ムハンマドは教祖というより教育者的な人物だったのではないか、という意見をこの前書きましたが、それではイエスというのは実際にはどんな人だったのだろうか、と考えることがあります。 新約聖書以外に文献が残っていれば良いのですが、どうもそんなものも無さそうです。イエスの生きた時代、パレスティナの地はローマ帝国の属州(もしくは植民地)でした。第2代皇帝ティベリウスの治世が、大体イエスと重なります。ローマ帝国の同時代史料はいろいろ残っているはずですが、イエスについて触れたものがあったという話は聞きません。ローマから遠く離れた植民地の片隅で、ぼそぼそと呟いていたような人物について記録する者も居なかったのでしょう。 ユダヤ人は紀元前11〜10世紀頃にかなり強大な王国を築きますが、ソロモン王の歿後、その古代イスラエル王国は分裂してしまいます。北部のイスラエル王国はアッシリアに亡ぼされ、民族の痕跡もとどめなくなりました。いわゆる「失われた十支族」とされるのがこれで、その一部が東へ東へと逃れてついに日本に来ていた、などというトンデモ説がささやかれたこともありました。実際には、アッシリアという帝国は意外とゆるいところがあって、麾下の特定の民族を圧迫するということもなかったため、いつの間にか融けてしまったのでしょう。
南のユダ王国は、イスラエル王国よりもうしばらく国を保ちますが、やがてエジプトに敗れてその支配下に置かれます。そのエジプトが新バビロニアに敗れたので、今度はバビロニアの支配下となります。聖書に言うバビロン捕囚です。実はこの時代が、ユダヤ教が最大の危機を迎えた時でもあり、またはっきりとした形が調えられた時でもありました。というのは、ユダヤ人たちは自分たちの神であるヤハウェ(エホヴァ)を見捨てて、バアルやイシュタルといったバビロニアの神々に、ばたばたと帰依しはじめたのでした。ついには王様まで改宗してしまい、預言者エリヤなどが必死で押しとどめようとしていたわけです。これではいけないというわけで、宗教的指導者たちは、バアルらに対抗しうる理論武装をおこなったのでした。これがユダヤ教の大改革であり、現在の形の教義や、神学の基礎などが打ち立てられたのが、おおむねこの時期でした。
バビロニアはやがてアケメネス朝ペルシャによって亡ぼされます。信仰の危機を間一髪で回避したユダヤの神学者たちは、ここぞとばかりにバビロニアの神々を貶めました。バアルはベルゼブブ、イシュタルはアスタロトという名で、神に仇なす悪魔ということにされてしまったのでした。
ペルシャはゾロアスター教だったはずですが、バビロニアと違って、支配下の民族に宗教を押しつけるということはしなかった模様です。
アケメネス朝がアレクサンドロス大王に亡ぼされると、ユダヤ人たちも当然のようにマケドニア王国の支配を受けるようになりました。さらにアレクサンドロス大王の歿後、その麾下の将軍であったセレウコス一世がセレウコス朝シリアを起ち上げ、その領域に居たユダヤ人たちもセレウコス朝の支配下となりました。
紀元前166年、ユダ・マカバイらがセレウコス朝に叛乱を起こします。この人は「マカベウスのユダ」とも呼ばれます。ちなみに現在、賞状の授受などの時に流れる「勝利を称える歌」は、ヘンデルがこの人物を題材にして書いたオラトリオの中の合唱曲です。後年イエスを裏切ったイスカリオテのユダとはまったく別人ですのでご注意を。「ユダ」というのは民族名(かつての王朝名)ですので、この名を持つ人物はたくさん居るのです。
ユダ・マカバイは叛乱の中で戦死しますが、その後継者たちによってセレウコス朝からの独立が果たされ、ハスモン朝という王朝が誕生します。ユダヤ人が久々に持った自前の王朝でした。しかしこのハスモン朝、慢性的にお家騒動が続いていて、だんだんと人々から見放され、ローマ帝国の後ろ盾を得た地方領主のひとりに亡ぼされます。その地方領主はみずから王位に就きます。これがヘロデ大王です。
