この前、男の名前について書いたので、今日は女の名前についても考えてみたいと思います。
と言っても、今どきの女性名ということになると、もう百花繚乱というか百鬼夜行というか、なんでもアリな感じで、とても手に負えません。考えてみたいのは歴史上の女性名です。 ところが、歴史上の女性の名前というのは、あんまりわからなかったりします。古い系図類などを見ても、「誰某女」みたいな書かれかたをしていることが多く、当人の名前が書いてあることはそう多くありません。ちなみにこの「女」は「むすめ」と読みます。ここに挙げられた誰某の娘、息女、ということです。 上代では、女性が家族以外に名前を明かすのは、結婚する相手だけだったようです。雄略天皇が野で見かけた若い娘に一目惚れして、 「そなたの名前を教えてたもらんか」
と訊ねたことが古事記に出てきますが、これは求婚にほかなりません。 「わしの後宮に入るが良いぞ」
ということです。この感覚は、けっこう後代に至るまで続いていました。
古事記や日本書紀には、いろいろ長たらしい女性名がいろいろ出てきますが、それがそのまま生前の呼ばれかたであったとは思われません。例えば神功皇后はオキナガタラシヒメとかオオタラシヒメとかいう名前だったことになっていますが、これは歿後につけられた名前で、息子の応神天皇をホムタワケ(のみこと)と呼ぶのと同様、諡号(しごう=おくりな)というものです。誤解を恐れずに四捨五入すれば、いまで言う戒名みたいなものです。
推古天皇になると豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)というのが諡号で、これとは別に額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)という名前があり、こちらは生前用いていたようですが、だからと言って周囲の人に「ヌカタベさん」と呼ばれていたわけではないでしょう。男性の名乗り(実名)みたいなもので、せいぜい儀式の時くらいにしか使わなかったのではないでしょうか。それでは幼い頃に大人たちからなんと呼ばれていたか、ごく親しい人からなんと呼ばれていたか、それはわからないとしか言いようがありません。
もう少し下って、藤原鎌足にこんな歌があります。
われはもや安見子得たり 皆人の得がてにすといふ 安見子得たり
この中の「安見子(やすみこ)」というのは評判の美女の名前で、誰もがモノにできなかった安見子を、このおれが手に入れたんだぞ! という感激きわまった凱歌です。なんのヒネリも無い無邪気な述懐で、策士と呼ばれた鎌足にしては単純すぎるようですが、それだけに万葉調らしいストレートな喜びが伝わってきます。
この「安見子」はまさに「そう呼ばれていた」女性名でしょう。本名かどうかはわかりませんが、とにかく周囲の人々からこの名前で呼ばれていたのは確かだと思います。おそらく、女性の呼び名が判明しているもっとも早い例のひとつではないかと思います。その前に、上記の、雄略天皇に名前を訊かれた「赤猪子(あかいこ)」という女性が居ますが、これはむしろ記紀が書かれた時代(鎌足よりもう少し後)に名付けられた可能性が高いような気がします。
藤原家草創の頃から、その周囲に女性名がだんだん浮かび上がってきます。鎌足の息子の不比等の妻は三千代(みちよ)です。橘(たちばな)三千代、県犬養(あがたいぬかい)の三千代などいろいろ言われますが、姓のほうはあまり気にしなくてよろしい。これなどもおそらく本当にそう呼ばれていたに違いありません。
また不比等の娘が、文武天皇と聖武天皇のそれぞれお后になっています。文武天皇の夫人になったのが宮子(みやこ)、そして聖武天皇のほうが安宿(あすかべ)と言います。「あすかべ」はもしかすると「あすか」だったかもしれません。皇族以外ではじめて皇后位に就いた光明皇后その人です。「みやこ」「あすか(べ)」もどうやら呼び名らしく思えます。しかも「みちよ」と並べて、いずれもかなりモダンな印象の名前であることに驚かされます。
平安時代に入ると、上流貴族の女性の名前はちょくちょく書物に顕れるようになってきます。そのほとんどは「○子」という形で書かれています。現代にまで通じる「子つきの女性名」が隆盛を誇ることになるわけです。
