忘れ得ぬことどもII

菅原源さんの葬儀

 今日(2014年1月19日)は知人の葬儀があって、朝から出かけました。
 仕事があるので、14時前までに川口に戻ってこなければならず、11時半からの告別式に、はたして出席できるかどうか微妙でした。何しろ場所がかなり遠い坂戸というところです。池袋から東武東上線で45分ほどかかります。調べてみたら、坂戸駅を12時47分の快速電車に乗れば、なんとか仕事に遅れずに済みそうでした。葬儀場は駅から徒歩2、3分の近さなので、12時40分くらいまでなら参列できそうです。出棺の見送りはできないかもしれませんが、まあ主要部分は居られるでしょう。
 音楽家仲間は、土日に仕事が入っていることがけっこう多く、土日の葬儀にはなかなか参列できません。実際私もそうであって、昨夜の通夜にはまったく行けませんでした。残念ながら欠席という人がかなり居たのではないかと思います。故人である菅原源さんも歌い手だったし、奥さんの直子さんも歌い手なのに、どうして土日にしてしまったのかと思いましたが、そういう日程は親族などとのからみもあるでしょうから、まあ仕方がないかもしれません。

 源さんはまだそれほどの齢ではなく、享年は59歳ということでした。このときの私より10歳上に過ぎません。このくらいの年齢差の人が亡くなるのを見ると、なんとなく急に身がひきしまるような気がします。
 作曲科の同級生がすでにふたり鬼籍に入っていますが、そういう、自分と同い年くらいの人であれば、病死であっても、一種の事故みたいに感じます。たぶんあと10年も経てば感じかたが変わるのかもしれませんが、当方が40代くらいの時だと、もちろん悲しみは覚えるものの、それほど自分自身に切実な想いを抱くということは無かったようです。
 しかし、10歳上くらいの人が亡くなるのを見ると、自分のより深いところで、

 ──おれも気をつけなくちゃいかんな……

 という気持ちが湧き起こります。
 急死というわけではなく、しばらく前から闘病生活を送っていた人ではありましたから、意外の念はさほど起こりませんでした。とはいえ、もっと生きられたのではないかという気がしてなりません。

 源さんは、板橋区演奏家協会での先輩にあたる人でした。私が入会した時に副会長をなさっていたのではなかったかと記憶しています。考えてみると、私より1期上なだけでしたから、2年目にして早くも副会長をやっていたことになります。もっとも、私も2年目か3年目から副会長をやらされていましたから、その頃は運営もわりとアバウトだったなあ、と思い返します。
 奥さんの直子さんも協会員で、かなり活溌に活動に参加なさっていますが、源さんご本人はしばらく前に退会していました。同じ東上線沿線とはいえかなり奥地に引っ越して、協会の活動に参加しづらくなったのと、やはり健康状態に不安があったせいだったかもしれません。退会後も、オペラ公演などに何度か賛助出演はしていました。
 「元協会員」なので、この場合協会として何かするのかということで、この前の寄り合いで議論がありました。寄り合い(役員会)は月に一度で、この前は16日(木)に開かれています。ちなみに源さんが亡くなったのはその前日の15日(水)で、それを考えるとすごいタイミングであったと思います。逝去から葬儀までのあいだにうまいこと役員会が無ければ、そういう話し合いはできなかったはずです。
 演奏家協会も設立30年を超えたので、縁起でもないことながら、協会員がらみの弔事がこれから出てこないとも限りません。当然、考えておかなければならないことですが、ことがことだけに、何かきっかけが無いと話題にしづらいのも事実です。そのきっかけを、こう言っては語弊があるかもしれませんが絶妙のタイミングで提供してくれた源さんは、退会したあとも協会に大きな寄与をしてくれたような気がします。
 「元協会員」というのはかなりの人数にのぼるため、「元協会員」が亡くなったというだけでは協会として何かするわけにもゆきません。また、故人は「現協会員の家族」でもあったわけですが、「現協会員の家族」が亡くなったことはこれまでも何度もあり、その時は特に何もしていません。結局、「現協会員」「現協会員の家族である元協会員」が亡くなった時のみ、葬儀に協会から花輪を贈るということに決しました。
 ずいぶんややこしい規定を作ったものだと思われそうですが、後者にあてはまりうる、夫婦とか母娘とかで協会員になっている人が、現時点で他に4組存在します。まあ、その多くは終生協会員であり続けそうなので、「現協会員」のほうの規定だけで充分でしょうが。
 いずれにしろ、そういう規定を今回作ることができたのは、本当に見事なタイミングであったと思いました。規定を決めたその場で、葬儀場に電話をかけて、花輪を手配して貰いました。

