最近、どうも鉄道マニアへの風当たりが強くなっているようです。 しなの鉄道の沿線で、桜の若木が切り倒されるという事件がありました。犯人はまだ確定していないとはいえ、おそらく鉄道マニアが、列車の撮影の邪魔になるというので切ってしまったのだろうと見られています。 同じ頃、鉄道イベントで、撮影を邪魔されたというのでぶち切れたマニアが、子供を抱え上げて、その母親に土下座させたというような話も伝わりました。この2件で、鉄道マニアの傍若無人な振る舞いが多くの人々の批難を浴びるようになりました。 少し前、それらの事件に対するマニアの言い分が週刊誌に載り、さらに火に油を注ぐ状態になっているようです。木が邪魔だという気持ちはよくわかる、自分も雑草を刈り取るくらいならやっている、というのです。雑草を刈り取るなら良いことのようですが、この発言に対し、「だけどヤツらは刈った雑草を片づけもせずにそこらに散らかしてるだけなんだよ」と指摘がありました。 さらに土下座事件に関してはこんな発言がありました。 「撮影する側としては、車両に人が写り込んでほしくないんですよね。しかもその車両を狙うために何時間も前から待ってたのに、一般人がフラッと入ってくる。正直、イラつきますよ。撮影している人の前に入らないというマナーを知らないのかと」
記者が、
「そういったマナーは、“撮り鉄”の仲間うちだけのものだと思うが……」
と水を向けると、さらに激昂したように、
「そもそも、この車両の価値をわかってんのかって思いますよ! どうせ『みんなが撮影してるから私も』ぐらいの意識なんじゃないかな。この際、言わせてもらいますけど、車両の前のスペースは、車両全体をうまく写真に収めるために空けているんですよ。一般人にはそのことを知ってほしい!」
もちろんこんな発言が通用するわけがありません。「何様だ」「なんだこの言いぐさは。鉄道イベントは撮り鉄だけのモンじゃないだろ」「鉄道会社もこんなヤツらは排除しろ」「そこまで言うなら自分で車輌借り切って撮影会でもなんでもやれ」等々、ネットではさんざんに叩かれまくっています。
鉄ちゃんのはしくれとして、どうも肩身が狭い想いです。
ひとことに鉄道マニアと言っても、いろんな流派があり、流派が違うとほとんど没交渉だったりします。
最大勢力は「車輌派」でしょう。世の中の鉄道趣味雑誌のたぐいも、ほとんどはこの派を対象に出版されていると言って良いと思います。
今回問題になっている「撮り鉄」というのは、この車輌派の中のサブグループで、とにかく車輌の写真を撮ることを目的としています。
撮影のために危険な場所や姿勢をとったり、そうでなくともプラットフォームをなんの正当性もなく占領したりと、確かに「撮り鉄」は以前から問題行動が多いと言われています。木を切り倒したり、土下座させたりするところまでエスカレートしたのは珍しいかもしれませんが、うっかり通りかかった人を口汚く罵ったりすることはよくあるようです。
なんだか自分が特権階級になったような気がしてしまうのでしょうか。上記のマニア氏の「一般人」なる言葉の使いかたからも、そんな気配が感じられます。
ところが、そういう「撮り鉄」たちが鉄道そのものにどれだけ寄与しているかというと、実は大したことがなかったりします。撮影場所までクルマで行き来して、全然列車に乗らず、従って鉄道に一銭も落とさないというけしからぬ手合いも少なくない、というかそれが大半であると聞きます。
それで「乗り鉄」と呼ばれる別の派は「撮り鉄」を軽蔑するわけです。これは列車に乗るのが好きで、全国の路線を完乗してみたり、できる限り一筆書きで旅してみたりする一派です。自分たちはしっかり鉄道会社にお金を落とし、鉄道の経営に寄与しているというのが彼らのプライドだったりします。
もっとも、少し前の新聞に、「乗り鉄」をも併せて批難する記事がありました。「乗り鉄」だって言うほど鉄道会社の役には立っていないというのです。確かに、青春18きっぷをはじめとする格安の企画切符などで、いかに安く旅をするか考えるばかりで、むしろ鉄道側から見ると困ったお荷物なのかもしれません。
「模型派」というのは「車輌派」とかぶるかと思うとこれまた別もので、しかもお互い軽蔑しあっているようです。模型派から言わせると、
──自分で動かせもしない車輌のどこが面白いんだ。
ということになりますし、車輌派から言わせると、
