忘れ得ぬことどもII

五線紙と私

 今年(2014年)はすでに3つほど作曲しなければならなくなっており、そろそろ始動をしないといけないと思いました。
 現在、編曲仕事はほとんどすべてパソコン上でおこなっていますが、作曲となるとそうはゆきません。五線紙に鉛筆で下書きをして、それを消したり書き直したりしながら検討し、最後の清書だけパソコンでおこなうという形になります。私よりもIT機器に親しんでいる作曲家なら下書きからパソコンでやっているかもしれませんが、私はまだ、ある程度の範囲を一覧できたり、直しを入れたとしてもその前の形を参照できたり、思いつくパターンをいくつも並列して検討したりという作業が容易な、手書きによる下書きを捨てることができません。
 パソコン作譜が普通になってから、五線紙の使用量は激減しましたけれども、まだまだ不要ということにはならないのでした。
 それで何日か前、下書き用の五線紙を抽斗から取り出そうとしたところ、あいにくと切れていました。ここしばらく不自由はなかったのですが、ついに使いきってしまっていたようです。
 近くのデパートに入っている楽器店では、目当ての五線紙が見当たらなかったので、池袋ヤマハまで行って買い求めてきました。

 私が下書き用に使っている五線紙は、小野崎というメーカーが作っている18段もしくは24段の横長のもの、あるいはマルティーノというメーカーの18段のものです。レポート用紙のように、1枚1枚はがしとれるような体裁で、タブレットと呼んでいます。
 タブレットは縦長のも横長のも市販されていますが、横長のほうが使いやすいと思っています。というのは、手書きで譜面を書いていて、行が替わる時にはけっこう気を取り直す必要があるのです。五線の左端に縦線を書き、それらを大カッコや中カッコでくくり、必要があれば楽器名などを記し、ト音記号やヘ音記号、調号などを書き込み……という、改行の時に必須の一連の作業が、決して面倒くさいというわけではないにしろ、一種の気合いみたいなものを自分の中で掛けなければならない気分があるわけです。あるいはもっと簡単に言えば、一行を書き終わると、なんとなくひと息入れたいような気がするのでした。だから、できれば改行があまり頻繁でないほうがありがたく、従って縦長よりも横長の五線紙を使ったほうが良いことになります。
 もっとも演奏者の立場になると、横長の五線紙に書かれていると、行末から次の行頭まで視線を動かさなければならない距離が長いので、忙しく感じるようで、何度か文句を言われたことがあります。
 なおパソコン作譜の場合は、スクロール入力にしていると改行の必要が無く、いちいち気合いを入れ直すこともないので、その意味でも手書きよりもずっとはかどるようです。
 タブレットは1冊50枚入りで1600円というところで、決して安いものではありません。たかが下書き用ですから、1枚の五線紙を必要な分だけコピーするとかしたほうが安上がりであることはもちろんです。実際そうしていた友人も居ましたが、コピーした五線紙というのは、消しゴムを何度もかけていると汚くなってしまいます。モーツァルトはいきなり完成稿をペン書きしていささかの間違いも無かったと言われていますが、そういう天才ならざる凡輩にはそうはゆかず、繰り返し消しゴムをかけながらより良い音を探ってゆくしかありません。そのためには、やはり紙質なども吟味された、ちゃんとしたメーカーの五線紙を使わないと不都合が生じてしまうのでした。

