忘れ得ぬことどもII

はるけきマヤ文明

 マヤ文明の遺跡から、月や惑星の周期を計算した暦が発見されたそうです。USAのボストン大学のチームがグアテマラ北部の遺跡にあった壁画から見つけたとか。
 マヤ文明のカレンダーというと、今年2012年世界が終末を迎えるという論を耳にしたことのある人も多いのではないでしょうか。今まで見つかっていた暦は樹皮紙に書かれたもので、13〜14世紀の遺品でしたが、そこに書かれたサイクルを元に計算してみると、2012年の12月で世界が終わると解釈できなくもなかったとのことです。
 この手の終末論というのは、周期的に盛り上がるようです。ノストラダムスの予言による1999年終末説が有名でしたが、その前にもファーティマ第三の予言による1983年終末説というのもありました。1983年というと私が高校を卒業した年ですが、このファーティマ説で騒いでいた友人に、
 「どうも世界は終わりそうもないねえ」
 と言ったところ、
 「いや、今年から終末に向かうということなんだ」
 と言い張っていました。向かうと言っても時間というのは一方向ですから、ある時点から急に終末に向かうというのも変な話で、向かっているのならずっと前からそうでしょう。

 ファーティマ説はあんまり世の中に喧伝されませんでしたが、ノストラダムス説は五島勉氏の熱心な布教もあって、とりわけ日本ではたいていの人が知っていたと思います。あれだけ煽っていた五島氏が、2000年以降読者に謝ったという話は聞きませんし、お先棒を担いでいたような少年マガジン「MMR」も、2000年を迎えた途端に姿を消して知らん顔を決め込んでいるようです。
 少し調べた人ならとうにわかっていたことですが、ノストラダムスは西暦3600年代までの予言をおこなったと自分で前文に書いており、そもそも1999年に世界が亡びるなどとはひと言も言っていません。しかし、五島氏その他の献身的な(?)布教活動と、1999といういかにも何事かありそうな数字があいまって、すっかり有名になってしまったのでした。
 今回あらたに見つかったマヤ暦では、西暦にすると7000年くらいまでの天体の動きを計算していたようで、マヤの人々が2012年で世界が終わるなどとは少しも考えていなかったことが明らかになりました。

 マヤ文明というのはどこか謎めいていて、人々のロマンや深読みを誘うところがありますが、よく言われる超古代文明とかそういったものではありません。おおむね16世紀(日本で言えば戦国時代)、末流であれば17世紀末まで存続していたわけですから、中世文明と呼ぶべきでしょう。
 マヤ文明を謎めいたものにしてしまったのは、ディエゴ・デ・ランダなるフランシスコ会の宣教師ただひとりの責任です。マヤの文献資料はかなり大量にあったはずなのに、この男が

 ──これらは、悪魔が原住民を混乱させ、キリスト教を拒否させるために書いたものである。

 とほざいて、そのほとんどを灰にしてしまったのでした。始皇帝といえども、そこまでの焚書はおこなわなかったであろうと思われるほどの徹底した弾圧で、おかげでマヤの文献といえば石に刻まれたり壁画として描かれたものだけになってしまい、いまもってその文字は30パーセントくらいしか解読されていません。ディエゴが居なかったら、マヤ文明は別に「謎の」という形容詞を冠せられるほどの存在にはなっていなかったでしょう。
 ちなみにこのディエゴは、原住民虐待の罪に問われて本国に召還され、裁判にかけられます。そのとき弁明のために書いたのが「ユカタン事物記」という書物で、これがあるおかげで中央アメリカの15〜16世紀頃の様子がよくわかり、そのためディエゴは「功罪相半ばする」という評価を受けることが多いようです。とんでもない話で、もし日本に来た宣教師が万葉集から源氏物語からすべて焼き尽くし、その代わりにフロイス「日本史」みたいな書物を一冊残しただけだったとしたら、功罪相半ばなどとはとても言えたものではないはずです。マヤは少なくとも2千年は続いてきた文明ですから、その人文遺産は相当なものがあったと見て良く、それらを一挙に灰にしてしまったディエゴのような人物こそ、火あぶりに処せられて然るべきだったでしょう。
 科学技術の面から言うと、マヤ人はインド人とは無関係にゼロを発見していたことが知られています。ゼロを発見したということは、かなり高度な数学が研究されていたことになります。
 天体観測もかなり精密におこなっていました。ただ、どうしたわけか地球が球体であることには気づいていなかったと言われます。そのため、観測が精緻なわりには予測が不充分で、日蝕や月蝕の予知はあまりできていなかったそうです。今回見つかった暦でも、日蝕の予測は外れていることが多かったとか。
 都市整備には独特の技術を発揮しました。私はマヤ最大の遺跡と言われるティカルに行ったことがありましたが、そこは石灰岩やセメントを用いて何層にも作られた人工地盤上に建造された都市です。最大拡張時には約120平方キロ(世田谷区大田区を併せたくらいの広さ)に8〜9万人が暮らしていたと言われ、同時代の世界を見渡してもかなりの大都市と言って良さそうです。
 ただし、ティカルには不思議なことも多く、最大の疑問は、水場らしきものが都市内に無かったらしいことです。石灰岩を切り出した跡を使って溜め池を作り、雨水を溜めていたそうですが、何万という人口を養うには少なすぎる気がしますし、雨期ならともかく乾期にはたちまち底をついてしまったのではないでしょうか。いちばん近い水源はペテン・イツァ湖で、ティカルからは20キロ近く離れており、そこから水を汲もうとすれば、往復するだけで一日仕事になってしまったでしょう。
 現在グアテマラという国の都市はほとんどが高原に設置されています。首都グアテマラシティからして標高1500メートルという、上高地並みの高さにあり、逆に標高200メートルより下にはろくな街がありません。太平洋メキシコ湾という大きな海に面しているというのに、大きな港町も無ければ海辺の観光都市も無いのです。高原のほうが、蒸し暑さも無く、害虫なども少なく、過ごしやすいだろうということは理解できますが、だとするとティカルのような王都が高原に営まれなかった理由がわからなくなります。ティカルがあるのは低標高の密林地帯であり、現在はペテン県という、グアテマラの中でももっとも未開発で人口密度の低い領域に属しています。日本で言えば北海道みたいな土地ですが、ペテン県一県だけでグアテマラ全体の3分の1の面積を占めていますので、北海道と東北地方を併せたくらいの割合と言えます。マヤ人たちは、なぜこんな条件の悪い土地に王都を営んだのでしょうか。
 条件の良い土地はすでに他の民族に抑えられていたとも思えますし、昔の気候が今とは劇的に違っていたということも考えられます。あるいは他民族からの攻められにくさという防衛的思考を第一にして密林の中に都を作ったのかもしれません。文献が残っていれば、もしかしたらティカルに都を営むことを決めた時の王様の詔勅みたいなものがあったかもしれず、そうでなくとも伝説くらいは記録されていたと思われ、つくづくディエゴの焚書を呪いたくなります。

