忘れ得ぬことどもII

「子供」と「子ども」その後

 「『子供』と『子ども』」という文章を書いたのもずいぶん前になります。
 それ以前から、「子供」のことを「子ども」と交ぜ書きにしているのを見ることが多く、不思議に思っていましたが、確かその頃の「お客様の声」で、教育学部などの学生のレポートで「子供」と書いてあると「子ども」と書き直させられる、というような話題が出たのではなかったかと思います。そんなことになっていたのかとびっくりして、いろいろ調べたり考察したり、ネット友達からの助言を受けて再考したりしたのが上記の文章です。
 詳しくは当該文章を読んでいただきたいと思うのですけれども、整理してもういちど簡単に書いておきます。

 ●広島県のある小学校で、児童が「『子供』の『供』という字が、『お供え物』みたいでなんだかイヤだ」と言い出す。

 ●教師が児童たちにアンケートを採ってみたところ、「『お供え物』みたいでイヤだ」という意見が多数を占めた。

 ●教師が「『供』の字は『お供え物』を連想させるため、差別的な用字である」と問題提起。

 ●なぜかあちこちの先生がたが「そうだそうだ」と賛同し、「供」の字を使わないように申し合わせる。

 ●なぜかそれが全国的趨勢となり、「子ども」が公式表記となる。

 私や、私のネット友達が調べたところでは、そういう次第であったようです。
 なんだか変な話だと思えないでしょうか? 私はその時もまったく納得できませんでした。
 小学生が「『子供』の『供』の字が『お供え物』みたい」と言ったというのは、まあ良いでしょう。しかし、それがなぜ「イヤだ」ということになるのでしょうか?
 アンケートで多数の小学生がその意見に賛成したというのも、どこか不自然です。どんなアンケートだったのか見てみたいものです。

 1. 『子供』の『供』の字は『お供え物』の『供』だから良くないと思う。
 2. そうは思わない。


 というようなえらく誘導的な設問だったのではないでしょうか。
 そして、この教師も変です。「お供え物」を連想させるのが、なぜ差別的になるのでしょうか。「お供え物」というのは、神仏や先祖の霊に対して奉るものですから、むしろ「最上のもの」を意味するはずです。たとえ「『お供え物』みたいでイヤだ」という児童が実在したとしても、まともな教師なら「『お供え物』は良いものじゃないか」と教えるのが普通ではないでしょうか。
 さらに変なのは、この教師の同僚も上司も、それどころか教育委員会も教職員組合も、その言い分を「もっともだ」と認めたという点です。誰ひとり
 「『供』の字が差別的だ? 何をバカなことを!」
 と一蹴する人が居なかったというのが、どうにも不可思議でなりません。そしてそれを大学の偉い先生がたまで賛同または黙認し、学生のレポートの表記にまでケチをつけるようになったとあっては、何やら悪夢のような話です。
 どの段階をとっても不自然なことばかりで、こんなことが現代日本で起こりうることが信じられませんでした。なんだか薄気味悪さすら感じました。
 しかし、現実に「子ども」表記は日本中に蔓延してしまっています。民主党政権時代の「子ども手当」も、「子供手当」ではありませんでした。

 お供え物云々という話を信じるくらいなら、「お供」を連想させ「従属物」の意味を持つ字だからよろしくない、という話のほうがよほどわかりやすいと言えます。私は最初はそっちだとばかり思っていました。もちろん、その主張に賛同するわけではなく、それだってばかばかしいことこの上ないと思うのですが、それでも差別だの人権だのを持ち出す理由としてはまっとうでしょう。
 ちなみにこちらの説も簡単に覆すことができます。「お供」という表記は宛て字であって、本来は「お伴」と書くべき言葉です。「供」という字には従属物という意味はまったくありません。供養(くよう)、供応(きょうおう)、供進(きょうしん)、供奉(ぐぶ)などの熟語でわかるとおり、「うやうやしく捧げ奉る」というのがこの文字の意味です。「お供え物」が「差別的」などでないことも、この「うやうやしく」という意味合いで一目瞭然であったはずです。
 どちらの理由にせよ、そんな、国語学にも教育学にも素人である私にでも簡単にわかる理窟が、数多の先生がたにわからなかったとはとても思えません。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
 大勢がそうなってしまったので逆らえなかった、という人も、もちろん居ることでしょう。しかし、なんでまた、「大勢がそうなってしまった」のか、理解できません。「そのとおりだ、『供』の字は差別的だ」と賛同する「先生」が、どのレベルにおいても多数を占めたということになってしまいます。そんなことがありうるのでしょうか。