もともと「子(し)」というのは古代中国で男性に対する尊称でした。「先生」「大人(たいじん)」というほどのニュアンスで、老子、孔子、墨子、孟子、韓非子など全部そうです。稀に子のつく女性も書物に見えますが(論語に出てくる「南子」など)、これは実は「子姓の女性」という意味で、宋(平清盛が貿易をした宋ではなく、春秋戦国時代の宋。「宋襄の仁」などの成語で有名ですね)など「子」という姓を持つ国や家の出身の女性、ということです。尊称としての「子」は、その当時は男性に限られました。
これが日本にも持ち込まれました。ただし「子」という文字には、子供をあらわす「こ」という訓読みが与えられました。ひとたび「こ」と読んでしまうと、日本語のニュアンスとしては「小(こ)」に通じ、「かわいらしい」「いとおしい」というイメージがついてしまったものと思われます。それでもっぱら女性名に使われるようになったのでしょう。推古天皇の伯父であった蘇我馬子、遣隋使になった小野妹子なんかは、珍しい男性名で、この時代はまだ「子」の使いかたがはっきり決まっていなかったことが想像されます。
「子つきの女性名」は平安時代にはたくさん出てきますが、有名なのは、清少納言が仕えた定子、紫式部が仕えた彰子、保元の乱の遠因ともなった待賢門院こと璋子、平清盛の奥さんの時子、その娘である建礼門院こと徳子といったところでしょうか。
いま挙げた中で、時子さんだけは必ず「ときこ」と訓読みされますが、他は普通音読みされています。テイシ、ショウシ、トクシという言いかたをされることが多いですね。徳子さんはなぜか音訓折衷で「とくこ」とされることもあります。
実は、この時代の女性名は、本当は全部訓読みだったようです。だから、清少納言が定子のことを「テイシさま」などと呼んだことは絶対にありません。まあそれ以前に、身分の高い人の名前を下の者が呼ぶなんてことはあり得ないわけですが。
ただ、男の名乗り系の名前と同様、訓読みの名前というのはある意味「なんでもアリ」なところがあって、本当はどう読んでいたのか、わかったものではありません。例えば「明子」という名前はよく使われますが、読みかたはアキコであったり、アキラコであったり、アキラケイコだったりして、とてもどれかに決めるというわけにはゆかないようです。
定子はたぶんサダコであったでしょうし、彰子はアキコ、璋子はタマコ、徳子はノリコであった可能性が高いですが、それを定説とするにはやや根拠が弱いというところでしょう。仕方なく、音読みしてごまかしているわけです。時子がそうなっていないのは、ジシというのはいくらなんでも変だし、おそらく他に読みようが無いからでしょう。
ところで「藤原千子」という名前がどこかに出ているそうなのですが、これは訓読みだとどうなるでしょうね。「ふじわらのちーこ」だったんではないか、という説を読んだことがありますが……
「子つき」はしかし上流貴族、公家の姫君に限られます。中流貴族以下の女性名がどうであったかは依然としてわかりません。早い話が、清少納言も紫式部も、本名は全然わからないのです。清少納言は少納言の役職にあった清原ナニガシの娘だからそう呼ばれており、紫式部は「紫の上の話(つまり源氏物語)を書いた、式部省の役人の娘」という意味であって、少なくとも源氏物語を書き終えるまではそんな呼ばれかたはされていませんでした。
平時子については、同じ平氏でも清盛の武家平氏とは違う系統の「公家平氏」という家系であり、それだから「子」がついていても良かったのです。
小野小町の「小町」となると、もしかすると下級官人ないし庶民の名前であったかもしれないという気もしますが、確証はありません。
「子つき」はその後、公家の姫君の名前としてはずっと用いられ続けました。現在でも皇室の女性の名前は必ず「子」をつける決まりになっているようです。明治になってから、庶民の女でも「子」をつけるようになりましたが、それでもしばらくは、畏れ多いというので戸籍名にはつけず、通称として「子つき」にすることが多かったようです。
私は亡くなった祖母の名前をずっと「郁子」だとばかり思っていたのですが、晩年病院に入った時の名札を見たところ、カタカナの「イク」が正しかったのでした。明治も終わり頃の生まれの人でしたが、まだ本名を「子つき」にする度胸は(祖母の親には)なかったようです。
驚いたことに、今でも上流のかたがたの中には、一種の尊称として女性名に「子」をつける習慣が残っているらしいのでした。友人の水島恵美さんが、わりとそういうお上品な老婦人たちとのつき合いがあるのですが、よく「えみ子さん」と呼ばれるそうです。その人々の感覚では、「子」をつけて呼ぶのが敬意を表すことになるようで、それを知った時には私はのけぞりそうになりました。
