忘れ得ぬことどもII

マーラー『嘆きの歌』初稿版の編曲

初稿版の編曲

 マーラー『嘆きの歌』を2台ピアノ用に編曲中であることを書いたのは2011の2月頃であり、初合わせの記事をその12月に書き、初演した話は2012年8月に書きましたが、実はまだ話が終わっていません。昨日ようやく、第一部の編曲が終わりました。
 これまでの記事を読んでくださったかたには、「ははあなるほど」と思って頂けそうですが、いきなりここを読んだかたはわけがわかりませんね。かいつまんでもう一度ご説明いたします。
 去年編曲し、今年の8月に初演を終えたのは、1899年改訂版と呼ばれるものです。これはマーラーが40歳近くなって作成し、実際に自分が指揮をしていたオーケストラで初演をおこなった形で、編成はソプラノ・アルト・テノールの独唱3人、混声合唱、3管オーケストラというものでした。全体は特にタイトルをつけない2つの部分から成っており、演奏時間は約40分です。
 ところがここに、1880年初稿版なるものが存在します。
 マーラーが20歳の時に作曲し、ベートーヴェン賞というコンクールに出して玉砕したシロモノです。編成は11人の独唱者と混声合唱、3管オーケストラであり、全体は「森のメルヘン」「吟遊詩人」「婚礼の場面」と名付けられた3つの部分から成っています。演奏時間は約70分です。

 つまり、マーラーは20歳の時に作曲して結局陽の目を見なかったこの大カンタータを、19年後に大幅に改作して音にしたわけです。そして、音にしたのはこの時一度きりでした。若い頃の鬱念のようなものを、いちど音にすることで解消しておきたかったのかもしれません。
 改作した部分を整理すると、次のようになります。

 ★3部分だったものを2部分にした。つまり、30分くらいを要する第一部「森のメルヘン」をまるごとカットし、「吟遊詩人」「婚礼の場面」だけを活かして、なおかつタイトルを削除した。

 ★声楽編成を減量し、独唱者を大幅に減らした。この結果、テキストに対するスタンスが変わって、オペラのような「配役」だったものが「朗読」に近いものになった。

 あと細かいオーケストレーションの直しなどもありますが、これは専門家以外にはさほど意味が無いのでここには記しません。
 マーラーは若い頃に書いたものをつらつら眺めて、やはり冗長であるし編成が重すぎると感じたのでしょう。この時期、すでに彼は交響曲を3つ仕上げ、第4番の作曲に取り掛かっています。もはや落選して悲嘆に暮れるペーペーの若造ではなく、指揮者としても作曲家としても脂の乗った頃です。その眼で見ると、このまま舞台に乗せるわけにはゆかないと思ったのではないでしょうか。
 それで思い切ってスリムアップした改訂版を作成したわけです。
 マーラーがこれを決定稿としている以上、それ以上とやかく言うべきものではありません。
 ところが、マーラーの死後しばらく経って、初稿版が発見されました。義理の甥の手許にあったものが世に出たのだそうです。
 これとても、研究者以外にはそれほど意味のない発見であったはずなのですが、マーラーには熱狂的なファンが多く、試験的におこなわれたこの初稿版の演奏も、妙にもてはやされるようになってしまいました。
 そして今や、改訂版を用いる場合でも、初稿版から「森のメルヘン」だけ持ってきてくっつけるというようなやりかたが珍しくなくなっています。

 作曲家としては、それってどうなの、と言いたくなります。
 「森のメルヘン」は、成熟した作曲家である39歳のマーラーの眼から見て不合格であったからこそ削除されたのであるはずです。

 ──ああ、こんなんじゃベートーヴェン賞に落ちたのも無理はなかったかもしれないな。

 と納得したかどうか、そこまではわかりませんが、とにかく「森のメルヘン」を含む全曲を演奏する価値を認めなかったのは確かです。そして、ただ一度しか演奏しなかったというのも、そう何度も再演するには及ばないと思ったからでしょう。
 が、マーラーファンとしては、そうは考えたくないのかもしれません。
 ベートーヴェン賞に落ちたのは、20歳のマーラーの作品が冗長だったり未熟だったりしたせいではなく、あまりに斬新であったためブラームスその他の保守的な審査員に理解されなかったのだ……そう考えたほうが気分が良いに違いありません。
 最終稿で「森のメルヘン」をまるまるカットしたのは、後年の厳しい眼で見て不合格となったからではなく、演奏時間や演奏者の問題でやむなく涙を呑んで削除したのだ……これもこう考えたほうがなんとなく救いを感じるのでしょう。ファンにとっては、マーラーが(いくら若い頃であっても)駄作を書くなどとは信じたくないに決まっています。
 私はマーラーファンというわけではありませんが、チンピラ作曲家とはいえ一応同業者であり、かなり長いこと『嘆きの歌』のスコアとにらめっこを続けた立場から言わせて貰えば、上記のようなファン解釈は、いささかひいきの引き倒しの気配があります。
 また仮にファン解釈が正しかったとしても、マーラー自身が決定稿としたものに余計なものをくっつけて良い理由にはなりません。

