れたのは幸いでした。
ちなみに田川くんは運転ができず、クルマを動かすのは奥さんのすずりんです。彼女はChorus STの古株であり、もちろん私も結婚のはるか前から知っているだけに、田川夫人などと呼ぶのは勝手が違います。旧姓にちなんだこの名前で呼ぶことにします。
「大社号」が到着して間もなく、私の携帯電話が鳴って、大鳥居のところに着いた旨を田川くんが伝えてきました。一畑電鉄の出雲大社前駅は、大鳥居より内側にありますので、ほどなく落ち合うことができました。クルマは大鳥居の外の道の駅に駐めてきたそうです。この日は、このまま4人で行動しました。
何はともあれ出雲大社にお詣りします。最近は何やら「縁むすび」の御利益ばかり強調され、出雲空港なども「縁むすび空港」などと愛称をつけて便乗している始末ですが、もちろん祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)、伊勢神宮の天照大神と並ぶわが国最大の神様ですから、それだけではありません。なお「大國」の苗字も当然ながら大国主命にちなんでおり、この辺にはたいへん多い姓となっています。直接の子孫一族というわけではないかもしれませんが、歴史のある時期に大国主命を慕ってこの姓を名乗ったのは間違いないでしょう。
縁むすびが強調されるのは、大国主命が日本神話上でもとりわけ艶福家で、ヤガミ姫、スセリ姫、ヌナカワ姫、タキリ姫、カムヤタテ姫など多くの女性と交わっては子を作っているところに由来すると思われます。ただ女性から見るとどう考えても浮気者で、芦原醜男(アシハラシコオ)などという別名があるのは「醜男」というのが「強い男」を意味すると共に、やはり女性たちの恨みがこもっているという説もあるくらいですから、はたして縁むすびの神様として適確なのかどうかは微妙な気がします。
私たちは幸い4人とも既婚者でしたので、さしあたって私は「仕事上での人との良い出会い」を祈念して参拝しました。残念ながら巨大な本殿は遷宮のための工事中で、詣ったのは小振りの仮殿に過ぎませんでした。本殿は再来年の5月に遷宮完了とのことです。
宝物殿を拝観したり、境内でおこなわれていたお神楽をしばらく見物したりしてから大社をあとにし、正門前のそば屋に入りました。ガイドブックなどに必ず記載されている有名な店だけに、昼前からすでに行列ができていましたが、入ってみると座席配置は広やかで配膳も早く、名店と言われるだけはあると思いました。すずりんとマダムは三色割子、田川くんと私は五枚割子を注文し、デザートにそばの実のアイスクリームを各夫婦1個ずつあつらえました。
コンサートは16時からですが、まだ少し時間があります。雨が落ちてきて、雷まで鳴り始めたので少々困惑しました。天気予報では、30日の山陰地方は晴れ、次の5月1日が雨となっていたのですが、いささか外れたようです。
参道にあった、ちょっとオシャレな喫茶店で時間をつぶしているうちに、晴れ間が出てきたのでまた外に出ましたが、その後またしても雨が降ってきました。
「日本海側の雨は油断できないんだ」
金沢出身の田川くんが言いました。
さしあたって、大國さんのお墓に詣でることにしました。墓地の位置、墓地の中のお墓の位置については、あらかじめ地図を貰ってきています。
お墓に供える花を買おうと思い、喫茶店の店員に地図を見せて訊いたところ、
「お花屋はないですねえ……こっちの道の先のほうにスーパーが一軒ありますけど……少し遠いですよ」
との答えでした。実際行ってみるとそんなに遠くはありません。
「田舎の人間は歩かないから、このくらいの距離でも遠く感じるんだよね」
「かと思うと『すぐそこ』ってのが、『クルマですぐそこ』のことだったりね」
などと話しながら歩きました。実際の話、最近は小学生などでも、都会の子のほうが足腰が強かったりするそうです。
供花を持って墓地へ行くと、ほとんど探すまでもなく、一基だけやたらと色とりどりの花が飾られたお墓があったので、大國さんのお墓はすぐにわかりました。Tasty
4の面々ややのくん夫妻などは昨日から大社入りしているので、すでにお墓に来ているはずですし、東京から他の合唱団のメンバーも演奏会を聴きに来ているそうです。お花壺はぎっしりで、新たに挿すスペースが無いほどでしたが、私たちは無理に押し込みました。
そのお墓には大國さんと、30年ばかり前に亡くなったお母様が葬られていましたが、その他にも「大國家之墓」と彫られたお墓がいくつも見つかりました。やはりこの辺では多い姓だということがわかります。
お墓参りのあと、まだ時間があったので、旧国鉄大社駅跡や、すずりんがクルマを駐めた道の駅などを訪れました。旧国鉄大社線の終点であった大社駅は、寺院風のいかめしい駅舎で、新潟の弥彦駅と共に全国の鉄道ファンには有名でしたが、一畑電鉄の駅と違っていささか大社まで遠すぎ、不便なためにあまり利用者が無くて廃止されてしまいました。しかしこの駅舎だけは惜しむ人が多く、取り壊されずに原状のまま保存されています。プラットフォームもそのままで、D51が一台駐まっていました。昔は長大な急行列車が蒸気機関車に牽かれて発着したものなので、SLが飾ってあるのはそれで良いのですが、うるさいことを言えばD51というのは貨物列車専用の機関車だったので、大社駅に出入りしていたかどうかはわかりません。