こう考えてくると、北條政子の「政子」なんかも「尊称としての子つき」だったのではないかと思います。北條氏は頼朝が天下を取るまではもちろん貴族でもなんでもなく、官人でもなく、ほとんど庶民に近いくらいの一族でしたから、娘の名前に「子」がついていたとは信じられません。実際には単に「まさ」という名前だったんではないでしょうか。一説にはそれも怪しくて、北條時政の娘だから、親父の名前の一文字をとって「政」と言っただけという説もあります。
これに対し、日野富子のほうはれっきとした公家の姫君でしたから、たぶん富子は本名でしょう。
戦国時代になると、女性が署名した手紙などもだいぶ残っておりますので、女性名はかなりわかるようになります。織田信長の妹の市(いち)、その娘である浅井三姉妹のちゃちゃとはつ(三女の名前だけは諸説があるようですが)、前田利家の奥さんのまつ、細川ガラシヤことたま、春日局の本名ふく等々……
豊臣秀吉の奥さんはたぶんねねですが、一時期「おね」とされることが多かったようです。ただしこの「お」は「お市」「おまつ」の「お」と一緒で、ただの接頭辞ですから、これだと名前の本体は「ね」だけになってしまいます。ひらがな一文字の名前というのはさすがに無かったのではないでしょうか。「おね」の根拠は、手紙の署名に「寧」とだけ記されていたからであるようで、他の「ねね」さん(武田信玄の娘にも居ました)の場合はたいてい「寧ヽ」とチョンをつけているというわけです。しかし、名前の一文字だけをイニシャルのように書いておくというのも珍しいことではなく、世にも珍しい一文字名前の根拠とするには弱いようです。ただし「ねい」説もあります。
信長の娘で、徳川家康の長男信康の夫人になった人が居ます。この人の名前は「徳姫」もしくは「五徳」ということになっていますが、実はこの「徳」は、単に「徳川家に嫁に行った」というだけの意味しかありません。「五」というのは手紙の署名にあったようです。上記の、イニシャル風に一文字だけ書くという流儀ですね。だから五という文字が含まれる名前であったのは確かですが、そんな女性名を想像できるでしょうか。伊達政宗の長女が五郎八と書いていろはと読んだそうですから、そんなところだったかもしれません。
江戸時代になると、時代劇その他で女性名のイメージも湧きやすいと思います。
私の家系について書いた時に参照した系図を見ると、わかる範囲での女性名も書かれていますので、江戸時代後期の女性名がどんなものだったか、ある程度想像することができます。
富(とみ)、岸(きし)、やを、などと言ったいかにも江戸時代っぽい名前もたくさん出ていますが、沙奈(さな)、由加(ゆか)、それに上記エントリーにも名前の出た野枝(のえ)など、けっこう近代的な感じの名前も散見されます。また江戸時代だと女性はみんな「お○○さん」みたいな呼ばれかたをしていたように思ってしまいますが、例えば由加や野枝あたりには「お」はつけづらいようです。普通にゆかさん、のえさんと呼ばれていたのでしょう。
かな書きの名前も多いのですが、手紙を書いたりする時には何か適当な漢字を用いたかもしれません。私の祖母イクが、郁子と署名したのと同様ですが、こういう時に用いる漢字は特に決まっていなかったようです。男性名、特に名乗りは、漢字が決まっていて読みかたがアバウトだったりしましたが、女性名のほうは逆に、発音は決まっていて漢字はアバウトだったりしたのでした。明治生まれくらいまでの人だと、いろんな漢字で署名しているのでどれが本当かわからず、本人に訊いてもはっきりせず、戸籍名がわかってみるとひらがなだったりカタカナだったり、というケースがそう珍しくなかったとのことです。
男の名前にせよ女の名前にせよ、文字や読みかたが一意的に決まったというのは、たかだかここ百年足らずの話だったようです。
名前はもちろん大事なものですが、こうして見ると、ちょっとした読み違えとかにあまり目くじらを立てるのもいかがなものかと思う次第です。
どうしても読み違えられるのを防ぎたいのであれば、わかりやすい、他に読みようのない名前をつけるしかありません。芥川龍之介はよくタツノスケと呼ばれて立腹していたので、自分の息子たちには比呂志、多加志、也寸志と万葉仮名で名前をつけました。とても読めない名前を子供につけておいて、読み間違われると怒る親などは、モンスターペアレントとしか言いようがなさそうですね。
(2012.6.19.)
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