 ──「森のメルヘン」は仕方なく削除されたものだ。だからそれを補ってやるのがマーラーの真意をより活かす方法なのだ。

 などと考えるのだとしたら、それは少々傲慢というものではないかと思います。

 私はそう思っているのですが、趨勢としては「森のメルヘン」を含めた演奏のほうが主流となりつつあるようです。ひとつには、それを含めた70分の演奏であれば、前座をほとんど用意しなくて済むという興業上のメリットもありそうです。
 「森のメルヘン」はそういうこととして、続く「吟遊詩人」と「婚礼の場面」をどうするかについては、改訂版をつなげるか、こちらも初稿版を用いるかのふたつの立場があります。若書きの初稿版で全曲やられては、泉下のマーラーも化けて出たくなりそうですが、これはこれでそれなりに人気のある演奏方法であるようです。改訂版をつなげると、オーケストラの楽器や独唱者などで、第二部以降で用が無くなってしまうものがいくつも出て来て、もったいないというかバランスが悪いという事情もあります。
 ともあれ、『嘆きの歌』はいまだに「どう演奏すべきか」がはっきりとは決まっていない作品なのでした。
 マーラーの声楽作品全曲演奏というシリーズをやってきたハートフェルトコンサートで、最後を飾る『嘆きの歌』だけ2回公演ということになったのも、そのせいでした。
 というよりも、指揮者の海老原光さんが非常にこだわりを持っていたのでした。企画側は、改訂版でも初稿版でも良いからどちらかに決めて1回で済ませたかったらしいのですが、マエストロがぜひ両方のヴァージョンでやってみたいと希望したそうです。
 それで、今年の8月に、まず改訂版の形で2台ピアノ用編曲版を発表したのでした。
 そして、来年の6月には、初稿版の形でやはり2台ピアノ用編曲版を初演します。
 とっくに初演を済ませたはずなのに、昨日ようやく第一部の編曲が仕上がったという、なんだか因果関係が逆転しているみたいに見える状況は、そういう事情によるのでした。

 編曲にあたって、私はまず改訂版のフルスコアを精査し、その後初稿版をつぶさに眺めたわけですが、やはり「森のメルヘン」には「練りの足りなさ」を感じました。ブラームスを保守反動の悪役に仕立てて済む問題とは思えません。
 大胆な転調とか、ほとんど複調と呼べるほどの音の重ねかたは、確かに後年のマーラーの交響曲の先駆を為していると言っても良いかもしれません。しかし、それがいかにも唐突で、あんまり深い考え無しに重ねたに過ぎないのではないかという印象をたびたび受けました。
 そして、その大胆な転調が先にあってその上に旋律を乗せているために、歌がしばしば無茶な動きをしています。いかにも歌いづらそうです。マーラーは歌曲でも有名ですが、20歳といえばすでに最初の歌曲集を完成させているにもかかわらず、『嘆きの歌』ではすこぶる非声楽的なところが目立ちます。
 オーケストレーションもやはりだいぶ粗く、例えば少し専門的な話になりますが、倚音(いおん)という一種の非和声音を、その解決すべき和声音と同時に鳴らすという少々無神経なことを平気でやっています。これは私にも憶えのあることで、若い頃はわりと無造作にやってしまっていました。音色が違うから大丈夫だろう、などと考えるのですが、たいていの場合はやっぱりあんまり大丈夫ではありません。ましてや今回はピアノの音色しかありませんから、そのまま引き写すと響きの悪さがバレバレになってしまいます。
 それから作曲上の問題としては、いくつかのモティーフが執拗に登場するのは一向に構わないにしろ、その登場の仕方がなんともワンパターンです。これも専門的な言いかたをするならば、モティーフの展開が不充分であるということになります。そして、不充分な展開のまま30分も続けた日には、退屈するに決まっています。
 もちろん良い点もたくさんあるのですが、あえて審査員的な眼で欠点をあげつらってみました。私が言いたいのは、こういう欠点にブラームスが気づかなかったはずはないという点です。特に最後のモティーフ展開の弱さに関しては、ブラームス自身がモティーフ展開に非常な努力を払った作曲家であるだけに、許し難い気がしたろうということも予想がつきます。
 ついでに言うならば、マーラーはこのあと、ブラームスとは違うタイプのモティーフ展開方法を編み出します。ブラームスはあくまで古典的な、ソナタ形式とか変奏曲という範疇での展開を重んじましたが、マーラーはヴァーグナーの影響を受けた結果、モティーフをオペラの登場人物のように用いる手法をとりました。いわゆるライトモティーフの考えかたを交響曲に応用したわけです。そのため、マーラーの交響曲をソナタ形式などの概念で分析することはきわめて困難になっています。
 しかし、『嘆きの歌』初稿版でのマーラーは、まだその境地には達していません。あまり料理されないままの素材が繰り返し登場するばかりです。
 ブラームスは普通に思われているほどガチガチの保守反動的な人物だったわけではなく、けっこう茶目っ気もありましたし、芸術上の敵と思われていたヴァーグナーからもわりといろいろ学び取っています。晩年の作品には明らかにヴァーグナー的と思える和声の使い方が見られます。ブラームスを旗頭として担いでいた評論家のハンスリックがガチガチだったので、ブラームス自身も救いがたい古典至上主義者みたいに思われがちですが、決して前衛や新傾向を理解できなかった人ではありません。彼がマーラー青年の作品を落選させたのは、その斬新さを理解しなかったからではないように私には思えるのですが、どんなものでしょうか。