道の駅は、よくある産品直売所併設スタイルのものではなく、小ミュージアムといった趣きの施設でした。演奏会場の大社文化プレイス・ごえんホールはすぐ隣です。私は道の駅の休憩室でネクタイを締めました。特に舞台に呼ばれたりはしませんが、一応紹介はされるということでしたので。
15時45分くらいに会場に行くと、もうかなり客が入っていました。最終的には200ほど置いた座席が、ほぼ9割方埋まっていたようです。大國さんが存命で出演するというのならともかく、地縁のない場所で演奏会をやってこれだけ埋まるというのはすごいことです。
演奏会は三部構成で、まずTasty 4本来のメンバーである栗栖由美子さん、清水雅彦さん、小濱明さんと、大國さん・清水さんの弟子で今回代役のような形で入った向野由美子さん、それにもうひとり、大國さんとずっと同級生だった親友の娘さんで、今は歌い手になっている金築(かなつき)礼子さんが賛助出演者として、それぞれ1〜3曲ほど独唱しました。第二部は全員舞台に登場し、トークを挟んで、それぞれが大國さんとの想い出につながる曲を一曲ずつ歌います。そして第三部が全員演奏で、私の編曲した春の歌メドレー『春の情景』でした。第二部のトークがだいぶ長くなったようで、全体で2時間20分くらいになっていました。
向野さんは大國さんの十八番であった『カルメン』のハバネラを第二部で歌いましたが、聴いていた人は(お世辞半分かもしれませんが)、
「カコちゃん(大國さんのこと)がそこに居るのかと思った」
と言いました。彼女ももうかなりキャリアを積んだメゾソプラノ歌手であるわけですが(ちなみにすずりんの中学・高校の同級生です)、亡き師の十八番をここで歌うのはやはり恐ろしかったようです。しかし、
「今朝の夢に、大國先生が出てきたんです。まったく唐突だったんですが、今まで聞いたことないくらい優しい声で、『向野、向野』って呼ばれました」
とあとで語っていました。ちゃんと見守っていたのだろうなと思います。ハバネラを歌う時には「降りて」きていたのかもしれません。
『春の情景』については、大國さんがそこで歌っていないのが私にはなんだか不思議な気がしました。しかし代わりに入った向野さんの上に、やっぱり「降りて」いたように思えます。
終演後、出演者と主要スタッフ、関係者、そして大國さんのご親戚などが集まって、会館の別室で打ち上げ会がありました。東京から聴きに来ていた板橋アルモニーなどのメンバーは先に帰ってしまいましたが、田川くん夫妻と私ども夫婦は出席しました。東京勢は、あと会場スタッフをしていたやの夫妻と、ステージマネージャーをしていた中尾さんが居ました。中尾さんは合唱指揮者協会で事務をしていますが、本人はハンドベルの名手で、YDと称するハンドベルグループを率いています。今年末、Chorus
STとジョイントコンサートをすることが決まっています。
大社側のスタッフは、ほとんどが大國さんの同級生のかたがたでした。大國さんは大社小学校、大社中学校、大社高校と進んで東京に出てきた人でしたが、こういう土地では大半の人が同じような経歴を辿るもののようです。ほとんど12年間同じ学校に居るようなものです。小学校は一学年3クラス、中学と高校は6クラスだったそうで、7年目に編入を受け入れて生徒数が倍になる12年制の学校と言っても大げさではないかもしれません。それではクラスが違ってもほとんどの人は知り合いになるでしょうし、その結びつきもことのほか強いものになるに違いありません。中には、さらに幼稚園の2年まで一緒だったという人も居ました。会場が満席近かったのは、それが理由だったのです。
私は子供の頃、父の転勤などに伴って、けっこう転々と引っ越していましたから、こういう、土地に根を張った人間関係というものにきわめて乏しく、うらやましい気がしました。
また、親戚のつながりも相当に強固であるようです。時と場合によってはそれはかえって煩わしいものになりかねませんが、大國さんは早くにご両親を亡くされただけに、そういう親戚同士の紐帯が心強かったことでしょう。
いろいろ話もはずみ、気がつくと一畑電車の終電はとっくに出てしまっている時刻になっていました。すずりんの運転するレンタカーで、出雲市駅前のホテルまで送って貰いました。彼らはその翌日から、広島へ向かうつもりだとのことでした。
ひとまず今回の私の「用件」は終わりました。このあとは、山陰がはじめてというマダムを案内して、鳥取砂丘と天橋立を見物する予定です。
(2011.5.3.)
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