ニュージーランドの先住民族マオリ族の女性が北海道のアイヌ語復興団体に招かれて講演をおこなったのち、温泉施設に行って食事と入浴をしようとしたところ、彼女のあごの部分に彫られた文身(いれずみ)がとがめられて、入浴を断られたという出来事があったそうです。 入れ墨をしている人の入場を禁止している入浴施設はよくあります。私の時々行っているいくつかのところにも、その表示があります。タトゥー風シールであっても、はがさない限りはダメということになっています。ぱっと見、本物の入れ墨と区別がつかないからですので、それもやむを得ないことでしょう。 同行した団体の人が「多様な文化を受け容れることが必要ではないか」と抗議したけれども、やはり無理だったようです。 マオリ族では文身は尊厳の象徴となっているとかで、関係者は「大変残念」、本人も「深い悲しみを感じた」と発言しています。
なんと融通が利かないことだ、と私も少し思いかけましたが、この記事が
──日本人の心にひそんでいる民族差別意識。
みたいなものをあげつらう目的で書かれたのだとしたら、ちょっと待ってくれと言いたくなります。
多くの入浴施設で入れ墨の禁止をしているのは、第一に暴力団関係者の排除が目的でしょう。また第二に、入れ墨をしていると感染症にかかりやすいという問題もあります。肌に何百何千と孔をあけて顔料を流し込んでいるわけですから、温泉の成分などで皮膚炎を起こしやすく、それが湯を介して他の人に伝染する可能性も無いとは言えません。
もちろん、ファッションタトゥーというのもあって、刺青(ほりもの)を入れている人が即ヤクザとは限りませんけれども、見ず知らずの他人が肌を見せ合う入浴施設のことであり、無用のトラブルを避けるためには、やはり入れ墨のたぐいを一律に禁止するのが妥当と言わざるを得ません。
多様な文化を尊重すべきだというのはまことにそのとおりなのですが、入れ墨を禁止し、その旨ちゃんと看板も出している施設で断らざるを得なかったのは、やはり仕方のないことではないでしょうか。例外を認めればきりがなくなるというのも、また正論です。
記事には「温泉施設」とだけ記されていますので、これはホテルや旅館ではなく、最近増えた日帰り温泉のたぐいでしょう。こういうところはおしなべて禁止されていると思います。要するにそんなところへ連れて行った関係者のほうがどうかしていると言うほかありません。他国の文化ということで押し通せると思ったとすれば、あさはかな話でした。
そんなうるさいことを言わない施設だって、探せばあるはずです。私の家の近くでも、ずっと以前から営業している銭湯(「ラヂウム温泉」となっていましたが)は別に入れ墨禁止にはなっておらず、見事なモンモンを背負ったおっさんが漬かりに来ていたのを見たこともあります。あらかじめ頼んでおけば貸し切りにしてくれる温泉もあるでしょう。そういう手配や下調べをしておかなかったのが主催者側の手落ちです。
なんとなく、入浴を断った施設側を悪者にしようとする雰囲気を感じる記事ではありましたが、あいにくとネットでの反応は、主催者側が悪いんではないかというコメントが多数を占めていたようです。新聞の誘導や煽動が効きにくい、善い世の中になりました。
2020年に東京でオリンピックを開催することが決定したことでもあり、これからさらにいろんな国のいろんな人々が来日することになるでしょう。その中には、われわれの想像もつかないような習慣や文化を持っている人たちも居るかもしれません。
欧米あたりだとまだ見当もつきますが、すぐ近くの東南アジアあたりでも知らないことはたくさんありますし、アフリカやオセアニアともなれば、どう接して良いかわからない場合もあることでしょう。
すべての来訪者にこちらが合わせていたら、疲れ果ててしまいます。
こういう時は、ガイドラインをしっかり発信しておくべきでしょう。他の国はいざ知らず、日本ではこういう決まりになっているので、それを守ってくださいとあらかじめ言っておくのは非礼ではありません。むしろ、うるさいことを言うヤツだと思われるのを恐れてそれを言っておかず、向こうが知らずに恣意を通してこちらが迷惑し、あとで陰口を利いたりするほうがずっと非礼と言えます。
