忘れ得ぬことどもII

建国の日──実在と架空の狭間

 2月11日建国記念の日です。
 戦前は言うまでもなく紀元節という名前で、もちろん祭日でしたが、昔の小説や随筆を読むと、学校は休みではなかった様子です。朝は普通に学校へ行き、式典があって、校長先生ほかの訓辞を受け、そのまま下校という流れであったのではないかと思います。会社などがどうであったのかは知りませんが、役所は学校と同様だったのかもしれません。戦前は祭日や祝日というものが単なる休日ではなく、ちゃんと実のある祭礼がおこなわれていました。
 神武天皇が即位した日を太陽暦で換算すると2月11日だということで、明治政府が決めた祭日であるわけですが、日本の建国の日を設定するとすれば、やはり他には考えられません。
 日本は幸福なことに、歴史を通じていまだいちども他国の植民地になったようなことはなく(戦後はUSAの植民地みたいなものではないかという議論はいまは措きます)、そこから独立して国家を建設したということもないので、他の多くの国のように、独立記念日革命記念日を建国の日として設定するわけにはゆきません。
 敗戦の8月15日を「日本が新しく生まれ変わった日」として建国記念日とすべきだ、などという意見もありましたが、長い日本史において、たまたま戦争に負けたということがそれほどの重大事件であるのかと考えると、そのくらいならもっとふさわしい日もありそうに思えます。勝敗は兵家の常で、相手があって争えば勝つこともあり負けることもあり、負けた結果が完全に滅亡とでもいうのなら仕方がありませんが、そういうわけでもないので、生まれ変わったなどというのはだいぶ大げさな話です。

 日本には、少なくとも確実に1500年以上続いている皇室があり、その皇室が実際上の力を持っていようがいまいが、国の統合の象徴としては途切れなく存続しているわけですから、皇室が誕生したとされる日を建国の日とするのは自然なことと考えて良いでしょう。
 他の多くの国の皇室・王室と違い、日本の皇室が「権力」を持った時期はそう長くありません。その中心である天皇ということになるとさらに少なく、おそらく「権力者」であった最後の天皇は桓武天皇でしょう。
 桓武天皇は平安京を建造した人ですから、もう1200年ほど前の人物です。この天皇は確かに自分の考えでどしどし政治をおこないました。桓武の母の高野新笠(たかののにいがさ)は百済系の女性だったと言われ、そのせいかどうかはわかりませんが、桓武は意識的に中国や朝鮮式の帝王になろうとした気配があります。つまり権威と権力を兼ね備えた独裁君主です。
 しかし、その頃ですら、そういう天皇のありかたは異端とも言うべき状態でした。桓武天皇はそれまでの天皇のありかたに疑問を覚えていたからこそ、自分は違うということをアピールしたがったのだと思われます。
 それまでのありかたとは何かと言えば、みずからは象徴的地位に甘んじ、臣下に実際の政治を任せるというもので、要するに現在とまったく変わらず、それが日本の天皇という存在のいちばん安定した形態なのでした。
 桓武天皇以前を見ても、象徴的存在であることに飽きたらず自分で政治をやろうとしたのは、天智天皇天武天皇の兄弟くらいで、もっと遡れば何人か居ますけれども、ほとんど伝承の時代でしかなくなってしまいます。
 その後の歴史を見ても、後嵯峨天皇とか後醍醐天皇とか、ときおり他者に権力を持たせていることに辛抱できず、自分が政柄を握ろうとする人物は現れますが、すべて失敗しています。天皇は日本史を通じて、実際の権力を持たない象徴的存在であるという時期がもっとも普通であり、そういうありかたこそいちばん自然で無理がないという、世界的に見ても特異な世襲君主です。またそれだからこそ、古代から現代まで、いちども途切れることなく続いてこられたのでしょう。
 実際の権力を担うのは、藤原氏であったり、平氏であったり、源氏であったり、その子孫と称する足利氏徳川氏であったわけですが、彼らはいずれも、天皇から認証を受けなければ、その権力の正統性を得ることができませんでした。もちろん認証などというのは形式に過ぎないと言えば言えるのですが、その形式を踏まなければ、誰もついてこないのです。
 日本史上、この形式を無視したかに思われる権力者は織田信長ただひとりですが、彼はよく知られるとおり終わりをまっとうしませんでした。本能寺の変の黒幕が朝廷だったのではないかという推理をときどき眼にしますが、朝廷が実際に明智光秀なり誰なりに密命を下して信長を討ったというのではなく、
 「朝廷の認証を受けていない信長の権力には、正統性がないはずだ」
 と考える者が多かったということではないでしょうか。そうであれば、信長を斃せばそれに取って代われるということになります。信長の横死を見ていた豊臣秀吉が、その轍を踏むまいとして積極的に朝廷に接近したのは、日本においては正しい判断だったと言えるでしょう。ただし、自分の死後に当の朝廷が、掌を返して徳川家康に認証を与えるとは思わなかったかもしれませんが。
 どんな権力者も、天皇ないし朝廷という「象徴」からの認証が無ければ、その権力を行使できないというのが、日本という国の特殊な統治形態であるわけです。認証が強要であってもなんでも、とにかくその形式だけは踏まなければなりません。その点で、現代の内閣総理大臣が組閣のたびに天皇の認証を受けるというのも、古式に則った、由緒正しい儀であると言えます。いまでは立憲君主国はたいていそういう形式をとっていますが、見ようによっては、他の君主国が近代に至ってようやく日本の古来のやりかたに近づいてきたのだという言いかたもできそうです。

