II
5月3日の朝も雨が続きました。というより前日よりも強く降っているようです。 部屋のテレビをつけると、あちこちで大雨の被害が出ているというニュースをやっていました。関東地方がようやく峠を越し、これから東北に大雨が移ってくるような印象でしたが、私たちは栃木県北東部という、関東と東北の境界近くに居るわけで、雨はむしろひどくなるかもしれません。 宿の屋上には展望露天風呂があるのですが、屋根がまったくついていないので、今回はほとんど楽しめませんでした。夜にちょっとだけ上がってみましたが、降りしきる雨滴に閉口して早々と退散してしまったのでした。朝はもう行く気にもなれないくらいの降りかたです。 朝食をはさんで、2度ほど1階の内風呂を浴び、10時過ぎにチェックアウトしました。 温泉というのはひと晩入っただけだと、からだの悪いところが出てくるばかりで、それを治すには少なくとも3日くらいは滞在しなければならないらしいのですが、なかなかそれだけの時間はとれません。前日は結局10キロ以上歩いた計算になるので、多少足に筋肉痛が出たのはまあ良いとして、左右の肘がいやに痛いことに気づきました。中身を少々入れすぎた重いビジネスバッグをずっと持ってきたせいでしょう。やはりリュックザックのほうが良かったと思います。 2日の夕方、宿に向かう時は、いわむらかずお絵本の丘美術館のある北側から入ったのでなだらかな道でしたが、南側に出ようとしたら、おそろしく勾配があって、しかも曲がりくねった道であったので驚きました。こちら側を登ってくるのであればずいぶんうんざりすることでしょう。美術館と同様、この宿もクルマで来るのが常識的な唯一の方法かもしれません。チェックインの時、宿帳に 「おクルマのナンバーをお書き下さい」 と言われ、空欄にして返すと重ねて訊ねられました。 「いや、クルマじゃないんで」 「それじゃあタクシーでいらっしゃいましたか?」 「歩いて来ました」
と答えると、びっくりしたような顔をされたものです。
雨の中をしばらく歩くと、国道293号線に突き当たります。そして間もなく「道の駅ばとう」があります。ここまで来るだけでだいぶ濡れてしまい、くたびれもしたので、ひと休みしました。
雨宿りのつもりもありましたが、ジェラートを食べて再び出発しようとした頃には、雨はさらに強くなっており、もう先へ歩くのがイヤになってきました。当初の予定では、那珂川町の中心部である馬頭の街まで歩き、安藤広重美術館でも見て、午過ぎのバスで烏山に向かうつもりでしたが、道の駅から広重美術館までは3キロほどあります。晴れていればまだ快適なハイキングだったかもしれませんが、強い雨の中を3キロも歩くのはかないません。なんの因果でそんな目に遭わなければならないのかという気分です。
ともかく、300メートルほど先にある那珂川警察署に遺失物届けを出しに行きました。休日のこととて、庁舎内はがらんとして、何人かの係官が詰めているだけでした。
前日の行動を詳しく話し、大田原市の市営バス運行の部署にもすでに問い合わせたということを説明しておきました。たぶん落としたカメラが見つかることはないでしょうが、もしも万一拾得物として届けられたとしたら、戻ってくることもあり得ます。
やるだけのことはやったという気分で警察署をあとにしました。
さらに2キロ近く国道を歩き、上り坂の屈曲部にかかったあたりで、後方から小型のクルマが近づいてきて私たちのそばに停まりました。先ほどの警察暑に居た係官のひとりが運転席から下りてきました。
「あ〜、カメラですが、見つかりました」
「え?」
さすがに私は茫然としました。「万一」と考えていたことが起こったのです。
「大田原署に届けられてたようです。昨日の2時半頃だそうで。いや、私もすぐ問い合わせてみれば良かったんですけどね」
14時半なら、大田原市営バスで佐良土(さらど)に着いて間もなくのことです。そのひとつ先の終点であるなかがわ水遊園に14時に到着するダイヤのバスでした。