 最初からそんな五線紙を使っていたわけではありません。子供の頃は、親が買い与えてくれた「五線ノート」に譜面を書いていました。
 いちばん最初のものは、4〜5歳の頃でしたが、1ページに6段の五線が印刷された薄いノートでした。A5判くらいの大きさだたっと思います。そのあと、B5判の12段のノートをしばらく使いました。何冊か、学校で使うような、ちょっとした資料集みたいなページがついたノートを用い、それを使いきると、今度は同じ12段ながら、ハードカバーで製本のしっかりした五線ノートを2冊貰いました。ページ数も多く、小学校の4年生くらいまでそのノートを使っていたのだったと思います。
 小学6年生の時に、どういうきっかけだったか忘れたのですが、上記の小野崎の五線紙を使い始めました。あとで思えば、いわゆる「パート譜用」という五線紙で、見開き両面もしくは片面の、ふたつ折りになったものでした。譜面台に安定して立てられるように、紙質は丈夫なケント紙を使っており、相当に消しゴムをかけても大丈夫ですし、裏写りなどすることも無く、非常に使いやすいと思ったのです。確か最初は知り合いのおばさんがプレゼントしてくれたのではなかったかしら。
 この五線紙はずいぶん長いこと使いました。パソコン作譜をはじめる直前まで、清書用の五線紙として使用し続けていたと記憶します。
 そもそも高校を出る頃までは、下書きなどということもろくろくしていませんでした。いきなりその五線紙に書き始めました。小さい頃使っていたノートとは違って、1枚が2ページか4ページくらいで独立していますので、致命的に書き損じても破棄しやすいという利点がありました。片面のものを表紙にして、中身には両面のものを使い、市販のピアノピースのような体裁にして書きました。
 最初に使っていたのは14段だったと思いますが、16段、18段とだんだん細かい五線を使うようになり、最終的には20段のものを標準として使っていました。ただ、小野崎の20段の五線紙というのは、扱っている店が限られていて、なかなか入手できないこともあり、そのため少し多めに買い溜めする習慣になっていました。
 このパート譜用五線紙、マルティーノからも同じようなものが出ていたのですが、どうも使いにくいのでした。五線紙のサイズもほぼ同じだし、段数も同様なのに、ほんのちょっとした余白の差なのでしょう、私には小野崎製品のほうがしっくりきました。
 小野崎のものもマルティーノのものも、1ページの大きさはA4より少し大きく、コピーなどがとりづらいのが欠点でした。A4におさめるには93%の縮小コピーをかけなければなりません。見開き2ページでコピーをとることも多く、その場合は下手をするとコピー機のガラス面におさまりきらず、端が切れるなんてことも、コピー機の性能が低い頃にはよくありました。東京藝大の生協で、A4ぴったりに入る五線紙を試作していましたが、どうしたものか使いにくくて、私はいちど買っただけでやめてしまいました。

 そんなこんなで、小野崎の「パート譜用」五線紙にはずいぶんお世話になりました。
 あとから考えると、作曲のレッスンの時に持って行った、和声法対位法の課題なんてものにまでその五線紙を使わなくても良かったか、とも思います。何しろ大量に必要でしたし、復習や整理のためにも、ノート式かバインダー式にしておくべきだったかもしれません。いちいち上質のケント紙を用いた五線紙を用いたのは浪費であったようにも思えます。しかし、中学生・高校生の頃には、他のタイプの五線紙を使うなど思いもよりませんでした。
 高校を卒業する頃になって、ようやく下書きと清書を分けるようになりました。そして、下書き用にはタブレットを用いることが多くなったのです。
 ただし、藝大に通いはじめると、下書き用のスグレモノと遭遇しました。学内の大関売店で売っていた五線ノートです。
 これは他では扱っていなかったものではないかと思います。見た目はごく普通の大学ノートという趣きでした。中の紙も、昔の大学ノートによくあった、少し黄色味がかった、あまり高級とは言いがたい紙質でした。そして、大学ノートの罫にあたるのが五線になっていました。五線の印刷色も罫と同じような、薄いグレーでした。
 左右にはまったく余白が無く、端から端まで全部五線が印刷されています。何よりページ数が多いのも気に入っていました。
 在学中に書いた曲の下書きはほとんどこのノートに書いたと思います。卒業してからも、今は亡き混声合唱団誠ぐみの練習のため、しばらくは毎週のように藝大を訪れていたので、その時に大関売店に寄ってこのノートを買っていました。
 誠ぐみが解散し、藝大に立ち寄る機会が無くなって、タブレット使用に戻りました。
 ただし、タブレットは下書き用に使っていたばかりではありません。編曲などはタブレットに直接決定稿を書いていました。横長の譜面について演奏者に文句を言われたのはそういう場合です。
 しかしオリジナル作品については、基本的には、タブレットに下書きをおこない、パート譜用に清書をするという形をとり続けました。