ガイドラインなどを申し立てるのは、なんだか高飛車なようで、気がとがめることかもしれません。しかしやはり、結果的にはそのほうが親切だと思います。
考えてみれば、私たちが海外へ行った時には、行った先の決まりに従うのが当然です。日本ではどうということもない行動が大変な問題になることだってあるわけで、そんな時に
──これは日本の文化なんだ。
などと言い張ってもどうしようもありません。
有名な例では、子供の頭をなでる行為、これがタイでは非常に無礼なふるまいとされています。かわいらしい子供を見てつい頭をなでたりしたら、たちまちその子の親がすっ飛んできて金切り声を上げることでしょう。タイという国の人はおおむね日本が大好きであるようですが、だからと言ってこの「非行」を見逃してくれることはありません。
列車の中で靴を脱いで寛いでいたら車掌が飛んできて大変に怒られたという話もあります。これは確かチリだったかの話でしたが、もっと身近なはずのUSAでも、レイプされた日本人女性の訴えが却下された事件がありました。彼女は知り合った男に誘われて彼の家へ行き、そこでうっかり靴を脱いでしまい、そのあとレイプされたのでしたが、裁判所の判断は、
──男の家へ入って靴まで脱いだのだから、彼女は充分に合意していたと認められる。
というものでした。日本では家の中で靴を脱ぐのが普通で、そんなつもりはなかったと言っても通用しません。
要は、「郷に入っては郷に従え」ということです。独自文化の主張は、先方の人々が迷惑と思わない範囲でおこなうべきでしょう。
この言葉を、同調圧力の強い日本独特の発想だと思っている人も居ますが、英語にもまったく同じ意味の
──When in Rome do as the Romans do.(ローマに居る時はローマ人のようにふるまえ)
ということわざがあります。自分のやりかたを押し通して、無用の摩擦や軋轢を産むことは、洋の東西を問わず、嫌われる行為なのです。
日本人が外国へ行く時は、そういうことをよくわかっているものです。上記の、タイやチリやUSAの事件を耳にしても、普通は
──もっとちゃんと調べて行けよ。バカだなあ。
という感想を抱くのではないでしょうか。USAの裁判所は日本の文化を認めずけしからん、などと怒る人はほとんど居ないでしょう。
こういうことは相互主義で構わないと思います。日本へ来る外国人にも、日本のルールは守って貰うべきで、「多様な文化」などということを口実にして我流を押し通すことは、ある程度遠慮して貰うのが当然です。
タトゥーを入れていたら、それを禁止している浴場には入らない、というのも、来日する外国人に守って貰いたいことのひとつでしょう。知らないとわかりようがない暗黙のタブーとかそんなことではなく、明確に看板を出して禁止しているのですから。
白人でもタトゥーを入れている人はけっこう居ます。たいていはファッション感覚です。
ローマでジェラート屋に行って順番を待っていたら、前にいた女の子が二の腕に「愛」という漢字を彫っていました。漢字のタトゥーは人気が高いようです。
コペンハーゲンに行ったら、タトゥー屋も見かけました。ショーウィンドウにいろいろサンプルが出ていて、やっぱり漢字が人気であるようでした。中には「無料」なんてのもあり、意味がわかってるんだろうかと心配になりました。女の子が自分のからだに「無料」なんて彫っていたら、いろいろ問題があるのではないでしょうか。
そういうワンポイントのタトゥーだったら、時には見逃されることもあるでしょうが、腕や背中一面とか、あるいは顔とかだと、やはり異様な感じであり、お断り申し上げなければならない場合も多くなるでしょう。
なお私はここまで、「いれずみ」を表すのに「入れ墨」「刺青」「文身」そして「タトゥー」という表記を使い分けていますが、お気づきだったでしょうか?