 ともあれこの長大な第一部を、なんとか2台ピアノで弾けるようにアレンジし終えました。弾いて面白いかどうかはわかりません。
 第二部・第三部も、初稿版に基づいてリアレンジする必要があるのですが、声楽部分はだいぶ違うにせよ、オーケストラをピアノに移すにあたっては、改訂版のほうとそれほど大きく差をつけなくても良さそうな気がします。まずひと山越えたというところです。

(2012.11.30.)

初稿版の編曲終わる

  マーラー『嘆きの歌』初稿版の編曲作業がようやく終わりました。前に、第1部の編曲が済んだことを書きましたが、残りの第2部と第3部は、夏に演奏した改訂版の元になったものであり、大雑把に言って大差はないので、もう少し後でも良いだろうとたかをくくっていました。しかしプロデューサーから、演奏者にせっつかれていると泣きつかれ、今月中ということで確約してしまったのでした。
 着手する前は、わりと甘く見ていたように思います。20歳くらいの時に書いた初稿版と、40近くなって書き直した改訂版とでは、歌の扱いがだいぶ変わっているということは予備知識としてあったので、声楽部分に関しては大きく直さなければならないだろうとは考えていました。しかし、オーケストラの部分に関しては、オーケストレイションは変わっているだろうけれども、2台ピアノ用に編曲した場合、そういう変化はさほど目立たないと思われ、実際にはほとんど書き直す必要はないのではないかと期待していたのでした。

 ところが、実際に作業にとりかかってみると、けっこう地味に違うところがあり、ピアノ編曲とはいえそのままにはしておけない箇所が次から次へと出てきました。たとえばある音を8分音符で書くか、4分音符にスタカートをつけて書くかというようなことなのですが、実際に演奏したものを聴いた場合、それほどの差は無さそうです。しかし、ピアニストの受ける印象は明らかに違っており、極端なことを言えば弾きかたを変えなければならなかったりしますので、やはり8分音符のままにしておくのは、ちょっと職業的良心がとがめるところがあるのでした。
 同じような形ながらリズムが異なっているところもありましたし、音符の長さが倍に引き延ばされている──と言うより、時系列を考えると、半分に縮められていると考えるべきでしょうが──箇所もありました。音符は倍ですが、テンポも倍の設定であるため、実際に聴いた時にはこれまた同じように聞こえます。しかし小節数などが異なってくるので、これもしっかり書き直さなくてはなりません。
 もちろん最初から覚悟していた声楽パートの書き直しもあります。メロディーは同じでも歌詞が違っていたり、歌う人が違っているということもありました。初稿版では子供ふたりを含む8〜11人のソリストが必要なところを、改訂版では3人に絞ってありますから、歌う人が違うというのは当然起こりうることでした。なお、「8〜11人」とあいまいな書きかたをしたのは、元のスコアを見ると、例えば「アルトソロ」とだけ書いてあるパートと、「アルトソロ1」「アルトソロ2」と書いてあるパートがあり、無印ソロが番号付きソロを兼ねれば8人、兼ねなければ11人ということです。
 そんなこんなで、まったく手を加えなくて良い部分というのはむしろ少なかったようです。結局、予想より遅れて、2週間ばかりかかってしまいました。
 それにしても、作業期間は飛び飛びとはいえ、2年以上『嘆きの歌』とつきあってきたことになります。この日誌で最初に『嘆きの歌』の編曲作業について書いたのは2011年の2月のことで、その時すでに着手してしばらく経っていた感じですから、丸2年は過ぎているでしょう。確か、その年の6月頃に改訂版の編曲が終了し、一旦解放されました。初稿版を別に作るという話は、それまでに出ていたのだったか、改訂版を作り終えたあとのことだったか……ともあれ演奏形態のことでプロデューサーと指揮者のあいだにひと悶着あったのち、とりあえず改訂版を先に演奏してしまうことになったわけです。初合わせがあったのは11年の年末でした。
 そして去年の8月末に改訂版の演奏があり、このたび初稿版の編曲が終了したのです。ちなみに初稿版の演奏は6月末の予定です。

