忘れ得ぬことどもII

鬱病あれこれ

 「私、いまちょっと鬱病なんで」
 とわりと気軽に言う人が、最近増えているような気がします。
 私が中学や高校くらいの保健の授業で習った頃には、なんだかもっと由々しい病気として扱われていたと思います。いわゆる神経症(ノイローゼ)とはまったく違って、れっきとした精神病ということになっていました。罹病していることなど、そう簡単にカミングアウトできるものではなかったはずです。精神分裂病(現在は統合失調症と呼ぶのでしょうか)、躁鬱病、それにテンカンが「三大精神病」とされており、どぎつい言葉を使えばつまりは気違いなのです。
 亡くなった北杜夫氏が、40歳頃に躁鬱病を発病して、それをすぐさまカミングアウトし、自分の病状をユーモラスに書き綴っていたのはよく知られています。北杜夫氏自身が本職の精神科医であったため、普通の人よりはずっと客観的に自分の病態を観察することができたのでしょう。彼の芥川賞受賞作『夜と霧の隅で』は、精神病者に対する差別や偏見を痛烈に告発する内容の小説だったことを考えると、自分の病気のありかたをユーモアたっぷりに綴ることで、世の人々に対し、精神病は決して恐れたり遠ざけたりすべきものではないということを訴えたかったに違いありません。本当は血のほとばしるような決断だったと思うのです。
 北氏の狙いは当たりました。当たりすぎたと言っても良いかもしれません。どくとるマンボウの楽しい読み物を通して、人々は笑いながら、躁鬱病という病気に親しみを感じてゆき、その結果わりと簡単に
 「いまちょっと鬱病なんで」
 というような言葉が出るようになったと考えられます。そう聞かされたほうも、あまり気味悪さを感じるようなこともなく、
 「あ〜、それは大変ですね」
 と軽く応じられるようになりました。
 ただ、こう気軽に言う人が増えてくると、ちょっと待ってくれと言いたくなります。

 もちろん、深刻な病状を抱えて本当に苦しんでいる患者さんもたくさん居るわけで、そういうかたがたに対して申し上げるべき言葉はありません。ただ、由々しき病気の名前が、なんだか気軽に使われすぎているのではないかと思う次第です。
 そういうことを言う資格が私にあるのかどうかを、一応弁明しておきます。
 小中学生時代に北氏の本を愛読したせいもあって、私も躁鬱病に関してはわりに早い時期から関心を持っていました。
 中学2年くらいから、私は非常にふさぎ込むことが多くなりました。普通の子供だと反抗期になる年代ですが、私はそれが内攻したようで、特に親などに反抗することは無かった代わり、とにかく自分という存在が無意味に感じられて仕方がなくなりました。
 ある時は自分は周囲に害悪をのみまき散らす存在だと思いました。またある時は、害悪をまき散らすというほどの意味合いも持たない、居ても居なくても同じ存在なのだと信じました。
 世の中の良くないことはすべて自分に責任があるように感じましたし、また振り返ってみれば、そんなたいそうな責任をひっかぶろうとはなんとおれは僭越で傲慢な人間なのだろうかと悩みました。
 考えれば考えるほどドツボにはまってゆく感じで、出口の無い迷路にどんどんひきずりこまれてゆく気のする毎日でした。
 ごくたまに、異様にテンションが高くなることがあり、まわりの級友たちが気味悪げに見ているのを感じながら、自分が抑えられないこともありました。
 当時の知識からして、そういう自分が躁鬱病なのではないかと思ったのは、まあ自然ななりゆきだったような気がします。
 当然、この病気のことを知ろうと思って、北杜夫氏の作品以外でも調べてみました。調べれば調べるほど、症状が自分にぴったりあてはまっているように思えてなりませんでした。
 今よりずっと躁鬱病というものが重く考えられていた時代です。

 こういう状態が3年あまり続いて、高校2年くらいの時に、回復したという実感を覚えました。志望の進路がほぼ決まったせいもあるかもしれません。
 あとから考えれば、躁鬱病というほどのものではなく、思春期性の抑鬱症状であったのだろうと思います。高校3年の時の卒業文集を読んでみると、私が中学生の時に思い悩んでいたのと同じようなことを書いている級友が少なからず居たので驚きました。つまりは多くの青少年が通り過ぎる道であって、ただ私は他の連中より2、3年早くその道に迷いこんでしまったために、周囲に同感してくれる者も無く、孤独感がつのって深刻な状態が長引いたということだったようです。
 そういうわけで今では自分が躁鬱病だなどとは考えていませんが、一応はそれに類似した症状を経験し、いろいろと本も読んでみたということで、とりあえずは無責任な放言ということにはならないだろうということを申し上げておきます。