大王などと尊称されていますが、実際は唐に対する新羅王、元に対する高麗王みたいなもので、ローマ帝国の属国の王様に過ぎません。しかも帝国からは総督が送り込まれてきて、政治などはその総督のお伺いを立ててやらなければなりませんでした。イエスの処刑の時に総督だったポンティウス・ピラトゥス(ポンテオ・ピラト)が有名ですね。
ヘロデ大王の息子のひとりがヘロデ・アンティパスで、兄の死後その妻を自分の嫁にしたため洗礼者ヨハネに批難され、ヨハネを殺したのはこの人物です。彼も「ヘロデ王」と呼ばれることがありますが、実は王を名乗ることは許されませんでした。大王の歿後、その版図は4人の息子に分割して受け継がれ、そのいずれも王号は名乗れなかったのです。つまりイエスの生きていたちょうどその頃、ユダヤ人には王が居ませんでした。イエスが「ユダヤ人の王」を称したことについて、僭越だという批判はあっても、不敬を責められたわけではなかったのはそのためでしょう。本物の王様が居るところでそんなことを言ったら大変なことになります。
当時のユダヤ教の指導者たちは、ヤハウェが支配するべき自分たちの「王国」と、現実に頭上にあって支配しているローマ帝国とを、どうすりあわせるかということに頭を痛めていたのだと思われます。ヤハウェの王国というのは、彼らにとっては来世とか天国とかで実現されるものではなく、この地上に建設されるべきものでした。しかし実際にはローマ帝国が、そんな王国の建設を許すはずがありません。それでローマ帝国との距離の取りかたによって、いくつもの派閥ができたようです。聖書に出てくる、サドカイ派とかファリサイ派とかいう派閥は、そのあたりで対立していたのでしょう。
イエスも、王国復興を唱えて活動を開始したのであろうと思います。ただ途中から、それが現実には無理であることを悟ったのではないでしょうか。
イエスは母マリアの処女懐胎によって生まれたとされますが、それ自体は偉人によくある異常出生譚のひとつに過ぎないでしょう。中国にも、燕の卵を母が呑んだことで生まれたとか、巨人の足跡を母が踏んで生まれたとかいう古代帝王が居ます。
実は処女懐胎というのは「誤訳から生まれた奇跡」であるとも言われています。ヘブライ語で単に「未婚の女」を意味する言葉に過ぎなかったものを、ギリシャ語だかラテン語だかに訳す時に「処女」としてしまったらしいのです。言うまでもなく「未婚の女」と「処女」は同じ概念ではありません。この説が正しければ、イエスは処女から生まれたわけでなかったばかりか、婚前交渉によって生まれた子だったということになってしまい、その後のキリスト教会の教理から言うと、いささかまずいことになりそうです。「イエスは処女から生まれたが故に原罪を免れている」と喧伝してきた手前、今さら認められないということでもありましょう。
「今さら認められない」ことは他にもあります。イエスに妻子が居たかもしれないという説です。
われわれ異教徒からすると、イエスに妻子が居たって一向に構わないと思うのですが、クリスチャンの友人に訊いてみたところ、それを認めてしまうと、過去2千年近くにわたって司祭や修道士に童貞と禁欲を要求してきたそもそもの根拠が崩壊してしまうので、これも「今さら……」ということになっているようです。
妻が居たとしたら、たぶんマグダラのマリアであったろうというのは衆目の一致するところで、ただ彼女が当時として「罪の女」とされる身分であったがために、表向きにはできなかったのでしょう。「罪の女」というのが娼婦のことなのか、普通に犯罪を犯したことのある女性という意味なのかはよくわかりません。
彼女はイエスが復活した時に、身も世もない様子でイエスに抱きつきます。この行動はどう考えても弟子が師匠に対するものではなく、男女の関係にあった者の振る舞いでしょう。