 初稿版のスコアと改訂版のスコアをじっくり見較べるという機会を(否応なしに)得たわけですが、やはり改訂版のほうがはるかに洗練され、完成度の高いオーケストレイションになっていることを感じずにはいられませんでした。
 上にも書いた、8分音符と、スタカート付きの4分音符の違いというのは、大したことはないように思えるかもしれませんが、スタカートというのは単に「音を切って」ということに過ぎず、切りかたを明示しているものではありません。これを8分音符に改めた場合、音の長さのことだけではなく、そのあとに置かれる8分休符が実は大きな意味を持ちます。40歳近くなったマーラーは、その意味をきちんと認識しており、若い頃の、言ってみれば粗雑な書き方を改めているのでした。実はこの点、私自身が経験を積むに従って実感したところでもありますので、この偉大な先人の「成長」を見て、すっかり嬉しくなってしまいました。
 私は改訂版のほうを先に熟読したために、あとで初稿版のスコアを見た時に、余計にその未熟さを体感してしまったかもしれません。どう考えても雑なのです。あまり必然性の無いところでいろんな楽器を鳴らし過ぎている一方で、本当に欲しいフレーズが意外と薄い響きにしかなっていなかったりします。
 声楽の扱いも同様でした。初稿版が8〜12人のソリストを要したと言っても、3人に絞られた改訂版に較べて、特に密度が濃いわけでもありません。ありていに言えば、3人で充分なことを8〜12人にやらせているわけですから、ソリストひとりひとりの役割はきわめて薄くなっています。なんだか、このために多人数のソリストを揃えてギャラを払うのがあほらしくなるような状態です。たぶん6月の演奏でも、半分くらいは合唱団(合唱団といえどもプロの歌い手です)からソリストを出すことになると思われます。
 そのくせボーイソプラノやボーイアルトには、だいぶ酷なことをさせていますし、合唱パートの音域なども首をかしげたくなる箇所が多々ありました。
 私は日誌でも何度か書いてきましたが、この初稿版がベートーヴェン賞に落選したのが、

 ──作品が前衛的すぎて、ブラームスなどの保守的な審査員に理解されなかった。

 という理由であるとは、いよいよ思えなくなってきています。単純に出来が悪かったからと考えたほうが妥当ではないかと思えます。
 いや、20歳の若者の書いたものとしては、もちろん頑張っていると言えますけれども、難点を挙げようとすればいくらでも見つかることも事実であり、このスコアを見てこの作曲者が天才であると判断するのは、相当な想像力の飛躍が必要でしょう。
 これも何度も書いていることですが、オーケストレイションというのは一種の職人技であって、いかな天才作曲家であろうとも、場数を踏まなければそうそう身につくものではありません。ショパンピアノ協奏曲などにおけるオーケストラの使いかたの稚拙さはよく指摘されますが、これもせいぜい20歳前後の作品であったことを考えれば無理もないものがあります。ベートーヴェンですら、初期のオーケストラ作品にはさほど天才のきらめきのようなものは感じられず、注目に価するのは中期にあたる交響曲第3番あたりからだと思えば、オーケストレイションという技術がどういう性質のものであるか、よくわかることでしょう。
 後年の交響曲では魔術的なほどのオーケストレイション能力を見せたマーラーですが、それは指揮者としてオーケストラの実地を知り尽くしたからこそ培われた才能でした。20歳のマーラーには、まだそんな経験の裏打ちはありません。ブラームスなどから見ると、ずいぶんとアラが目立ったに違いありません。
 不出来だったなどと言うとマーラーファンが承知しないかもしれませんので、言いかたを変えると、たぶんそのコンクールの時は、『嘆きの歌』よりもっと良い(良く見える)出品作があったのでしょう。それは後世に残らなかったかもしれませんが、『嘆きの歌』とて作曲者が20年近くあとに大改訂して世に出したから残ったまでのことで、そうでなければとっくに散逸していた可能性が高いのではないでしょうか。

