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高松の植田くんから、2013年6月2日(日)に開催するコンサートでピアノを弾いて貰えまいかと打診があったのは、3月のことでした。 6月というのは、行事が重なることが多い月です。まず板橋のオペラが必ずあって、そのリハーサルなども立て込みます。隔年ですが、コーロ・ステラの定期演奏会も6月に入ることが多くなっています。 今年はコーロ・ステラの演奏会は無いのですが、これが無い年には川口第九を歌う会の自主演奏会があります。何度か書きましたが、この団体はベートーヴェンの「第九」だけでなく、いろんな歌を歌います。今年はヴェルディのレクイエムをやることになっています。 それから今年に関しては、マーラー『嘆きの歌』の初稿版2台ピアノヴァージョンの初演というのも入っています。 あと、JCDA(日本合唱指揮者協会)の主催する合唱フェスティバルというのがあって、Chorus STが出演することも少なくありません。今年も出演するのですが、板橋オペラのゲネプロ日と丸かぶりで、私は残念ながら不参加ということにしてあります。
かように忙しい月で、日曜などはたいてい全部ふさがっているのが常なのですが、なんとも奇跡的に、2日だけは手帳が空白になっていました。これは何かのお導きであろうかと思うところあった私は、すぐ承知したのでした。
植田くんは大学の後輩ですが、私の従妹と結婚しましたので、縁戚でもあります。ふたりとも声楽科の1年であった時から早々に交際をはじめて、7年だか8年だかそのままで、周囲をかなりやきもきさせたものでしたが、1995年の夏にめでたくゴールインして、植田くんの故郷である香川県で暮らしはじめました。
その結婚式の時にふたりで歌いたいからというので、私が依頼されて作曲したのが「静かに訪れて」という二重唱曲です。彼らの結婚式イベントはなかなか大がかりで、まず高松で挙式と第一回披露宴をやり、1週間後に新婦の故郷である札幌で第二回披露宴をやり、さらに1週間後には東京の大学の食堂で第三回披露宴をやり……と、前後3週間がかりに及びました。その都度「静かに訪れて」の演奏もやったので、私は伴奏のために3回全部出席しました。3回とも出席したのは私だけだったと思います。
1回目の高松から2回目の札幌まで、やはり両方に出席した私の家族などはもちろん一旦東京に戻りましたが、私はふらふらと列車を乗り回し、1週間たっぷりかけて移動しました。その時にかつての最長昼行特急「白鳥」(大阪〜青森)に全区間乗り通したという話は、前にも書いた憶えがあります。
指折り数えれば、もう18年前のことで、月日の過ぎゆく速さを嘆ぜざるを得ません。
その後も「静かに訪れて」を3人で合わせる機会は何度かありました。私自身の結婚式の時にも歌って貰いました。
今回も、自分たちで企画した音楽会で、この曲を歌いたいというので、私に打診してきたわけです。他の伴奏者にピアノを弾いて貰ったこともあるようですが、作曲者自身のお出ましというのをひとつの呼び物にしたい意向のようでした。
2日そのものは奇跡的に空いていましたが、その前の1日(土)は普通に仕事があります。ピアノ教室でのレッスンの仕事で、翌週の8日には上記のオペラのゲネプロが入っていて休まざるを得ませんので、休みを連続させるわけにはゆきません。
また3日(月)には、オペラのオケ合わせが入っています。こんな状態だと、飛行機を使ってとんぼ返りをするしかありません。
しかし、いままで何度も書いているとおり、私は飛行機が嫌いで、できることなら乗りたくありません。それにせっかく高松まで行って飛行機で戻ってくるのではつまらな過ぎます。
幸いなことに、3日のオケ合わせには、私が立ち会わなくても特に支障は無さそうな様子でしたので、この日は休みを貰うことにしました。
結局、1日の仕事を終えた後、寝台特急「サンライズ瀬戸」で高松へ向かい、2日の演奏会とその打ち上げに出たあと、泊まらずに、しかし一日かけて帰ってくるという旅程を立てました。「サンライズ」についてはわりとすぐ決め、出かけたついでに手配しました。
帰りはいろいろ迷ったのですが、高松〜神戸間の深夜便のフェリーを見つけ、これを使うことに決めました。神戸に早朝に到着することになります。そのあとは方法もよりどりみどりですので、その話になった時にご説明いたします。
ピアノ教室のレッスンは、生徒がフルに来ると4時間ほどを要しますが、たいていはひとりかふたり抜けることが多くなっています。
しかし、1日に限って、どうしたわけか全員ちゃんとやってきて、フルに労働しなければなりませんでした。
レッスンを終えた後、東川口駅まで歩きます。くたびれている時は、バスを使いたいのですが、ちょうど良い時間の便がありませんでした。