するとやはりバスの中に忘れていて、次に乗った人が見つけて届けてくれたのでしょうか。それなら運転手に託しておいてくれれば簡単だったのに、などと思いました。その係官は、どこで見つかったかまでは聞いていないようでした。
まさかそうすぐ見つかるとは思わなかったため、届けには自宅の電話番号だけで、携帯電話のほうは記入していませんでした。私は基本的に携帯電話はメールだけに使っていて、滅多に通話することが無く、どうしても必要でない限りは携帯番号は記さないことにしています。そのため、係官はまず自宅に電話し、当然ながら留守電であったので、追いかけてきてくれたのでした。徒歩であったらしいことは確認していたので、まず道の駅を覗いてみて、それから馬頭の街に向かう方向へクルマを走らせたとのことです。お手数をかけて恐縮ながら、暇だったのかなあなどとも思いました。もちろん、警察が暇なのは実に結構なことです。
「そんなわけなので、大田原署のほうに連絡してみて下さい。ここからどうやって行けばいいのか、ちょっと私もわかりかねるんですが……」
係官はそう言って帰ってゆきました。
急に目の前が明るくなったようでした。特にマダムの機嫌がいきなり良くなったのは画然たるもので、やはり本当は蜂巣地区に戻りたかったのだろうと推察しました。
道の駅や警察署で時間を食ったので、もう広重美術館に行ってもろくに見る時間は無さそうです。馬頭の街に入ってほどなく、わりと大きなスーパーマーケットがあり、庇がかかっている下にひと休みできるようなスペースがあったので、そこに腰を下ろして、大田原署に電話してみました。
那珂川署からすでに連絡があったようで、話はすぐに通じました。
「いや、あなたの落とされたものかどうか、まだ確実ではないんですがね」
と、大田原署の係官は慎重でした。カメラの外観はほぼ間違いなく私の落としたものと思われましたが、型番を訊かれても旅先のこととて答えられません。中のデータを見れば証明できるはずで、いずれにしろこれから大田原署に出頭する必要がありそうでした。
しかし、さっき那珂川署の人が言った通り、この馬頭から大田原警察署へ行くのはなかなか大変です。クルマならわけはないのですが、公共交通機関のみで動こうとするとえらい手間がかかります。
とにかく、馬頭の街から出てゆくためのバスが実に少ないのでした。西那須野駅へ向かう東野交通バスに乗れれば都合が良いのですが、しばらく来ないようです。それを待っているとほとんど夕方になってしまいそうです。もうひとつはJRの烏山駅へ向かう那珂川町営バスで、これは間もなくこのあたりを通過するはずです。
しかし烏山は大田原とは真逆の方向であり、そこから大田原へ向かうためには、JR烏山線で宝積寺まで行き、東北本線に乗り換えて、前日に通った区間に再乗して西那須野まで行き、そこからまたバスという、大変な大廻りをしなければなりません。
大変ですが、それしか方法が無いので、スーパーマーケットで昼食にする食べ物を仕入れて、その前にあったバス停から町営バスに乗りました。実はもともと乗る予定だったバスでもあります。
計画では、このバスで烏山まで行き、那須烏山市営バスに乗り換えて終点の高部車庫というところまで行き、さらに茨城交通のバスに乗り換えて常陸大宮に出て、JR水郡線そして常磐線で帰るということにしてありました。なお烏山駅まで行ってしまうと那須烏山市営バスに間に合わず、注意深く調べた結果、ちょっと手前の那須南病院というところで下りれば、数分後に乗り継げることが判明し、この綱渡りのような乗り換えがちょっと楽しみに思えていたのでした。県境を越えるのも興味深いところでした。
しかし、こうなった上は仕方がありません。大田原からは、東北本線の駅に出て帰るしかないでしょう。
那珂川町営バスに乗り込むと、運転手がいきなり
「電車に乗りますか」
と訊ねてきました。JR烏山線は非電化なので電車ではなくディーゼルカーなのですが、たぶん烏山線のことを言っているのだろうと思い、
「はい」