 天皇は歴史のほとんどの時期を、権力者としてではなく「象徴」として存在してきました。あるいは「権威の源泉」と言っても良いかもしれません。
 人々が天皇や朝廷の存在を忘れたかのような時代も無かったわけではありません。新井白石のように、天皇は山城国の君主に過ぎないなどと規定した人物も居ます。儒者であった白石としては、日本古来の天皇のありかたがよく理解できなかったのでしょう。彼にとって君主というのは、その領地に一元的な権力を及ぼし、領地や領民をいわば「私有」している、儒学で定義される君主──中国式の帝王でしかありませんでした。儒学には、権力者にその権力行使の根拠を与える象徴的存在などというものは規定されていません。いや、そんな存在を君主とか帝王とか呼ぶ概念が、儒学においてはあり得ないのです。
 しかし、彼の仕えた、儒学的な概念上は日本の国王である徳川将軍に、その権力の根拠を与えているのは、あくまでも天皇・朝廷からの認証にほかなりませんでした。何かの行き違いで天皇や朝廷がその認証を取り消せば、徳川幕府はその拠って立つところを失い、織田信長と同様、斃されるべき存在に成り下がってしまうのでした。
 現行の日本国憲法にはいろいろな欠陥がありますが、天皇を「国民の統合の象徴」とする規定については、大変的を射ていると思います。それ以外のものであった時期は、歴史上ほとんど無いのですから。

 さて、その「国民の統合の象徴」の出発点が、神武天皇の即位であったことも、また妥当な考えかたでしょう。
 この場合、神武天皇そのひとの実在性とか、2月11日という日付の事実性とかは、さして問題ではありません。要は「そのように伝えられている」ということが重要なのであって、日本のように長大な歴史と古い伝統を持つ国の場合は、その建国は神話であって差し支えないものです。
 事実性ということを言い出せば、まず西暦紀元前660年という神武紀元はどう考えてもこじつけっぽく、中国伝来の暦数法を無理矢理あてはめたに過ぎないでしょう。紀元前660年頃といえば縄文時代か、ようやく弥生式文化のきざしが見え始めたという頃であって、現在の市町村程度の規模の小邦があちこちにあったかなかったかという程度です。ただし、縄文時代の日本人が、けっこう広域の交易活動などに従事していたらしいということが最近明らかになってきていますので、のちの大和朝廷の原型となった小邦が、ある程度の優位性を得たというくらいのことはあったのかもしれません。
 しかし、神武天皇のあとの綏靖天皇から開化天皇までのいわゆる欠史八代は、おそらく後世創作されたものだろうという説が有力です。伝えられる名前が、いずれもスタイルとして新しすぎるようなのです。また事績もほとんど明らかになっていません。そして何より、到底信用しがたいような長命ぶりが際立っています。ほぼ全員が、百歳以上まで生きたことになっており、その時代としてはまずあり得ないことです。というか、神武天皇の曾祖父である天孫ニニギノ命は、不美人であった巌長(いわなが)を遠ざけたために、呪いを受けて子々孫々短命ということになったはずで、日本神話はここで自己撞着を起こしてしまっています。
 ちなみにこの異常な長命は15代の応神天皇くらいまで続いており、その前の仲哀天皇が50代で亡くなったとされているのがずいぶん早死にに思えるほどです。これは明らかに、紀元前660年という古すぎる「基点」に合わせるための年代操作であったとしか思えません。たぶん16代仁徳天皇あたりからについては、古事記や日本書紀が編纂された時代からしても、けっこう史料が残っていて、寿命を勝手に引き延ばしようがなかったのでしょう。
 というわけで「本当は」いつ頃に皇室がはじまったのか、そんなことはわからないというのが「科学的」な態度ではありましょう。しかし、紀元前660年ではないにしても、いつの時点かに「はじまりの時」があったはずであり、それが太陽暦で言う2月11日と伝えられているのならば、建国の日をそれにするのは妥当なのではないでしょうか。