「文身」というのは、それこそ民族文化のひとつとしての「いれずみ」です。「魏志倭人伝」に、倭人はみな「黥面文身(げいめんぶんしん)」しているという記述があります。「黥面」は顔にいれずみをすることで、漢の高祖の配下だった英布という将軍は、かつて悪事をして罰を受け、顔にいれずみを入れられたので、「黥布」と呼ばれたという話が「史記」にあります。「文身」はからだにいれずみすることで、「文」は本来「模様」という意味です。魏志倭人伝の筆者は、倭人は水にもぐって魚を捕るので、黥面文身することでサメやワニなど兇暴な魚を脅かして身を守るのだと解釈しています。若干、もっと南方の島々の習俗と混同されているような気もしますが、ともあれ日本人も昔は普通にいれずみをしていたらしいことがわかります。
江戸時代には「入れ墨」と「刺青」ははっきり区別されていました。「入れ墨」は上記の黥布のケースと同様、刑罰として刻まれるものでした。初犯だと額に「一」の字を彫られ、再犯すると左払いの斜線を加えて「ナ」の字にされ、前科三犯になるとさらに右払いの斜線および点を加えて「犬」の字にされるなんてのもあったようです。入れ墨はいわば前科者の証ですから、人々に忌まれたのも無理はありませんでした。
一方「刺青」はまったく違い、基本的に本人の意思で入れるものでした。字面からしても、黒一色の入れ墨とは異なり、カラーになっていたことがわかります。ATOKでは「いれずみ」と入力しないと「刺青」の字が出てきませんが、これは「ほりもの」と読むべきです。
当初は現代のファッションタトゥー同様、一種の「符号」あるいは「化粧」みたいなものだったかもしれませんが、男伊達をなりわいとする、いわゆる「傾(かぶ)き者」のあいだで、より広範囲に、より色鮮やかな刺青を入れることが競われはじめました。何しろ何百回となく針を刺し込まれるのですから、その痛さといったらありません。その、いつ果てるともしれない痛みに、より長く耐えたほうがカッコ良く、仲間から尊敬されるというわけです。戦国時代のように武勇を誇れなくなった連中は、そんなことで張り合うしかなかったのでした。
とはいえ江戸も中期を過ぎ、教養主義が行き渡ってくると、やはり刺青を競うなんてのはバカな連中のすることだという意識が強くなりました。寺子屋などの漢文の素読で必ず読まされた書物に「孝経」がありますが、この冒頭は
──身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く、敢(あえ)て毀傷(きしょう)せざるは孝の初めなり。
とはじまるではありませんか。刺青を入れるなどというのはまさに「身体髪膚」を「敢て毀傷する」行為にほかなりません。道徳的にけしからんことであるようです。
桜吹雪の刺青で有名な遠山の金さんこと遠山金四郎も、実際には若気の至りで刺青を入れたことを恥じ、人前では決して見せなかったそうです。そもそも映画やテレビに出てくるようなあんな背中一面のものではなく、二の腕だけだったと言われています。金さんは江戸後期の町奉行ですが、その時代にはすでに、刺青などはヤクザ者のすることだという感覚が共有されつつあったことがわかります。
入れ墨は受刑者、刺青はヤクザですから、その後の日本人がこういうものを嫌うようになったのも当然でした。さらに明治の文明開化でこういった風習は野蛮だということになり、受刑者の入れ墨も廃止されました。文学者などが時折刺青への憧憬みたいなものを言明することはあるとはいえ(高木彬光の「刺青殺人事件」など)、一般には眉をひそめられるような存在になってしまいました。
詳細に見れば、アウトローの風俗としての「入れ墨」「刺青」と、民族文化としての「文身」は分けて考えなければならないのはもちろんです。しかし、「刺青」がもとは男の度胸を示すものであったからと言って現代ではヤクザの象徴に過ぎなくなっているのと同じく、ある民族において人の尊厳をあらわす「文身」でも、ところが変われば遠慮を求められるというのもやむを得ぬ仕儀と言えるでしょう。
日本のどこでも全面的に禁止されているというのではなく、施設によってはOKということもあるので、いわば「ドレスコード」に近いものだと思います。ネクタイ着用を求められる店に無理矢理ノータイで押し入ろうとするのは無茶であり、そういう場合はノータイでも構わない店に行けば済むことでしょう。そういうことがわかっていない人であれば、同道する者が気をつけるべきです。
せっかくニュージーランドからはるばる来てくださったかたに「深い悲しみ」を感じさせてしまったのは残念なことですが、悲しみを感じさせたのはやっぱり、主催者の無神経が大きかったと判断せざるを得ません。
こういうケースは、これからも起こり得ることです。日本の評判を悪くしないためにも、世話役にあたる人は充分な配慮を願いたいものです。
(2013.9.12.)
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