と答えました。
「雨でだいぶ遅れてるみたいですよ。不通になるかもしれないねえ。あそこ、すぐ止まるんで」
運転手は不吉なことを言いました。烏山線が止まってしまったりしたら、どうにも動きがとれなくなります。
バスのほうは遅れることもなく順調に走りました。沿道の田んぼはいずれも増水して、あふれかねない様子です。
下りるはずだった那須南病院を通り越して、定時に烏山駅に到着しました。
烏山線も特に遅発することはなく、定時の13時59分に発車しました。ただし、車内アナウンスがあり、
「大雨で地盤がゆるんでいるため、烏山〜宝積寺間は時速35キロに制限されておりますので、到着が遅れることをご容赦下さい」
とのこと。
鉄道で時速35キロといえばだいぶ遅いように思えますが、時刻表を見てみると、この列車が宝積寺に着くのは14時41分となっています。烏山〜宝積寺間の道のりは20.4キロですので、表定速度(停車時間を含めた平均速度)はなんと時速29キロあまりに過ぎません。つまり、駅に停まらなければ、時速35キロで走ればダイヤよりも早く着いてしまうことになります。途中で速度制限がさらに低く抑えられたりしない限り、到着が遅延すると言っても、そんなにひどく遅れることはなさそうだと見当がつきました。乗り継ぎの東北本線の電車が1本あとになる程度でしょう。
ただし烏山線は全線が単線で、途中の大金で列車交換をします。ここで対向列車が大幅に遅れていたりするとどうなるかわかりません。ただ、そんなに極端に遅れていれば、線内での行き違いをやめて先へ進むよう指示が来るはずですので、それもそんなにひどいことにはならないでしょう。
大金駅は路線の中央よりは烏山寄りにありますので、対向列車はこちらよりは少し到着が遅れましたが、それでも想像した通り、10分程度の遅れでした。その後もゆるゆると走りましたが、駅での停車時間を切りつめた結果、宝積寺到着は15分程度の遅れにとどまりました。やはり接続列車が1本遅れただけのことです。
東北本線は遅れることなく運転していました。前日来た道をなぞって、西那須野着15時34分。
前日に乗った黒羽まで行くバスは限られていますが、大田原の市街地まではけっこう頻発しています。200円均一の市営バスが来ないかと思いましたが、残念ながら先に出るのは東野交通のバスでした。大田原警察署に近いと思われる市役所入口まで、270円かかります。ただ着いてみてわかりましたが、この市役所入口のバス停、警察署の真ん前で、その意味では市営バスよりも便利なのでした。
大田原署に入って行って用件を伝えると、すぐに対応してくれました。カメラの型番をまた訊かれましたが、やはり答えようがありません。しかし持ってきてくれたのを見ると明らかに私のカメラで、中の画像に私たちが写っていたことで所有証明ができました。
「どこで拾われたんですかね」
「路上のようですよ」
するとバスの中に忘れたのではなかったようです。係官が私の健康保険証をコピーしに行っている間に、そこに置かれていた拾得届を見ると、佐良土で拾われたことがわかりました。バスを下りたところで落としたのかもしれません。それにしてもすぐに拾って届けてくれる人が居たことに感じ入ります。まあ人のデジタルカメラなど拾っても、それに合った充電器が無ければ電池が無くなり次第ただの箱になりますし、何かカネになるようなデータが入っているわけでもありませんから、交番に届けるしかないかもしれませんが。マダムはネットオークションまでチェックしていたようですけれども、オークションに出すにしても充電器が無いのでは話にならないでしょう。
路上に落ちていたとすれば、もし拾われたとしても時間が経っていれば、降り続く雨で使い物にならなくなっていたかもしれません。ほんの30分足らずで拾われていたのはまったく僥倖だったとしか言いようがありません。もちろん中のデータは健在でした。
