忘れ得ぬことどもII

おそるべき物質

 ネットでは有名なジョークなのですが、「ディハイドロジェンモノオキサイドDHMOという物質についての話があります。ご存じのかたも多いでしょうが、一応記しておくと、

 ・この物質は水酸化物の一種で、酸性雨の主成分である。
 ・この物質は温室効果を惹き起こす。
 ・この物質は重い火傷の原因となりうる。
 ・この物質は地形の侵食を惹き起こす。
 ・この物質は多くの材料の腐食を進行させる。サビの原因にもなる。
 ・この物質は電気事故の原因となる。また自転車のブレーキの効果を低下させる。
 ・この物質は末期ガン患者の悪性腫瘍から検出される。

 にもかかわらず、

 ・この物質は工業用の溶媒・冷却剤として非常に頻繁に用いられる。
 ・この物質は原子力発電所でも必ず用いられている。
 ・この物質は発泡スチロールの製造過程で用いられる。
 ・この物質は防火剤としてしばしば用いられる。
 ・この物質は各種の残酷な動物実験の際にも用いられる。
 ・この物質は防虫剤の散布に際して用いられる。洗浄後もDHMOは産物表面に残留し続ける。
 ・この物質は各種ジャンクフードや、その他の食品に添加されている。

 以上がクレイグ・ジャクソンという人物によってリストアップされたDHMOの性質です。このリストはその後何度も改訂や追加がなされ、かなり厖大なものになっているようです。「多量に摂取すると死ぬことがある」「呼吸困難を惹き起こすことがある」などなど。

 このリストを読ませたあとに、

 「この物質を法で規制すべきだと思いますか?」

 と50人に質問したところ、43人は「そう思う」と答えたそうです。6人が回答留保、「そうは思わない」と答えたのはたったひとりだったとか。
 種明かしをすれば、ディハイドロジェンモノオキサイドというのは日本語に訳せば「一酸化二水素」、化学式で書けばH2O、つまりです。50人のうち、これが水であることに気づいたのはたったひとりしか居なかったということです。
 このジョークを、USAのラジオ番組でエイプリルフールに流したそうです。少し形を変えて、
 「この物質は、あなたの家の水道にも多量に含まれているんですよ」
 とパーソナリティが「警告」しました。
 そうしたら、地元の水道局に質問やら苦情やらの電話が殺到したらしく、ラジオ局は平身低頭、番組のパーソナリティは無期限の謹慎処分になったそうな。
 まあ、文字で読んでさえ、これが水のことだと見抜いた人はわずか2%に過ぎなかったわけで、耳から聴くだけのラジオ番組では、騙される人がたくさん居たのも無理はありません。つい数日前伝えられたこのニュースに対し、2ちゃんねるあたりでは「少しは教育に気を遣えよアメリカさんよ」などといった反応も多かったようですが、日本であっても、なんの予備知識も無いところに話だけ聞いたら、騙されてしまう人が少なくないのではないでしょうか。

 とはいえ、USAでは時々信じられないようなおバカな騒ぎが起こります。同じラジオ由来の大事件としては有名なのは、1938年に起こった「宇宙戦争事件」でしょう。H.G.ウェルズのSF『宇宙戦争』を、オーソン・ウェルズが脚色・放送した番組で、オーソン・ウェルズの演技があまりに真に迫っていたため、本当に火星人が攻めてきたと勘違いした人が続出、大パニックが発生してしまったのでした。
 原作では火星人は英国に襲来することになっていますが、この脚色ではUSAのグローヴァーズ・ミルという土地が襲われたことにしてありました。これがまた、架空の地名でも使えば良いものを、ニュージャージー州に実在する地名であったもので、さらに真実味が増したわけです。
 また、普通のラジオドラマの形ではなくて、架空実況という手法を使い、あたかもニュース番組であるかのような演出がおこなわれていました。番組中何度か、「これはフィクションです」という注意が流れたそうですが、すでにパニックに陥って、避難を始めているような人々の耳には届きませんでした。
 この騒ぎはのちに映画にもなりました。確か前にテレビで観た憶えがあります。
 「宇宙戦争事件」はハロウィンの特別企画番組だったそうです。今回のエイプリルフールにもちょっと通じるものを感じますね。