 「あの時落選していなかったら、ぼくの人生は違ったものになっていただろう」
 マーラーは後年そんなことを語ったと言われます。だいぶ根に持っている感じですが、確かにあれだけの大作をボツにされては、凹んでも無理はありません。ただ、この言葉は単なる恨み言ではないような気もします。
 ベートーヴェン賞を受賞していれば、彼には作曲家として洋々たる道がひらけたことでしょう。若くして専門の作曲家として活躍することになったはずで、そうなると指揮者兼任などということはしなかったかもしれません。指揮者として経験を積まなければ、おそらくあの、「巨人」「復活」から「千人の交響曲」「大地の歌」に至る堂々たる交響曲群も、ずいぶん違った形になっていたはずです。と言うより、それらの輝かしい成果はついに得られなかったかもしれません。そう考えれば、「あの時落選したのが、結果的には良かった」というポジティブな意味合いに受け取っても構わないのではありますまいか。
 指揮者として活躍しつつ、交響曲を次々に発表しながら、若き日の痛恨事とも言うべき『嘆きの歌』のことが、マーラーにはずっと、のどに刺さった魚の小骨のように気にかかっていたのでしょう。折りを見てはちょくちょくいじっていましたが、1899年に至って、ついに第1部をばっさり切り落とし、ソリストも厳選し、オーケストレイションを全面的に改めた形で徹底的に書き直し、自分の率いるオーケストラで演奏しました。
 マーラーはそれっきり、この作品を二度と演奏することがありませんでした。いちど音にできたことで気が済んだというか、ルサンチマンを解消したような気分だったのかもしれません。

(2013.1.28.)

初稿版2台ピアノ用初演

 2013年6月21日マーラー『嘆きの歌』初稿による2台ピアノ版の初演がありました。
 ずいぶんと長いことこの曲とつき合ってきましたが、まあその集大成と言って良いでしょう。
 最初にこれについて書いたのは、2011年2月だったと思います。その時点で、「かなり前から打診されていた」と書いていますから、『嘆きの歌』を2台ピアノ用に編曲するという話は、もう3年以上前から持ち上がっていたことになります。それがようやく動き始めたのが、その年の年明けくらいからでした。
 最初に私が受け取ったのは、1899年改訂版と呼ばれるヴァージョンのスコアでした。ともかく着手しましたが、途中板橋オペラの編曲などもはさまったため、仕上げたのは6月か7月のことであったように記憶しています。
 ところが、演奏の形態について、プロデューサーの境新一さんと、指揮者の海老原光さんとのあいだでなかなか意見がまとまらなかったようで、私の編曲した2台ピアノ用の譜面は、しばらく宙に浮いた形になってしまったのでした。
 そのもめごとというのは、もう何度も書きましたが、1880年に書かれた初稿版と、この19年後の改訂版をどのように扱うかという問題です。
 何度も書いてきましたが、もういちどおさらいしてみると、マーラーは1880年、20歳の時に『嘆きの歌』という厖大なカンタータを書き、ベートーヴェン賞というコンクールに出品しました。6台のハープを伴う3管編成の大オーケストラ(さらにバンダ=舞台裏の合奏も加わっている)、10〜14人の独唱(これについては私は触れるたびに違う数字を挙げていたような気がしますが、最終的に数えたらこういう人数になりました。うちふたりはボーイソプラノとボーイアルトです)、混声合唱というきわめて大規模な編成を持ち、演奏時間約70分、3つの大きな楽章からなる力作です。まあほんとに力作だと思います。この全曲を編曲した私が言うのだから間違いはありません。
 しかし、残念ながらこの作品はコンクールで落選してしまいます。青年マーラーは大ショックを受け、失意にうち沈み、とりあえず作曲家への道を中断し、指揮者としての勉強をはじめることにします。
 あとあとまで

 ──あの時受賞していたら、ぼくの人生は違ったものになっていただろう。

 と繰り返していたそうですから、相当な落胆であったのは確かでしょう。
 マーラー信者は、マーラーが「コンクールに落選するような駄作」を書いたとは当然認めたくありません。それで、この落選の原因を、審査員に求めました。審査員に見る眼が無かったからマーラーを落としたりしたんだ、というわけです。そして、