──ちまちまとしたミニチュアを動かして喜んでいるなど、そもそも志が低いよ。
ということになるでしょう。この両派は決して相容れないらしいのです。
「運営派」というべき一派も居ます。以前それなりに多かった「時刻表派」が昂じるとそういうことになるかもしれません。時刻表を熟読して愉しむのはもちろんですが、そのうち既成のダイヤに飽き足らなくなって自分でダイヤ改良案を考えたり、新駅や新路線を夢想してみたり、はては沿線施設などまで妄想し始めます。次々と大胆な提言をおこなっている川島令三氏などに憧れる人が多いと思いますが、これにはアンチも多く、夢想タイプの人と現実タイプの人のあいだで罵り合いがはじまることも珍しくありません。私も以前、「走れ、新快速」という文章で、首都圏にも関西圏のようなスピードと設備を備えた「新快速」電車が走らないものか、という願望を書いたところ、現実タイプらしき人から匿名で「見苦しい」というメールを貰ったことがあります。
「蒐集派」というのもあるようで、切符や駅スタンプからはじまって、いろんな鉄道関係のアイテムをコレクションすることをこよなく愛します。これも昂じると窃盗まがいのことをやらかしたりするので、充分な自制心が必要でしょう。
どんな分野のマニアであろうと、あまりに昂じすぎると、それしか見えなくなって一般社会に迷惑をかけることになりかねません。自分のやっていることばかりが、何にも替えがたい価値のあることのように思いはじめて、そのさまたげになることに対して常軌を逸した憎悪を向けるようになってしまっては、反社会的と言われても仕方がないでしょう。上のマニア氏の発言などは、その反社会的になっていること自体がすでに自覚できなくなっている観があり、もはや末期症状と言えるかもしれません。
宮脇俊三氏の鉄道エッセイが、同好の士ばかりでなく広く一般に読まれたのは、文章がわかりやすかったせいだけではありません。長年中央公論社の編集長として、つまり良識ある社会人・大人として生きてきたことで、バランスのとれた物の見かたを身につけていたからこそ、マニアならざる普通の読者にも共感をもって迎えられる文章が書けたのです。
宮脇氏の文章を読むと、内容が少しマニアックなほうに傾いてきた場合、たいてい含羞を込めてブレーキを利かせていることがわかります。マニアなる存在が、普通の人からどんな風に見られるかということを、氏はよくわかっていたのでした。
『旅の終わりは個室寝台車』という連作紀行がありますが、これは宮脇氏が、新潮社の編集者とふたりであちこちを旅する話です。この編集者は阿川弘之氏の担当もしたことがあって、かわいがられたり怒られたりしていたようですが、自他共に認める鉄道マニアの宮脇氏に向かって
「ぼくは、汽車よりクルマが好きだなあ」
などと平然と言ってのける、無神経なんだかシタタカなんだかよくわからないキャラの持ち主です。
読者は、この同行者の無理解に嘆いたりいらついたりする主人公・宮脇氏のボヤキを読んで面白がるわけですが、そのボヤキが面白いのは、氏が、この編集者の見かたこそ「正常」なのだということをちゃんとわかって書いているからなのでした。片足を常に「常識」の側に置き、もう片足がマニアの深みに沈み始めるとすぐにバランスをとるというのが宮脇流というもので、だから読者も安心して読めたのです。
連作が続くうち、この編集者もいつの間にか鉄道好きの道に引き込まれて、時刻表の読みかたなども堂に入ってくるというのが、心憎い構成になっています。同じように、さほど鉄道に興味の無かった読者にも、「ちょっとこの列車に乗ってみようか」と思わせてしまうのが宮脇俊三氏の筆力というものでしょう。
宮脇氏と並び称される鉄道作家に種村直樹氏が居ますが、こういう点ではやはり及ばないというか、「同好の士」向けの文章だな、と思います。それだけに車輌の型式とか線路の規格とかのデータ面では種村氏のほうがはるかに詳しく正確で、「同好の士」からの評価は高くなるわけですが、一般読者からの共感となるとやはり宮脇氏のほうが上でしょう。
マニアであっても、どこかにそれをはずかしがる気持ちというか、「普通の人たちから見ればつまらないことですけれども」というバランス感覚を持ち続けていたいものです。
(2013.3.26.)
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