忘れ得ぬことどもII

蜘蛛の話

 さっき外出しようとしたところ、玄関の扉の内側に蜘蛛の巣が張られているのに気がつきました。
 家の中に蜘蛛の巣が張っているというのもいささか外聞が悪いような気がしますし、払いのけようとしたのですが、ふと見ると細かい黒点のようなものが浮かんでいます。よく見てみたら、小さな羽虫でした。
 夏になると、この小さな羽虫(たぶんショウジョウバエ)が家の中を飛んでかないません。何度も書いているとおり、私の家は古いマンションの1階ですので、注意しないと虫がどんどん飛び込んできます。ベランダと台所に虫除けネットというのを吊り下げると、かなりの効き目はあるようですが、それでも完全にシャットアウトというわけにはゆきません。パソコンに向かっていて、モニターの前を黒い点がすーっと飛んでいくのを見るとまったくイライラします。手で叩こうとしても、滅多に当たることはありません。
 ショウジョウバエという虫は特に人間に害をもたらすことはないらしいのですが、飛んでいるととにかくいらつくという点で、典型的な不快害虫というやつですね。
 マダムがまた神経質で、目の前を飛ぶとその都度大騒ぎします。わめき散らした揚げ句になんだか虫が飛んでいるのが私のせいみたいなことまで言い出すので閉口です。
 普通の殺虫剤と上記の虫除けネット、それに小バエ捕獲器まで装備しています。この捕獲器、中に誘引ゼリーが入っていて、「止まり木効果」のある尖端部に小バエが止まると中に誘導され、ゼリーに吸着されて出られなくなるというものなのですが、最初の頃6、7匹つかまえたっきりさっぱり中の小バエが増えません。そう安いものでもないので、えらくコストパフォーマンスが悪い気がします。
 玄関隅の、ごく小さな蜘蛛の巣にかかってお陀仏している小バエの数は、その捕獲器よりずっと多いようでした。
 それを見て、蜘蛛の巣をはたき落とすのはやめておこうかという気になりました。あまり安からぬ捕獲器よりもたくさん小バエをとらえてくれるのであれば、むしろありがたい存在です。少し離れたところには蚊も一匹ひっかかっていました。
 当方が通行するところに蜘蛛の巣があれば払い落とさざるを得ませんが、扉と天井との間の目立たないところに張ってあるばかりですし、共存しても構わないと思います。

 家の中で、巣を張らない蜘蛛も時々見かけます。たぶんハエトリグモという種類でしょう。白黒の筋がついていて、ぴょんぴょん跳びはねます。
 これもなるべく叩き殺したりしないようにしています。居て貰っては困る場所に居た時だけ、軽く払いのけますが、別の場所に落ちてまた元気に歩き出します。この蜘蛛は、ダニを食べてくれるので、人間にとっては大いに益になる虫です。ただこの蜘蛛が多いということは、餌となるダニも多いということになるので、あまり自慢にはなりませんが……
 小バエも餌にするそうです。蜘蛛は飛べませんから、飛行中の小バエには手も足も出ませんが、着地したところを巧みにとらえるそうです。そうと聞いてはますます珍重したくなります。
 もっと大型のアシダカグモになると、あの素早いゴキブリを簡単につかまえて食べてしまうそうです。家の中に2、3匹のアシダカグモが居れば、半年でその家からゴキブリは絶滅するとさえ言いますから、ぜひ居て貰いたいものですが、脚を伸ばすとCD1枚分くらいの大きさになる巨大な蜘蛛なので、あいにくと彼ら自体が不快害虫とされてしまうことも少なくないようです。