 ──ブラームスその他の『保守的な』審査員たちに、マーラーの前衛的で斬新な書法が理解されなかったのである。

 というのがなかば定説となり、高名な音楽学者や評論家が書いたCDや演奏会の曲目解説にも、たいていはそんなふうに述べられています。ブラームスも軽く見られたもので、ここではすっかり、有望な若者の前途を妨げた頑迷な保守反動派の悪役にされてしまいました。
 実際のブラームスは、オペラや標題音楽など当節はやりのジャンルには確かにあまり興味を示しませんでしたが、楽曲の構成や和声の使いかたなどの面では非常に貪欲に新しい考えを採り入れています。後期の作品の、特に色彩的な和声使いには、いわば「政敵」とさえ見られていたヴァーグナーからの影響さえ顕著に見られます。ピアノ協奏曲をあたかも交響曲のように4楽章で書いたのも彼が最初です。ブラームスが保守的であるというのは、彼を担いでいたハンスリックが保守反動的な評論家であったことからの錯覚に過ぎず、本人は決して頑迷固陋な作曲家ではありません。
 『嘆きの歌』の落選は、審査員のせいではなく、曲のほうに落選するだけの理由があったというのが、長いことこの曲のスコアと向かい合ってきた私の結論です。
 マーラーはその後も諦めきれなかったのか、暇を見つけてはこの曲の改訂をしていたようですが、交響曲をすでに4つも発表したのちの1899年、ついに3つの楽章のうち第1部をまるまるカットしてしまうという荒療治をおこない、残る第2部・第3部も全面的に改稿して、決定版というべきヴァージョンを作ります。そしてそれを初演したことで満足したのか、死ぬまで再演はおこないませんでした。
 この決定版である1899年改訂版は、第1部がカットされているため演奏時間は約40分、オーケストラは三管編成のままながらハープは2台だけとなり、バンダも楽器数を減らしました。10〜14人を要していた独唱者はわずか3人となりました。つまり思いきった軽量化を図ったわけです。
 これが決定稿だったのですから、それで話は済んだはずだったのですが、マーラーの死後半世紀以上経った1969年、カットされた初稿の第1部のスコアが発見されたのが騒動の元でした。
 これはマーラーの義理の甥の家に所蔵されていたものです。いわば草稿なのですから、史料的価値はあっても、普通は音楽的にさほどの意味はありません。しかし、好事家的な興味から、試しに演奏してみよう、ということになり、ブーレーズなどが採り上げました。
 すると、「試し」に過ぎなかったはずなのに、われもわれもとこの第1部を加えた演奏がおこなわれるようになりました。この段階では、第2部・第3部は改訂版を使っていました。これを現在では「折衷版」とも呼んでいます。
 さらに、1990年代に至って、初稿の第2部・第3部も発見され、出版されました。それで、全曲を初稿版で演奏するということもおこなわれるようになりました。その結果、『嘆きの歌』の演奏には3通りの方法が混在するようになってしまったのでした。

 (1)最終決定稿である1899年版(2部構成)で演奏する。
 (2)1899年版の前に、初稿版の第1部を加えて3部構成で演奏する(折衷版)。
 (3)初稿である1880年版(3部構成)で演奏する。


 どうもこれは異常と言うべき事態です。作曲家の立場からすると、最終決定稿で演奏して欲しいものであって、未熟な初稿などひっぱり出してこられるのは気羞しいことです。気羞しい以上に、迷惑なことだと思います。(1)の形で演奏するのが、マーラーに対する礼儀だと私は信じます。
 しかし、マーラー信者は、どうもそうは考えないようです。

 ──初稿版は、所要時間や編成が厖大すぎるために、そのままの形では演奏することができなかった。だからマーラーは、「涙を呑んで」第1部を削り独唱者を減らすなどの軽量化を図った。つまり演奏の便宜のために「妥協して」1899年版を作ったのだ。だから、初稿版で演奏することこそ、マーラーの本来の意図に沿うやりかたなのだ。

 いつの間にか、そんな説がまかり通るようになってしまい、作曲者本人が「決定稿」としたはずの1899年版が、まるで「省略版」であるかのように扱われる状態となりました。
 泉下のマーラーが化けて出そうな所業ではないでしょうか。はばかりながら私自身にも、最初の形が気に入らず、いくつか楽章を削って最終稿とした作品がありますが、その削った楽章の楽譜などを誰かがどこかから見つけてきて、付け加えて演奏などされたら、本当に迷惑です。やめてくれと言いたくなります。削ったのは、出来が悪かったとか、全体のバランスを崩しているとかの理由であって、決して演奏の便宜のために涙を呑んだり妥協したりしたわけではありません。
 私のようなチンピラ作曲家とマーラー大先生を較べるなど僭越きわまると言われそうですが、作曲家の基本的な心理なんてものはチンピラでも大先生でも大差はないはずです。