子供はどうかというと、いろんな説がありますが、私は「13番目の弟子」説が気に入っています。
最後の晩餐の時、イエスは12人の弟子と共に食卓を囲みますが、実はそこにもうひとり居たようなのです。「ヨハネ福音書」にのみ登場するこの弟子は、一切名前が出てきません。「もっとも愛された弟子」と書かれているだけです。福音書を書いたヨハネ本人だろうという説が一般的であるらしく、自分のことなので名前を出さなかったのだろう、とされています。
しかし、ヨハネ伝を読む限り、この名無しの弟子は、最後の晩餐の時にイエスのいちばん近くに居り、そればかりか「胸元に寄りかかって」いたそうです。普通の弟子のありかたとは思えません。
イエスが「この中に裏切り者が居る」ということを言った時、シモン・ペトロがこの弟子に、誰のことを言っているのかイエスに訊ねるよう合図します。それでこの弟子は、イエスの胸元に寄りかかったまま、
「主よ、それは誰のことですか?」
と質問します。
言うまでもなくペトロはのちに初代教皇になる人物で、言ってみれば弟子筆頭みたいな立場です。そのペトロがイエスに直接訊ねられず、この弟子を通してお伺いを立てているのですからただごとではありません。
さらにヨハネ書を読み進むと、イエスが十字架にかけられる時に、母マリアに向かってこの弟子を指し示し、
「見よ、あなたの子である」
と言い、続いて弟子に向かって
「見よ、あなたの母である」
と言っていることがわかります。
また、イエスの復活を察したマグダラのマリアは、ペトロと、この弟子にまず異変を知らせています。
この弟子が出てくるたび、ヨハネ伝の筆者は「もっとも愛された弟子」「イエスの愛しておられたあの弟子」とのみ呼び、決して名前を出しません。ひどい時には、「この弟子は、あの夕食の時、イエスの胸元に寄りかかったまま、『主よ、裏切るのは誰ですか』と訊ねた人である」なんてまわりくどい解説までしています。そこまでして名前を隠したかった理由はなんでしょうか。筆者本人のことだからなどという説明ではとても納得できません。
この弟子がイエスの実子だったとすれば、いろんな疑問が氷解します。イエスが処刑されたのは33〜35歳くらいの時だろうとされていますので、実子が居たとすれば、最後の晩餐の時にはまだ未成年でしょう。「胸元に寄りかかっていた」というのが事実なら、10歳にも達していなかったかもしれません。幼い息子が父親にもたれかかっていたのなら、なんの不思議も無さそうです。またペトロが格別の会釈をもって接していたらしい理由も理解できます。
自分が死ぬとわかった時に、イエスが母とこの弟子にいわば「養子縁組」させているのも納得できます。おそらく「実母」であろうマグダラのマリアは、イエスと正式な婚姻をしていないために、この弟子の法的な母親となることはできなかったと思われます。それで「実祖母」であるマリア(聖母)の養子にして、以後の生活に支障がないようにしたのでしょう。
マグダラのマリアがイエスの復活を真っ先にこの弟子に告げたのも当然です。
「お父様が生きておられたのよ!」
というところではなかったでしょうか。
しかも、ペトロは復活後のイエスに、この弟子の処遇を訊ねています。普通の弟子なら、そんなことを訊ねる必要はありません。実子だったからこそ、今後の教団においてどういう扱いをすれば良いのかということを確かめておかなければならなかったのです。
この弟子は、他の「マタイ伝」「ルカ伝」「マルコ伝」には登場しません。教団はこの弟子を「居なかったこと」にしてしまったのです。彼が成人していれば、あるいは彼を担ぐ者も居たりして、教団は深刻な危機を迎えることになったかもしれません。しかしたぶんまだ子供であったため、母や祖母と共に、ひっそりと歴史の闇に埋もれてゆきました。そういえば聖母マリアやマグダラのマリアの「その後」を記した信頼できる書物は存在しないようです。