そのまま帰宅すれば20時くらいになるのですが、「サンライズ瀬戸」の東京発時刻は22時00分、家から余裕を見て行こうとすれば21時くらいには出なければなりません。1時間で出たり入ったりでは少々落ち着きません。といって、直行するのでは時間が余ってしまいます。
そこで一計を案じ、赤羽でマダムと待ち合わせて夕食をとることにしました。なぜ赤羽かわかった人はなかなかJRの規則に詳しいと言えます。
高松行きの切符は「東京都区内」発になっています。つまり23区内であればどこから乗っても同じ運賃で、距離計算は東京駅からなされます。赤羽は23区の最北の駅ですので、ここから乗ることにすれば、赤羽〜東京間はタダということになります。これがもし、家の最寄り駅である川口で落ち合ったとしたら、川口〜赤羽間の運賃130円を別に払わなければならなくなります。それで川口ではなく赤羽にしたのでした。
また、マダムは川口〜池袋の定期券を持っているので、赤羽で乗り降りする分には運賃がかかりません。わざわざ出かけるのが億劫というのでなければ、お互い都合がよいわけです。
舞台衣裳などを詰めたキャリーバッグは、教室まで持ち歩くのが大変なので、マダムに赤羽まで持ってきて貰いました。こういうことができるのは、結婚していて良かったと思う点ではあります。
赤羽の京浜東北線乗り場でマダムと別れ、東京駅へ。
「サンライズ」に乗るのは久しぶりです。確か植田くんのお父さんに招かれて小豆島の合唱団の練習を見に行った時が最後だったと思います。一昨年、大國和子さんの追悼演奏会で出雲へ行った時、「サンライズ出雲」をとろうと思ったら、なにぶんゴールデンウィーク真っ最中だったもので、全然空席が無くて断念しました。
「出雲」「瀬戸」の両「サンライズ」は、東京〜岡山間は併結して走り、岡山で分割併合します。
個室主体で、しかも「電車」寝台車である「サンライズ」が登場した時、これは寺本光照さんなどが提唱していた次世代型寝台車だと思い、やがては増備されて全国の主要路線に続々投入されるに違いないと信じたものです。
従来型の開放寝台などは、プライバシーやセキュリティを重視するようになった最近ではもう時代遅れで、高い寝台料金を徴収するに価しないと思います。だから開放寝台は全部「ゴロンとシート」扱いにして寝台料金をとるのはやめるべきだと私は考えています。「あけぼの」などにある「ゴロンとシート」は、指定席特急券だけで乗れる代わりに、寝具のたぐいを一切備えていない開放寝台で、2回ほど乗ったことがありますがまったく不満はありませんでした。どうしても毛布やシーツ、枕や浴衣などが欲しいという客には、有料でそれらを貸し出せば済むことです。寝台料金をとるのならば、現在では最低限個室である必要があるでしょう。
電車の寝台車というのは、いわゆる「月光」型の、昼夜兼行車輌583系という先駆がありましたが、これは昼間も座席車として使おうとして無理に設計したものだけに、いろいろと中途半端で評判が良くありませんでした。それでも、電車はモーター音がうるさくて寝台車には不向きだという先入観を打ち破ったのは大きな功績であったと思います。「サンライズ」はそれに続く電車寝台で、その意味でも次世代型と言えました。電車であればスピードも出せるし、鈍足の客車列車が主体であった寝台列車を、徐々に「サンライズ」型に置き換えてゆくつもりなのだろうと、私はJRのもくろみを推察していたわけです。これが九州夜行などにも投入されれば、「はやぶさ」「富士」などが「有明」や「にちりん」から逃げ切れなくて途中で待避するようなぶざまな姿をさらさなくて済むようになるでしょう。鉄ちゃんとしては、客車列車が消えてゆくのは残念ですが、寝台列車の改革のためにはそれもやむを得ないだろう……と、先回りして納得したりしていたのです。
ところが、「サンライズ」は一向に増備される様子も無く、そのままずるずると寝台列車が廃止される事態に陥ってしまいました。九州夜行は東京発着も関西発着も全滅、東北方面も「あけぼの」を残して全滅、あろうことか「銀河」まで廃止し、いまや定期の寝台列車はこの両「サンライズ」の他はわずかに「北斗星」と「はまなす」だけになってしまいました。
「銀河」が廃止されたのは、聞くところによると、電気機関車の運転士がJR東海から居なくなってしまったため(最後のひとりが定年退職したのでしょう)だそうですが、それなら余計、電車化して残すべきではなかったでしょうか。
割り切れぬ想いを乗せて、「サンライズ瀬戸・出雲」は走りはじめました。
私は通常、1時2時まで起きていることが普通なのですが、車輪の刻む心地よいリズムに誘われて、23時になるまでには寝入ってしまったようです。1時過ぎの浜松で一旦眼が醒め、トイレに行ったりお茶を買ったりして、豊橋を通過するあたりでまた眠りました。あとは5時半頃の姫路まで一度も眼を醒ましませんでした。
その先は起きていたつもりですが、時々意識が遠ざかることもあったようです。岡山からはすっかり眼が醒めました。