拾得者の名前と住所・電話番号を教えてくれました。もちろんそれでお礼をするつもりではありますが、昨今の風潮からして、警察があまり簡単に個人情報を漏らすのはいかがなものでしょうか。つい最近も、無免許の居眠り運転のクルマが子供たちの列に突っ込んで何人も死亡した事故で、加害者の少年の親に、警察が被害者の電話番号などを不用意に教えたというので問題になったことがありましたが、謝意や礼意を伝えるためであってももう少し慎重さが必要ではないかと思います。
もう巡り会えないだろうと思っていたカメラを手にして警察署をあとにしました。日本もすっかり治安が悪くなったと嘆く向きがありますが、こんなことがあると、まだまだ捨てたものではないと感じます。
那須塩原駅行きの市営バスがあったのでそれに乗りました。マダムはこのあと柏の実家に直行する予定で、それだから常磐線で帰る計画を立てていたのですが、それは無理になりました。自宅に帰るのと違って、あまり遅くなるのは考えものです。だから新幹線に乗って帰ることも考えましたが、大雨の影響で停電があったそうで、新幹線もかなり遅れている様子でした。バカ高い特急料金を払うほどのメリットが無さそうなので、結局在来線で帰ることにしました。宇都宮で40分ほど待って快速「ラビット」に乗ると、すぐに鈍行に乗り換えたのとあまり違わない到着時刻になりそうですので、そこで夕食を済ませようと思いました。
ところが、宇都宮の在来線コンコースには、食堂がありません。新幹線コンコースにはいくつも店があるのに、はっきりと差をつけられています。仕方なく、プラットフォームに下りて駅そばを食しました。
ちょうど寝台特急「カシオペア」が入線してきて、各車輌をじっくり眺めることができたのはラッキーでした。家のそばの線路を通るのはしょっちゅう見ますが、車内の様子まで見えることはありません。「カシオペア」には何度か乗ろうとしたことがありますが、いつも多客期のせいか、チケットがとれたためしがありません。シーズンオフに狙うのが良さそうですが、私はともかくマダムが、シーズンオフにはなかなか休みを取れないので、結局まだ乗ったことがないのでした。「カシオペア」は「ペア」のシャレのつもりか二人用個室だけによる編成であって、ひとりで乗るのであってもふたり分の料金が必要となります。いずれ乗ってみたいものです。
駅そばだけでは虫押さえにしかならず、駅弁を買って「ラビット」に乗りました。最近は東北本線も、グリーン車以外はオールロングシートという確率が高く、それだと駅弁を食べるのはいささか憚られます。幸い、先頭の2輌だけボックスシートになっている列車でしたので、そこに陣取りました。宇都宮なんてところから乗って、駅弁すら車内で食べられない電車というのはいかがなものかと思います。
快速「ラビット」は快調に走り出しましたが、小金井に近づいたあたりから急に速度を落としました。大雨の影響で、東北本線にも速度制限がかかってしまったようです。扉上の電光掲示板には、あちこちの遅延・不通情報が流れていました。さっき乗った烏山線はついに止まってしまったようで、代行バスが出ているとのことでした。水戸線や両毛線も運転見合わせをおこなっています。こんなことでは、もし計画通りに旅していたとしても、水郡線なども止まってしまっていたかもしれません。
小山をはさんで、間々田を過ぎるまでノロノロ運転が続き、25分ほどの遅れとなりました。マダムは実家の最寄り駅まで義父にクルマで迎えに来て貰うことになっていたのですが、この遅延のおかげで到着時刻がなかなか決まらず、すでに電池切れになりかけた携帯電話で難儀しながら連絡をとりあっていました。
私は浦和で下りてマダムと別れ、帰宅しました。だいぶ疲れていました。思いもかけない仕儀で後半の計画はおじゃんになり、あたふたと振り回されるようなことになりましたが、最終的にカメラが戻ってきたということで、決して後味の悪くない旅行だったように思えました。
(2012.5.4.)
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