 指揮者の海老原さんは、学校の卒業論文がマーラーであったこともあって、『嘆きの歌』の成立事情にも精通しています。1899年版が「省略版」などではない、という点では私と同意見のようで、初稿版と改訂版とでは、そもそも曲に対する思想自体がまるで違っているのだ、と強調していました。
 ただ、私が
 「本人が決定稿だとしているのだから、1899年版の演奏だけすれば良いはずだ」
 
という考えだったのに対し、海老原さんは、
 「ふたつは全く別物なのだから、マーラー歌曲全曲演奏(境さんのやっている「ハートフェルトコンサート」でのシリーズ企画)という趣旨からすれば、両方とも演奏すべきだ」
 という意見なのでした。
 一方、境さんの本音としては、
 「どっちでもいいからさっさと決めて、1回で済ませてしまいたい」
 というところだったと思うのですが、海老原さんの主張だとどうしても2回の公演が必要になります。同じ演奏会の中で初稿版と改訂版の両方を演奏するなど無理な話で、お客もたまりません。
 境さんと海老原さんのあいだで、しばらく鍔迫り合いがあり、結局海老原さんが押し勝って、2回に分けた演奏会をおこなうことにしたのでした。
 その第1回が、2012年8月末におこなった「改訂版による2台ピアノ版」初演でした。
 そして第2回が、このたびおこなわれた「初稿による2台ピアノ版」初演であったわけです。
 両者のあいだには10ヶ月ほど間隔がありました。この期間に、私は初稿版の編曲をし、ピアニストはそれにもとづいてあらたに譜読みをし、合唱もあらたに集めたのでした。ボーイソプラノ・ボーイアルトのパートは、子供ひとりずつでは荷が重いので、児童合唱を入れることにしました。もちろんドイツ語である上に、子供が歌うとは思えないような声域や音型が頻出しますから、児童合唱の指導も大変であったろうと思います。
 そしてこの再度の編曲を通じ、私はこの初稿版がコンクールに落ちた理由を確信しました。
 オーケストレイションが、改訂版に較べて明らかに雑なのです。私自身が若い頃におちいりがちだった「雑さ」を随所に発見し、なんだか嬉しくなってしまいました。マーラー大先生といえども、経験を積まないうちはやっぱりこんなことをしていたんだなあ、という安堵感と申しましょうか。「雑さ」にはいろいろありますが、例えば「非和声音と和声音とのぶつかりかたに対する無造作さ」なんてのがそのひとつです。経験不足のうちは、音色が違うからぶつかっても大丈夫だろう、などとたかをくくってしまうのですが、たいてい失敗します。
 また、マーラー自身が決定稿で切った第1部ですが、これもやはり冗長と言わざるを得ません。ヴァーグナーに倣ったライトモティーフらしきものを使っていますが、それがただ並んでいるだけで、一向に発展してくれないのです。
 これも何度も書いたことがありますが、ヴァーグナーはオペラをベートーヴェンの交響曲のように書き、マーラーは交響曲をヴァーグナーのオペラのように書いたというのが私の音楽史的評価です。マーラーの交響曲は、ベートーヴェンやブラームスなどの交響曲と同じような分析ができません。むしろ(純器楽によるものであっても)ヴァーグナー流のライトモティーフで表される「キャラクター」が、あたかも芝居をしているように動き回っていると考えたほうがわかりやすいのです。『嘆きの歌』はそのプロトタイプのようにライトモティーフが登場しますが、言ってみればそれがさっぱり芝居をしてくれないわけです。結果的に、この第1部はかなり平板な音楽となっています。
 さらに──気がついた時には唖然としたのですが──終楽章でありクライマックスであるはずの第3部で、ソプラノ独唱がいちども出てこないのでした。レクイエムやミサ曲などで、終楽章が合唱だけということはよくありますが、3つしか楽章が無いこの曲で、しかも他のソリストは童声を含めてたくさん出てくるのに、ソプラノ独唱をまったく使わないとは、正直言って「あり得ない」ことです。
 このため、今回の演奏でも、ソプラノソロの松永知子さんは、第2部が終わるとひっこんでしまいました。松永さんが出るからというので聴きに来ていたコーロ・ステラの連中(私の母を含む)は、心の底からがっかりしていました。母のごときは、私をつかまえて
 「あんた、どうせ編曲するんなら、ソプラノソロの出番を増やしたらどうなの」
 などと無茶なことを言い出したほどです。私は声楽部分にはまったくタッチしていません。ただ、考えてみれば10〜14人という独唱者は多すぎるし、いっそのこと少し整理した「編曲版」を作るのもひとつの手かもしれないな、という気はしました。
 このソプラノの不在は、一体なんでしょう。
 「もしかして、(スコアを)見直さなかったんじゃないですかね」
 と海老原さんは言いました。もしそうなら、出品の締め切りが迫っていて見直す暇が無かったのではなかろうか、と私は思いました。自分のこととして、思い当たることは多々あります。
 ソプラノほどの虐待ではないにせよ、他のソリストにしても、いやに断片的な扱いが多いのでした。昨日の演奏では、4人の独唱者(各パートに1対ずつ含まれる「重唱」は今回は合唱の中の歌い手を使いました)は舞台の前方に椅子を並べて坐り、自分の出番のところで立ち上がって歌うという方法をとっていましたが、立ったと思ったらすぐ坐るということの繰り返しです。長いフレーズで独唱を聴かせるという部分がほとんどありません。
 その点、改訂版はやはりよく考えられていました。パートを置き換えたり削ったりして、3人の独唱者が充分に声を聞かせられるようになっています。やはりソプラノは少々出番が少ないのですが、ともあれ10〜14人という人数をわずか3人に減らしたにもかかわらず、少しも音楽の密度が薄くなっていません。言い換えれば、3人程度でやれることを、初稿版では10人以上にやらせていたということになり、見る人が見れば明らかに無駄の多い書きかたであることがわかったでしょう。
 そういう難点に、ブラームスが気づかなかったはずはありません。