 さて、10時前に家を出て、坂戸へ向かいました。池袋から東上線の快速に乗って行きましたが、570円もかかったので驚きました。あらためて、遠いなあと思います。
 演奏家協会の仲間ふたりが受付をしていましたが、他には知った顔が見当たりませんでした。通夜に来た人が多かったのかもしれませんが、やはり日曜日の葬儀には差し支える人が多いのでしょう。
 導師は真言宗の坊さんでした。うちの宗旨は臨済宗ですし、他に浄土真宗曹洞宗の葬儀ならばよく見ますが、私は真言宗の葬儀というのを経験したことがありません。不謹慎かもしれませんが、けっこう興味津々でした。
 聴いていると、どうもお経を詠んだりはしていないようです。全部理解できたわけではありませんが、基本的には日本語で、歌曲のように節をつけて語っていました。故人の名前や享年が述べられた時にははっきりわかりました。なんだか神社の祝詞のようです。その合間に、時々梵語の真言(マントラ)らしきものが鋭くはさまれます。「南無大師遍照金剛」という名号は何度も聞こえてきました。
 遍照金剛は大日如来のことではありますが、弘法大師空海の灌頂(かんじょう)名であり、普通は空海のことを指します。「南無大師」がつけば完全に空海のことです。こういう名号を何度も何度も唱えるあたり、真言宗というのは仏教というよりも「空海教」なのだなと思えてしまいます。
 キリスト教が、ユダヤ教から受け継いだ「神(ヤハウェ)」を意識しつつも、その神を一種形而上的な存在に祭り上げてしまい、信仰の具体的な対象をイエスという「教主」に求めているのとさほど変わりません。大日如来というのも形而上化された仏陀であるわけで、キリスト教の神と同じく「人格」を失っています。なおユダヤ教におけるヤハウェは、旧約聖書を読めばわかるとおり、怒り狂ったり拗ねたり嫉妬したり、あるいはおだてられれば上機嫌になったりと、きわめて人間くさいキャラクターを持っていて、のちにイエスが説明している神様とはまるで別物のように感じられます。
 坊さんの口上は禅宗や真宗とは違っているものの、参列者の行動は別に変わりません。しばらくしてから数人ずつ立って焼香をおこないます。遺族に一礼して席に戻ります。
 驚いたのは、参列者の焼香がひとわたり済んでから、もういちど遺族・親族の焼香がはじまったことでした。初七日の法要を同時にやってしまうためということはわかりましたが、他のところでこんなやりかたをしていたかどうか、記憶が定かでありません。しばらく前に亡くなった祖母の葬儀は、やはり初七日の法要を一緒にしてしまっていたはずですが、それを思い出してみても、二度も焼香に立った気がしないのでした。
 12時25分くらいに式次第が終了し、告別と出棺の準備のためにと参列者が外に出されました。そのまま12時40分まで待っていたのですが、まだ告別の儀がはじまりそうになかったので、やむを得ず出てきてしまいました。それ以上待っていると、仕事に遅れそうだったのです。まあ、焼香はできたので良かったと言うべきでしょう。

 そういえば、菅原家からは昨年末に喪中ハガキが来ていたはずだと思い、帰ってから確かめてみました。源さんのお父様が去年の夏、お母様が一昨年の秋に亡くなっていたようです。そして今度はご本人が逝ってしまいました。向こうで

 ──おまえ、なんだってこんなに早く来たんだ?

 とご両親に叱られているのではないかとつい想像してしまいました。ご冥福をお祈りいたします。

(2014.1.19.)

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