 どうも最近は、以前ならノイローゼと診断された症状にも、片端から鬱病という病名をつけているような気がしてしまうのです。本来、このふたつはまったく異なるものだったはずなのですが、今は境界線がはっきりとしません。そもそもノイローゼという言葉を聞くことが稀になりました。少なくとも30年前におけるノイローゼという語感で、鬱病という言葉が使われている感触があります。
 もちろん私は精神科医ではありませんし、最新の精神医学事情も知りませんから、そのあたりはっきりしたことは言えないのですが、意地悪く見ると、医者のほうもやや迎合して診断を下しているような印象が無いでもないのです。
 「いや〜、これは鬱病じゃないね。ただのノイローゼだよ」
 と医者に言われた場合に、気を悪くする患者がけっこう居そうです。
 「あっ、病気ではなかったんだ。良かった良かった」
 と胸を撫で下ろすよりは、
 「この先生はヤブだ。おれがこんなに苦しんでいるのに、ちっともわかっちゃいないんだ」
 と思うケースが多いのではないでしょうか。そういう人は、他の医者に診てもらいにゆくでしょう。何軒か回ったあげくに、
 「鬱病ですね」
 と診断されると、ようやく安心する、なんてことがいかにもありそうです。精神病というものがレントゲン写真などで判断のつくものではないだけに(最近は肉体上にも特徴的な病変が顕れるらしいという説もあるようですが)、医者の判断に納得しないという患者が出てくるのも無理はありません。
 医者のほうも、ヤブだなどと言いふらされてはかないませんから、境界的な症状であっても広く解釈して診断を下すようになり、ついにはかつてのノイローゼまで全部ひっくるめて鬱病ということにしてしまったのではないか……と疑いたくなります。
 本来なら、
 「鬱病ですね」
 などと診断されればけっこうショックなはずなのですが、鬱病という語感が軽くなって、深刻さが薄れてきたため、むしろ安心してしまうという妙なことになっています。これは確かに、北杜夫氏の功績がかなりあると思うのですが、ただ北氏は繰り返し、鬱病とノイローゼは違うということも明言しており、半分しか読んでいないような人が多かったのではないかとも思えます。狙いが当たりすぎたというのは、そういうことなのです。

 特にそのことを思ったのは、少し前に「他罰性」の新型鬱病なるものが報じられた時のことです。
 上記の私の類似症状にもありましたが、鬱病のもっとも顕著な特性は「自責性」にあったはずです。つまり、全部自分が悪いのだと感じてしまう点です。
 よく鬱病の人の扱いかたとして、
 「『頑張って』と励ますのは御法度」
 と言われます。励まされると、

 ──ああ、この人がこんなに言ってくれているのに、ちっとも元気になれずに迷惑をかけているおれは本当にダメなヤツだ……

 と余計に落ち込んでしまうわけです。ちなみに、
 「こっちのことは気にせず、ゆっくり休んでくれよ」
 と慰めるのもNGだそうで、それは

 ──ああ、やっぱりおれは必要とされていなかったんだ。そりゃそうだよなあ、おれはこんなにダメなヤツなんだから……

 とさらに自責してしまうからです。じゃあなんと言ってやればいいんだ、と困る人が多いことでしょう。実はあたりさわりのない、テレビ番組や趣味などの話題がいちばん良さそうです。
 ともあれ、はてしなく自分を責め、ドツボにはまってゆくのが鬱病だったはずなのが、「他罰性」とはなんということでしょうか。
 他罰性というのは字面でわかる通り、「他人が悪い」と思ってしまう性癖です。自分が不調なのは学校のせい、会社のせい、イヤミな課長のせい、ごますり上手な同僚のせい、と全部他人のせいにしてしまいます。
 この「新型鬱病」は、例えば会社や学校などから離れればすぐさま症状がひっこんでしまうというのも特徴だそうです。要するに、休暇をとって海外旅行にでも行けば、誰が見ても心を病んでいるなどとは思えない様子で、思いっきり愉しんでいるとか。
 こんな「症状」を「鬱病」の名で呼ぶのは、医者のほうも羞しくはないかと思います。一般社会ではこういう「症状」は「ワガママ」「自己中」と呼びます。ただもちろん、会社や学校や人づきあいのストレスから身体的な疾患が出てくることは実際にありますが、そういうのには古くから「心身症(ヒステリー)という病名が与えられており、事新しく「新型鬱病」などと言う必要があるのでしょうか。
 鬱病は周囲の人間関係などとは無関係に発症するというのが古典的な病理解釈です。また、「自分の好きなことでも愉しめない」というのも鬱病の典型的症状のひとつでした。この「新型鬱病」はそのどちらにも当てはまりません。
 もちろんこれを「鬱病」のカテゴリーに含める根拠は何かあるのでしょうが、納得のゆかない人が多いだろうと思います。

 精神病に対する偏見を減らそうとした北杜夫氏の意図は、躁鬱病に関する限りは達成されたと見て良さそうですが、ちょっと安直になりすぎたのではないかと思いたくなります。
 また、実は大切なところが抜け落ちているような気がします。鬱病に対して昨今見られるような気軽さが、たとえば統合失調症などに対しても見られるかというと、そうはなっていないようです。精神分裂病、あるいは統合失調症は、まだまだ怖いという意識が一般に強いと感じられます。実は北氏の文章には、精神分裂病に関しての啓蒙もしばしば見られるのですが、なんと言っても躁鬱病の描写が面白すぎ、分量が圧倒的に多いこともあって、見逃されていることが多いのではないでしょうか。
 「私、統合失調気味でして」
 という言葉が、
 「ちょっと鬱でして」
 と同じだけの気軽さを持っていない以上、北氏の努力にもかかわらず、精神病に対する偏見はまだまだ残っていると言わざるを得ませんし、鬱病ばかりが妙にポピュラーになってしまったことのいびつさも思わざるを得ません。

 繰り返しますが、古典的な意味での鬱病に苦しんでいる患者さんは今でも少なからず居られ、そのかたがたに対しては衷心より快癒をお祈り申し上げます。投薬やカウンセリングなどによって、少しでも症状が軽くなればと願わずにはいられません。
 また、最近の拡張された意味での鬱病であっても、本人の感じているつらさを揶揄するつもりはありません。昔の呼び名であるノイローゼ、もしくはもっと前の神経衰弱にしたところで、本人は本当に苦しみ悩んでいるものです。彼らが「鬱病」と診断されることである種の安心感を得られるのであれば、鬱病という言葉を拡張することにも、いちがいに批難はできません。
 ただ、本来はやはり決して軽く考えるべきでなく、統合失調症やテンカンと並ぶ由々しさのある病気であることだけは、理解しておく必要があると思うのです。

(2012.2.15.)

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