イエスは当初、ユダヤ王国の再興を唱えていたと思われますが、だんだんと言うことが変質してゆきます。王国は現世において実現するものではなく、将来、もしくは人々の心の中に建設されるのだというようなほのめかしが多くなります。前にも書いたとおり、イエスの言行は比喩的な表現が多く、あまりはっきり物を言いません。だから「本当は」何を思っていたのか、ムハンマドに較べるとたいへんわかりづらいのです。
王国の地上での復興を望んでいたユダヤ人たちにとって、イエスのこの変節は許しがたいものだったでしょう。心の中にヴァーチャルな王国を作ってなんになる、われわれが欲しいのは「いまここにある王国」なのだ、というのが多くのユダヤ人の偽らざる心境であったと思います。つまるところ、「ローマ帝国の支配を撃退する『奇跡』を見せてみろ」ということです。それができればおまえさんをメシアと認めようではないか。
しかしもちろん、そんな「奇跡」が起こせるものではありません。イエスは「まず悔い改めよ(そうすれば奇跡を見せよう)」と繰り返すばかりです。言を左右にして言い逃れている、と見られても仕方がありません。
かくてイエスは、不遜にも王を名乗り民を惑わした者ということで十字架にかけられてしまいます。
彼は本当は何をしたかったのでしょうか。
地上でユダヤ王国をいますぐに実現するのは無理であり、その「現実」を認めよ、というのが真意だったのかもしれません。そしてその王国を形而上に遷(うつ)すことで、より永遠なものとしての「神の国」をイメージせよ、と言いたかったのではないでしょうか。
実際、その後のキリスト教における「神の国」の概念はそのようになってゆきました。それはもはや「ユダヤ王国」でもなんでもありません。観念上にのみある空想の国です。
ユダヤ教の異端説に過ぎなかったイエスの教理を、ユダヤ人という特定民族から離れて、誰でも帰依できるものに変形させたのがパウロです。パウロはユダヤ人ではなく、ローマ帝国のれっきとした市民、のちの感覚で言えば貴族でした。彼は知る限りの異民族に布教文書を書き送っています。
パウロの布教内容は、イエスの言っていたこととは微妙にずれているというか、換骨奪胎したようなところがあります。ペトロたちイエスの直弟子は面白くなかったでしょうが、属州の住民として、本国市民であるパウロに異を唱えることはできなかったに違いありません。
ペトロ「あの〜パウロさん、ここんとこ、うちの先生が言ってたのとちょっと違うみたいなんすけど……」
パウロ「いいのいいの、こういう風に書かないと、ガラテアやテサロニケの連中にはわからないんだからさ」
ペ「でも……」
パ「いやいや、ペトロさんは教皇なんだから、細かいことは俺に任せて、ど〜んと構えててくださいよ。それにペトロさん、字ィ書いたりするのって苦手でしょ?」
ぺ「まあ、それはそうなんだけど……いいのかなあ」
こんな戯文を書いて、そのあたりの事情を想像してみたことがあります。
教祖的な人物の実像を見据えるというのは、なかなか難しいものがあります。その後の信者たちによって、徹底的な美化と粉飾がおこなわれているに決まっているからです。
それでも、コーランはムハンマドの肉声に近い内容であるだけに、ムハンマドの人となりを想像することはわりと楽にできそうな気がします。
しかし、新約聖書からイエスの実像を汲み取るのは、容易なことではありません。4つの福音書は、近代的な意味での伝記とはほど遠い、いわば布教文書です。しかもその中ですらイエスは、比喩的表現ばかり使って韜晦を繰り返しています。
ホラ吹きか、革命者か、はたまた神の子なのか。その神とはヤハウェなのか、もっと違う神なのか。
信仰の外の世界からあれこれ考察してみるのは、なかなか興味深い作業です。
(2015.2.21.) |