 それはともかく、ディハイドロジェンモノオキサイドのジョークは、当初は
 「人間はいかに騙されやすいか」
 という例証として挙げられました。そもそも有名になったのは、USAの中学生がこの「人間はいかに騙されやすいか」というテーマのもとにおこなった調査からです。
 その後、ネットのコピペのひとつとして流行り始めたわけですが、真に受けて本当に規制の決議をおこないかけたおバカな市議会(カリフォルニアアリソ・ビエホ市)もあったと言いますから、今回のラジオの聴取者だけをバカにはできません。
 現在ではこのジョークは、人間の騙されやすさを示すだけではなく、環境問題とか食の安全の問題、あるいは原発問題などを論じる掲示板などによくコピペされています。これらは論者がわりと感情に流されやすく、また半端な知識だけで極論をなすような人も多いため、それらを揶揄するというか、「少しアタマを冷やせ」というような意味合いでコピペとして用いられることが多くなっているようです。
 「君らは○○が危険だ危険だと騒いでいるけれども、ありふれた水だって、こう列挙すればものすごく危険な物質みたいに感じられるだろう?」
 というわけです。
 何事も程度の問題だということで、ごもっともとしか言いようがありません。食品の防腐剤の毒性をおそれるあまり、防腐剤無添加のものばかり食べていたら、カビが生えていてあえなく食中毒になってしまったというような話を聞くと、過ぎたるはなお及ばざるがごとしという格言がいかに真実を言い当てているか実感する次第です。
 同様に、「○○ダイエット」みたいのも世の中には無数に存在していますが、なんによらず食物単品によるダイエットというのは、私にはどうも信じられません。たとえそれによって痩せることができたとしても、肥満を回避したこと以上の不都合がどこかに生じているに違いない気がするからです。水でさえ飲みすぎると「水中毒」というのを惹き起こすのですから、ひとつの食べ物ばかりに固執することが良いとはどうしても思えません。
 ちなみに水中毒というのは、水をいちどに多量に摂取した結果、血液中のナトリウム濃度が下がり、からだにいろいろと異常が出てくるという症状です。軽症だと疲労感を覚えたり、頭痛や嘔吐が起こる程度ですが、重症になると低体温症や昏睡状態から、時に呼吸困難で死に至ることもあるそうですから、ただの水といえども甘く見てはいられないのでした。
 どんな良薬でも、用法を間違えれば毒物になりますし、逆に毒物であっても、微量ならば薬効が得られるという場合もあります。前に「毒のある植物」というような本を読んだことがありますが、われわれが普通に接する多くの植物に毒性があり、その本の結論としては、

 ──基本的に、植物は有毒である。

 ということでした。植物毒はアルカロイドと総称されますが、これは実は多かれ少なかれほとんどの植物が持っている成分で、それによって植物は虫害から身を護っていたりするわけです。これなどまさに分量と種類により効力がまるで違ってくる毒物の代表例でしょう。トリカブトのアルカロイドなどは人間にも致命的に働きますが、除虫菊のアルカロイドは無脊椎動物に選択的に働き、それだから蚊取り線香の煙を人間が吸っても別に害はないことになります(時々、「蚊が死ぬくらいだから、人間にも多少は害があるんじゃないかしら」と心配する人が居ますが、ご安心を)ユーカリはたいていの動物にとって有毒ですが、コアラは腸内にユーカリ専用の解毒機能を備えているので、うまいこと他の動物とバッティングすることなくエサを確保できます。
 食べ物や薬ばかりではなく、放射性物質であるとか、遺伝子組み換えであるとか、充分な知識を得ようともせずにイメージだけで忌避する人が多すぎるとは思いますし、逆にマイナスイオンやらクラスター水やらのように、きちんと検証もされずに妙にもてはやされている事柄も少なくありません。「DHMO」のように、ただの水であってもマイナスイメージの言葉を連ねればたちまちおそろしげな有害物質のように思えてくる実例を鑑みれば、ネガティブイメージであるとポジティブイメージであるとにかかわらず、学者や企業による意図的なイメージ操作がいかに簡単におこなわれるものであるか、ほとんど暗澹とした気分にさせられます。
 世の中であまりに一方的にもてはやされている物事、あるいは逆にあまりに一方的に叩かれている物事については、眉にかなり唾をつけて向かい合うことが必要ではないかと考える次第です。

(2013.5.19.)

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