 私の個人的な意見としては、神武天皇というのは複数の人物の事績をひとりの英傑に投影したものであろうと思っています。
 10代の崇神天皇は、神武天皇と同じ「ハツクニシラス」という和風諡号を持っています。「初国識らす(はじめて国を知らしめた)」、つまり明らかに、建国を宣言したと読める名前です。「本当の」建国は崇神天皇によって成されたことなのであり、しかし崇神天皇は自分の統治に正統性を持たせるために、何人かの先人の事績をまとめた神武天皇という「先帝」を創造したのだと思いたくなります。また欠史八代は、さらにのちの世になって挿入されたものでしょう。
 崇神天皇の孫にあたる12代景行天皇の御代に、いまだにヤマトタケルをあちこちに派遣してまつろわぬ者を征伐させなければならなかったということは、それまでの11代のあいだに朝廷の力がほとんど拡がっていなかったということになってしまいます。11代、伝承を信ずるならば何百年ものあいだ、一体何をしていたのかと言いたくなります。
 やはり崇神天皇が建国を宣言し、その次の垂仁天皇の代までかけて国力を蓄積し、景行天皇の代に至って俄然外へ向かって征服事業をはじめたというのが、タイミングとしても納得できます。なお、ヤマトタケルというのも実際には個人ではなく、ほうぼうへ派遣された「皇子(みこ)将軍」たちの事績を、ひとりの英雄の生涯として描いたものであろうと思います。だから、実在ではないが架空でもない、というのが正しいところではないでしょうか。神武天皇もそうであり、さらに言えば神功皇后なども同様でしょう。
 古代国家の建国というのは、おおむねそんなもので、最初のあたりはたいてい幽明の境あたりに漂っています。旧約聖書などを見てもわかることです。最初の王(旧約聖書であれば最初の契約者であるアブラハムでしょうか)というのはだいたい、神話と歴史をつなぐような位置に居り、「実在は疑わしいがまったく架空というわけでもない」人物になっています。事柄も、「史実ではないかもしれないが架空というわけでもない」ことが大半です。
 物的証拠が無くとも、多少理に合わないところがあっても、その国の民にとってはそれが歴史的真実なのです。それは近代科学とは別次元の話です。
 あいにくと、そんな「歴史以前」から連綿と続いている国は、現代では日本以外には無くなってしまいました。どの国も、何年何月何日に建国した、独立を果たした、初代の王または大統領が即位した、というようなことは確実なものとして記録されています。他国の史料などからも例証することが可能です。
 しかし日本はそういうことができません。だから
 「建国記念の日には『科学的根拠』が無いので廃止すべきだ」
 などと言い出す、一見「合理的」に見える手合いがあとを絶たないわけですが、これは「事実」だけを重視して「真実」を見ない論であると言えます。
 日本は、ローマ帝国ペルシャ帝国、あるいは古代イスラエル王国などと較べても遜色のない、神話とダイレクトに連続した歴史を持っている、現存する唯一の国なのです。そのことを「非科学的」だなどと恥じる必要はどこにもありません。胸を張って「建国記念の日」を祝えば良いのだと思います。まあ私も今日、建国記念の日だからと言って特に何をしたというわけでもないのですが……

(2015.2.11.)

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