 特注の五線紙というものを作ったこともあります。
 とある有名作曲家の下請けでオーケストレイションをしている話は何度か書きましたが、オペラとか協奏曲とかいうことになると、それこそページをあらためるだけで相当な労力が必要です。何十段にもなる五線紙に、線を引き、カッコをつけ、音部記号を記し、楽器名を明記しなければなりません。しかもそんなのが何百ページにもなるわけです。
 そういう労力を極力省いて作業時間を短縮するために、発注元の有名作曲家と相談して、特別の五線紙をマルティーノに作って貰ったのです。
 木管、金管、打楽器、ハープ、声楽、弦という具合に、最初からグループを作ってカッコをつけておき、主な楽器の略号も印刷しておきました。さらに、曲の途中でヘ音記号からハ音記号に変わったりする懸念の無い楽器については、音部記号までも印刷させました。また、小節線を引く時の便宜のため、ページの上下には1センチ間隔で点が打ってあります。オーケストラ用として至れり尽くせりの五線紙なのでした。
 特注の五線紙というものがわりと簡単に作れるということを知ったので、私個人のための、例えば名前の入った五線紙を、そろそろ作らせても良いかな、と思ったのが、21世紀に入った頃のことでした。実際、先輩や友人にも、自分専用の五線紙を特注している人は居たのです。
 できればマルティーノではなくて、古くから馴染んでいる小野崎に頼みたいものだ……などと考えたりして、しかし特注するとなればそれなりのロットも必要だろうし、だとするとまとまったお金がかかるわけで……等々、踏ん切りがなかなかつかないで居るうちに、私はFinaleを導入してしまったのでした。

 一旦記譜ソフトを使ってしまうと、もう戻れません。私は作曲も編曲も、すべての仕事をFinaleでおこなうようになってしまいました。上記のオーケストレイションの仕事もまた同様です。
 せっかく特注して大量に作ったオーケストラ用五線紙も、用が無くなってしまいました。確か家の中のどこかに、まだひと包みくらい残っているはずです。
 自分専用の五線紙を作らせる必要も無くなりました。必要とあらば譜面にヘッダーやフッターをつけるくらい、Finaleにとっては造作もないことです。買い溜めてあったパート譜用五線紙も要らなくなってしまいました。
 そんな中、タブレット五線紙だけは、オリジナル作品を書く場合の下書き用として重宝しています。逆に言えば、このくらいは多少お金をかけても良さそうな気がします。
 チープな道具を使っていると、チープな作品しか書けない……などとキザなことを言うつもりはありませんが、少なくとも手に馴染んだ道具を使いたいのは確かです。下書き用の五線紙に少しばかり高いものを使っても、バチはあたりますまい。
 ちなみにその五線紙に書くほうの道具、つまり筆記具は、2Bの芯を入れたシャープペンシルを使っています。芯はHBとかだと硬すぎて手が疲れてしまいます。また、シャープペンシルも、こればかりは少し高い製品を使います。いま使っているのは、誕生日にマダムがプレゼントしてくれたもので、もちろん一緒に文房具屋へ行って自分の手にとって選びました。
 清書まで手書きでしていた頃は、筆圧が高いせいもあって、右手の中指がはっきり変形し、第一関節のところには固いペンだこができていました。一生治るまいと覚悟していましたが、パソコン作譜をはじめるようになって、いつの間にかペンだこも無くなり、指の変形も元に戻りました。それどころか作業中の姿勢が良くなって、背骨の曲がりも矯正できたようです。時折、手書きに郷愁を感じないでもないのですが、やはりもう戻れはしないでしょう。

(2014.2.28.)

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