 北のアステカや南のインカと違い、マヤはついに大帝国を築けずに終わりました。ティカルは王都のひとつではありましたが、王──というより大名──はたぶん他に何人も居たことでしょう。それらを統一して帝国を作るほどの英雄、アステカのモクテスマ一世、インカのマンコ・カパックのような人物は誕生しなかったようです。最盛期である4世紀〜8世紀頃には、「優越王」と称する何人かの有力者(ティカル王もそのひとり)がそれぞれに群小部族を従え、覇権を競ったこともあるようですが、競争者をすべて打倒して上御一人となるだけの軍事力と器量を備えた君主は、結局現れなかったのでした。
 しかし、強力な帝国というのは、中央軍が破られるとたちまち瓦解します。アステカもインカも、スペインの軍隊にコロッと倒されてしまいました。インカ帝国など、皇帝その人が人質になるという屈辱的な状況を経てあっさりと亡ぼされてしまいましたが、マヤは帝国を作っていなかったがために、僻地ではけっこう遅くまで命脈を保ちました。マヤの都市国家として最後まで残ったタヤサルが陥落したのは、なんと1697年、スペイン人がこの地の侵略を始めてから200年以上経ってからのことでした。日本で言えば元禄時代です。
 マヤ文明は亡びましたが、マヤ人はグアテマラその他にまだたくさん居ます。混血が進み、もはやマヤ文字も読めないし、マヤ語も一部が語り伝えられているだけでしょうが、民族自体が絶滅に瀕しているというわけではありません。
 独特の象形文字であるマヤ文字は、たぶんせいぜい貴族までのものであって、庶民には使われていなかったのでしょう。ディエゴ・デ・ランダなどという一個人の狂奔でそのほとんどすべてを焼き尽くせたというのは、書物のある場所がごく限られていたことを意味します。だから、やがて文字体系そのものが忘れ去られてしまったのです。
 マヤ人は文字を失いましたが、極彩色の織物などの民芸文化は健在です。民族衣裳などに使われる色とりどりの織物は、「グアテマラ・レインボー」とも呼ばれ、わが国でも缶コーヒーの意匠でよく知られています。厳密に見ると、23ある部族ごとに色の使いかたなどが少しずつ違い、わかる人が見ればどこの部族の製品であるかが一発でわかるそうです。
 大変きれいなので、グアテマラやベリーズなどを旅した人はつい上着(ウイピルと言います)など買い求めたくなるのですが、帰国すると後悔します。極彩色過ぎて、日本で着て歩くと精神状態を疑われること請け合いなのです。Chorus STで行った時には、みんなで帯だけ買って帰り、帰国後の演奏会で着用しました。まあ舞台衣裳としてくらいしか使い道は無さそうです。

 先日、ちょっと必要があって、「シェラフの月」「チチカステナンゴ」の譜面を見直す機会がありました。「シェラフの月」はグアテマラの第二の国歌とも呼ばれる歌で、国民的ミュージシャンだったパコ・ペレスの作品です。私がグアテマラ訪問の際に合唱編曲し、現在では向こうでもそれが合唱用のスタンダードになっているようです。「チチカステナンゴ」も同じくパコ・ペレスの作品ですが、フェリペ・オルテガ氏による合唱編曲をChorus STでも歌いました。それをさらに私が女声合唱用にアレンジしています。
 2つの曲の歌詞を見ると、「シェラフの月」は、「黒髪の娘(una morena)」に振られた男の哀歌であり、「チチカステナンゴ」は「すごくいかしたインディオ娘(Indita requetebonita)」に夢中な男の子の歌になっています。どうも、どちらもマヤの少女を思わせます。作者のペレスがマヤ娘好きだっただけかもしれませんが、それらが流行歌になっているということは、マヤの女の子というのは現地の若者にとってはけっこう「美少女」を意味する存在なのであろうと想像されます。
 マヤ暦新発見のニュースと、グアテマラの歌の譜面を再見したことが重なったもので、とりとめなくマヤ文明について考えてみました。

(2012.5.12.)

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