高松着7時27分。5年前に来た時に、高松駅の変貌ぶりにびっくりしたのでしたが、要するに昔の高松駅よりも駅が手前に移され、その跡地にシンボルタワーなどが建てられたということであるようです。
9時くらいまで、その辺をうろうろしたり、上厠したり、朝食を食べたりして過ごしました。
会場はミューズホールというところで、植田くんたちの結婚式はそこの式場で挙げられたのでしたが、結婚式場はやめてしまったようで、跡は駐車場になりました。しかし音楽ホールはまだ残っています。
鉄道やバスで行くのは少々不便であるようで、タクシーでも拾うのが有効手段なのですが、正午くらいまでに入れば良いという話だったので、いざとなったら全部歩いても良いくらいの気分で、歩き始めました。小雨模様だったのがうっとうしかったのですけれども……
途中の道を曲がり、商店街のアーケードに入りました。屋根がついているので小雨も気になりません。ひとつには、マダムが「うどんクッキー」なるものを土産に買ってこいというので、それを探したい気持ちもあったのでした。
しかし、日曜の朝9時台とあって、商店街の店はあんまり開いていません。時折、これは、という感じの開いている店を覗きますが、うどんクッキーなるお菓子は見当たりませんでした。
この商店街、おそろしく長いシロモノでした。あとで植田くんに言うと、
「あそこ、長さだけは日本一なんですよ」
と苦笑していました。丸亀町から田町へと名前を変えながら蜿蜒と続き、やがてついにJR高徳線の高架が見えてきました。その先はもう栗林公園です。結局うどんクッキーは見つかりませんでした。
周辺地図を持っていたわけではないのですが、なんとなく方向を定めて歩いていると、やがて会場のミューズホールに着いてしまいました。まだ10時半くらいですが、距離は6キロ以上歩いた計算になりそうです。携帯電話についている万歩計を見たら、まさにそのくらいで、すでに1万歩をかなり過ぎていました。
音楽会は、まず植田夫妻の弟子の発表会、それから従妹のミニリサイタルで、このパートの最後に「静かに訪れて」を歌います。それで終わりではなく、最後に植田くんが教えている高松西高校の合唱部のミニステージがあります。かなり長時間を要する構成でした。関わる人数も多いのですが、控室が少なくて、私は第1部の生徒さんたちと同じ大部屋で待機することになりました。女性が着替える際にはその都度外へ出ていなくてはなりません。
プログラムを見たら、植田夫妻の長男と次男も出演するようなので驚きました。長男は歌を歌い、次男は2人ほどの伴奏をするようです。上は高1、下は中3で、もうそんなになるかと感嘆しきりでしたが、まあ考えてみると夫妻の結婚式がもう18年前です。もうひとり小5の三男が居るのですが、彼はまだ舞台に乗るには早いということのようです。
開演しばらく前に、マダムからメールが届きました。マダムは植田夫人である私の従妹の弟──つまり私の従弟ですが──とミクシィ友達で、ちょくちょく通信をやりあっているのですが、その従弟からの情報として、両親──すなわち私の伯父伯母ですね──が朝から高松に向かったという話を伝えてきました。札幌からはるばる、孫と娘の舞台を観に足を運んだようです。札幌から高松の直通便というのは昔はあったのですが、いまは廃止されてしまったため、羽田で乗り換えての大移動だったのでした。
マダムからの情報のおかげで、開演前に客席へ行き、伯父たちに挨拶することができました。ついでに子供たちの演奏と、もう何人か聴いてから控室に戻りました。なかなか達者に歌ったり弾いたりしていました。
肝心の「静かに訪れて」ですが、よりによって本番でちょっとした事故がありました。プリンターで打ち出した譜面を糊づけして製本し、それを使っていたのですが、前々日に製本したばかりであったのが悪かったか、その時に限って──つまりリハーサルではなんともなかったのに──、ページをめくろうとしたら2枚いっしょにめくれてしまったのです。あわてて1枚戻そうとしたら、またもや2枚いっしょに戻ってしまいました。そんなに手の空いている箇所ではなく、かなり音が抜けてしまったのでした。
その場の仕儀としてどうしようもないことではありましたが、私の落ち度に違いはありません。聴いていた人にはあんまりわからなかったかもしれませんけれども、私個人として少々面目を失った気分でした。歌のほうは手慣れたもので、
「相当長い曲なのに、ほとんど憶えてるものだね」
と従妹は言っていました。
ラストステージの合唱は相当にレベルの高い合唱部で、何しろ人数が多いのがうらやましい限りでした。無伴奏の曲でも無調の曲でも危なげなく仕上げていて、植田くんの指導よろしきを得た成果でしょうが、合唱団固有の実力もかなりのものだと思います。曲数は少なかったものの、聴きごたえのあるステージだったのではないでしょうか。
(2013.6.3.)
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