 考えられるのは、

 ──すぐ「差別的」だなんだと言い出す連中に逆らうと、あとが面倒くさい。実質的にはどうということはない表記だけの問題なんだから、ここは連中の言い分を通しておくか。

 と、事なかれ的にみんな流されてしまったという可能性です。この「文字狩り」が実際にはいつごろ起こったのかよく知りませんが、1980年代〜90年代くらいだったら充分あり得た話です。
 「すぐ『差別的』と言い出す」「あとが面倒くさい」連中、ということになると、まあうすうす見当がつかないでもありません。ただ、その連中が「供」の字を目の敵にした理由がやはりさっぱりわかりません。
 ともかく、少なくとも教育現場では「子供」という表記は使えないことになってしまいました。「子供」と黒板に書いた小学生が、先生に「子ども」と書き直され、

 ──この字は差別になるから使っちゃダメだよ。

 と諭されたという話もあります。

 こんなバカな話があるか、と私は大いに憤慨しましたので、自分の文章の中では断乎として「子供」と表記することに決めました。
 声楽曲の歌詞などで、私は漢字を使えるところではできるだけ使う方針ですが、実際には単音節か長音(「こう」「せい」などの訓み)の漢字に限られます。それで歌詞の中に「子供」とあった場合、譜面上の表記は「子ども」になってしまって、どうも気持ち悪くてならなかったので、そこだけ節を曲げて「こども」と全部仮名書きにしたものです。
 もともと、チャイルドを表す日本語は「子」であり、「子ども」というのは複数、すなわちチルドレンを表す言葉です。この意味であれば山上憶良「貧窮問答歌」にも登場します。
 ただしこの「複数を表す『ども』」という接尾辞は、だんだんガラが悪くなりました。「手下ども」「野郎ども」「ガキども」というような、あまり品の良くない言葉にばかり使われるようになり、そうでない場合は「たち」が主流となりました。現在はさらに「がた」がもうひとつ上の格として使われます。「あなたたち」よりは「あなたがた」のほうが丁寧な印象がありますね。しかし「あなたども」とは現代日本語では絶対に言いません。weの謙譲表現としての「私ども」「手前ども」が使われるだけです。
 「子ども」という表記は、このガラの悪い、品の無い「ども」であるように見えます。
 江戸時代の初期頃までに、単数つまりチャイルドの意味でも「こども」という言いかたがなされるようになりました。「子」は一音節なので、話し言葉としては使いづらかったのでしょう。文字で書かれる場合は「子共」となりました。
 この「共」にニンベンがついて「供」になったのは、江戸時代後期のことだったようです。この文字を使い始めた人の心境はわかりませんが、ニンベンをつけたところに優しさが感じられます。「共」の字では、その時代すでに、「野郎共」「ガキ共」の印象が強かったのかもしれません。

 ──こどもだって人間だ。「共」などというガラの悪い文字ではなく、ニンベンをつけるとしよう。

 という意識があったのではないでしょうか。だとすれば「供」の字は、「差別的だ」などとほざいている連中の見かたとは正反対に、むしろ子供の人権を尊重した気持ちのもとで用いられはじめたとしか思えません。私はそう考えましたので、誰がなんと言おうが、世の中がどういう趨勢になろうが、「子供」の表記を使ってやる、もしどこかに頼まれた原稿などで書き替えを要求されたら、そんなところからは原稿を引き上げてやる、と心に決めたのでした。
 幸い、今のところそんなはめにはなっておりません。教育現場でこそやかましく言われるものの(あるいは新聞などではわかりませんが)、一般社会で使う分には、別に差し支えないようです。それだと余計に教育界が異様に見えてしまいますけれども。

 最近になって、役所が「子供」表記を復活させたという報道に接しました。
 3月の通常国会で、自民党議員から「子ども」のような交ぜ書きは国語を破壊するものなのではないか、という指摘があり、文科省内で協議検討した結果、「子供」表記は差別表現ではないという結論に達したのだそうです。こんなことは協議検討するまでもなく、あたりまえの話だと思うのですが、ともあれ文科省でそういう結論が出たことが大きいのだと言えましょう。下村博文文科大臣の意向もあったのかもしれません。ちなみに下村氏は東京11区、つまり板橋区の選出議員であり、実は板橋区演奏家協会にも今まで多少の助力をいただいています。
 記事の中でも、上に私が書いたとおり、

 ──同省総務課は「供が『お供え物』などを連想させ、差別的表現だという意見が、審議会などであったことが要因」と説明する。

 という一文がありました。この文章を読んで、

 ──お供え物を連想させるとなんで差別的になるんだ?

 と不思議に思わない人が居るとしたら、私にはそのほうが驚きです。しかし20年以上、学校の先生たちは少しも不思議に思ってこなかったようです。
 文科省の結論に対して異議を唱える連中は居るでしょうか。どういうぶっ飛んだ理窟で異議を申し立てるのか、私はかえって楽しみにしています。
 ともあれ、役所の文書からは、実際徐々に「子ども」表記が無くなりつつあるようで、たいへん喜ばしいことだと思う次第です。

(2013.8.31.)

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