 蜘蛛はなんとなく毒を持っているようなイメージが強くて、怖がる人も居ますが、毒蜘蛛というのはごくごく少ないようです。有名なタランチュラさえ、大した毒性はありません。大体、咬まれたらタランテラ舞曲を踊ってひと汗かけば治ると言い伝えられる程度ですから、怖れるほどのことはないわけです。そもそも、人間の皮膚を貫けるほどの顎を持っている蜘蛛は、かなりの大型種に限られます。
 人間を死傷させるほどの毒蜘蛛は、ゴケグモ類がほとんどでしょう。カマキリ同様、交尾の後にメスがオスを食べてしまうので「後家(未亡人)蜘蛛」というわけですが、毒性が強くて死亡率が高く、咬まれた男の奥さんはもれなく未亡人になるところから……という俗説もあるほどです。有名なのは北アメリカなどに多いクロゴケグモブラック・ウィドウ)で、「黒衣の未亡人」ともとれる名前のインパクトも、名高さに一役買っていそうです。なおアイザック・アシモフのショートミステリーシリーズ「黒後家蜘蛛の会」の原題は「ブラック・ウィドワーズ」で実際には「黒衣の男やもめたち」という意味になります。メスに食べられることなく断乎生き延びようという決意をこめて名付けられた、と作中で説明されています。
 日本にはゴケグモ類はほとんど棲息していません。ただ船や飛行機に乗って若干上陸することはあるようで、何度か発見はされているようですが、繁殖しているとは思えません。ゴケグモ類はたいてい、金属光沢のある黒いボディに派手な赤い紋様が入っていますので、わりと見分けやすいはずです。派手な赤黒カラーなのはおそらく警戒色でしょう。
 在来種の毒蜘蛛はコマチグモ類が主なもので、特に大型のカバキコマチグモは時々咬害が伝えられます。この蜘蛛は、メスがオスを食べるのではなく、子供が母親を食べてしまうことで知られています。産卵したあと、メスは卵が孵化するまで守り続けるのですが、だいたい孵化する頃に力尽きて死んでしまいます。子供たちは母親の肉を最初のタンパク源として摂取するわけです。こういう、文字通り身も心も捧げ尽くしてしまうほどに母性愛が強いため、巣に近づく者には果敢に咬みつきにきますので用心が必要です。なお、巣はいわゆる蜘蛛の巣ではなくて、地面に穴を掘って糸で袋状の巣を作るというものです。
 カバキコマチグモも、鮮やかなオレンジ色の警戒色をしていますので、見つけたらそっとしておいてやるのがよろしいでしょう。基本的に、蜘蛛は積極的に餌以外のものに咬みつくことはありません。
 ゴケグモでもコマチグモでも、血清療法が有効ですので、現代では手当てが遅れない限りは死ぬほどのことはありません。ただし、蜂に刺された時と同じく、アナフィラキシーショック(急性アレルギー反応)を惹き起こすことはあるので、その点だけは要注意です。

 水族館でタカアシガニなどが水槽の底を歩いているのを見ると、これは巨大な蜘蛛ではないかと感じてしまいます。
 カニなどの甲殻類とクモ類とは、同じ節足動物ではあるものの少し違ったグループに属しているようですが、それとはまた別のグループである昆虫類に属するイナゴなんてのは川エビに似たような味ですので、蜘蛛も食べられないことはないような気がしてきます。
 昔「ザ・シェフ」というマンガで、蜘蛛を生で食べるとチョコレートのような味がする、という話が出ていました。私も信じてしまいましたが、他の読者もだいぶ信じたようで、「蜘蛛はチョコレート味」というのはちょっとした都市伝説みたいになっていたようです。
 奇特な人はどこにも居るもので、実際に食べてみた人が居るそうです。どうもチョコレート味というのは嘘だという結論に至ったようですが、それなら「ザ・シェフ」の作者がどこからその情報を仕入れたのだろうかと気になります。また、チョコレート味でないのならどんな味であったのか、その肝心のところがはっきりしません。いずれにしろ、陸生の虫を生で食べるのは、バクテリアや寄生虫などが心配ですので、普通の胃袋の持ち主にはお勧めできません。
 タランチュラを日常的に食べる地域はあるらしく、エビ・カニっぽい味であることは確かなようです。テレビの旅番組で食べたタレントも居り、胴体の部分はカニ味噌みたいだったと証言していたとか。たぶんその他の蜘蛛も似たようなものではないかと思います。ただし、相当に大型でないと、食べる部分はほとんどなさそうです。将来食糧不足になっても、各地で蜘蛛を常食にするということはあまり無いのではないでしょうか。そもそもさほど増産できそうにありません。

 地味な虫ではありますが、調べだすといろいろ面白そうです。生物学者の中でも、蜘蛛の魅力に取り憑かれて、そればかり専門に調べている人がかなり多数居るらしい。日本蜘蛛学会という学会の加盟者はおよそ300名だそうです。ちなみに、この日本蜘蛛学会の前身である東亜蜘蛛学会というのが、世界初の蜘蛛学の学会だったとか。けっこう女性研究者も多いらしいのが驚きです。
 蜘蛛の糸は単位断面積あたりの強度が非常に強く(ひっぱり強度は鋼鉄の約半分に達する)、繊維界の目標のひとつになっていますし、その糸によって張られる巣の幾何学的な美しさ、成分の違う縦糸と横糸を出し分ける妙技(縦糸は粘着力が無く、蜘蛛自身は必ずその上を歩きます。横糸は粘着力が強く、ここで獲物をつかまえます)など、不思議なことがたくさんあります。糸は出しても、上述のコマチグモみたいに袋状に織り上げてその中に住むという種類もありますし、実に興味深いですね。
 家の中に蜘蛛の巣があるなどというと、なんだか廃屋めいた不潔なイメージを持たれてしまいそうですが、日常生活に支障がない程度であれば、一緒に住まわせてあげても良いのではないでしょうか。
 ……そういう私は、かつて「蜘蛛の告白」なるモノドラマを書いたことがあります。ギリシャ神話に出てくるアラクネという、蜘蛛に変えられてしまった女の子の独白という内容の物語で、そのために余計、蜘蛛に対してはなんとなく親しい気持ちを感じてしまうのかもしれません。

(2012.8.16.)

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