 ──この旺盛な意欲は壮とすべきだが、いかんせん粗雑すぎる。この作曲者はもう少し勉強したほうが良い。

 というのが、ブラームスの下した結論であったように、私には思えたのでした。

 さて今回の演奏会ですが、前回と同じく渋谷文化総合センター大和田さくらホールにて開催されました。あいかわらず胸を突くような急坂を昇って、ゲネプロから客席で聴いていました。
 前回の改訂版の時は、演奏時間が40分に過ぎませんので、それだけではひと晩の演奏会として短すぎます。ツェムリンスキー「クラリネット三重奏曲」を前座として置かなければなりませんでしたが、今回は『嘆きの歌』のみです。冒頭にはやはり海老原さんのプレトークが入りました。当初、私も出て行って対話をしようかという話もあったのですが、私は当日のパンフレットにかなり詳細な文章を載せたもので、それを読んで貰えば良いということになって、対話は立ち消えとなりました。ちょっと残念な気もします。
 第1部と第2部、第2部と第3部のあいだに、10分ずつの休憩が入りました。第1部(30分)と、第2・3部(40分)に分けるのかと思ったら、3つに分けたので、おやおやと思いました。第2部は約15分くらいですから、それでまた休憩というのは短すぎやしないかと考えましたが、上記のとおりソプラノ独唱者が退場する都合もあり、児童合唱の位置を変えるなどの演出もあって、思いきって入れてしまったようです。結果的には、どの楽章もそれなりに「濃い」ため、そんなに短い気はしませんでしたし、このおかげで飽きずに聴けたということもありそうです。
 江東少年少女合唱団は、この難曲をよく歌っていました。ハイCなどという、大人の合唱団でも容易に出せないような高い音を、楽々と、とまでは言えないにせよ、危なげなく出していたので感心しました。
 それにも増して大変だったのはピアニストです。小笠原貞宗さんは12年かけたマーラー歌曲全曲演奏シリーズに最初から最後まで関わった人ですから、まあ良いとしても、もうひとりの奥田和(なぎ)さんは、前回の改訂版の時には弾いていませんし、譜読みだけでもえらい苦行だったのではないかと思います。そもそも休憩は入れるにしても、70分間弾き続けるというそのこと自体が、相当なエネルギーを要します。リサイタルならもっと弾き続けることもありますが、そのほうがかえって自分だけのペースで進められる分、楽なのではないでしょうか。おふたりには心からご苦労様と申し上げたいところです。尽力の甲斐あって、
 「オーケストラの響きが聞こえました」
 という声も耳にしました。編曲者の私もひと安心です。

 ともあれ最初の話があってから3年以上、最初のスコアを受け取ってからでも2年半以上に及ぶ『嘆きの歌』とのつき合いも、ようやく終わりを告げることになりました。まだつき合いが続くとすれば、この編曲譜が出版でもされることになった時でしょうが、はたして出版するほどの需要があるものかどうかわかりません。まあ、当分はおなかいっぱいという気分です。

(2013.6.22.)

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