忘れ得ぬことどもII

鴨井玲展・踊り候え

 今日(2015年6月4日)の午後はマダムも私も特に予定が無かったので、美術展を観てくることにしました。東京駅のステーションギャラリーで、「鴨居玲展・踊り候え」というのをやっており、電車の中で広告を眼にしたマダムが行きたがっていたので、足を運ぶことにしたのでした。
 鴨居玲という画家の名はなんとなく聞き覚えがありました。絵そのものはこれまで見た気がしないのですが、なぜか名前だけ記憶に残っていたのです。展覧会場に掲示されていた年譜で、姉がデザイナーの鴨居羊子と知り、いよいよ記憶のどこかが刺戟されるような気がしました。
 先走りますが、展示の最後のほうで、「酔って候」と題された作品がありました。言うまでもなく司馬遼太郎の、山内容堂を主人公にした小説のタイトルです。ここで記憶の連鎖がつながったように思いました。帰宅してから新潮文庫「司馬遼太郎が考えたこと」を繰ってみると、11巻に鴨井羊子展のパンフレットに掲載した紹介文「濃厚な人間」が、13巻に追悼文「人間への稀有な感情」が、14巻に画集に載せたエッセイ「鴨居玲の芸術」が載っていました。15巻に及ぶ厖大な文集に収録してある文章をすっかり憶えているわけではないにせよ、これらを読んだ記憶がかすかに頭に残っていたものと思われます。
 姉弟ともに、司馬遼太郎よりわずかに若いくらいの年代(司馬氏は大正12年、羊子氏は大正14年、玲氏は昭和3年生まれ)で、羊子氏のほうは司馬氏を「フクサン」と呼ぶくらい親しかったようです。フクサンというのはもちろん司馬氏の本名「福田」からの呼称でしょう。彼女は作家・司馬遼太郎ではなく、新聞記者・福田定一として司馬氏を認識していたわけです。
 逆に司馬氏は鴨居玲を、まず「羊子ちゃんの弟」ということで認識したことになります。

 さて、マダムは午前中、飯田橋にあるフランス語の学校に行っていたので、昼頃に東京駅で落ち合いました。ステーションギャラリーは丸の内北口に併設されているのですけれども、落ち合ったのは丸の内南口でした。斜向かいにある「KITTE」の中で昼食を食べてから展覧会に行こうという話になっていました。
 東京駅周辺は、赤レンガ駅舎の復元と並行して、いろいろと再開発が進んでおり、中央郵便局に過ぎなかったところにJPタワーなる38階建ての高層ビルが建ち、その低層部分が「KITTE」と称する商業施設になっています。東京駅とは地下道でつながっています。マダムは先月の「ラ・フォル・ジュルネ」に参加すべく東京国際フォーラムに通った際、いわば通り道にあたるKITTEのことも知ったようでした。飲食店もテナントとしてけっこう設置されているということで、今日の昼食はそこで食べようということになったのでした。
 手持ちの現金がやや心許なかったので、いちおうJP(日本郵便)タワーらしく1階の入口近くに並んでいるATMでお金を下ろし、地下へおりました。少し奥まったところにあった沖縄料理屋でゴーヤチャンプルー定食を食べてから、地下道を歩いて丸の内北口側に移動しました。
 南口と北口は同じような形に作られています。どちらもいくつかの尖塔を持つドーム状で、外周部に若干の空間を持ち、そこに案内所や商業施設などが設置されています。南口のほうは、平塚大川五郎先生との打ち合わせのときに何度か、中にあるカフェなどに行きました。北口はそこがギャラリーになっているというわけです。
 入口から入ると、すぐに受付があり、自動券売機で購入したばかりの入場券を渡して、エレベーターで3階に上がります。3階から2階へと順路が設定されているのでした。

 展覧会は、おおむね時代順に展示されているので、画家の作風や絵画思想の遍歴がよくわかる構成になっていました。デッサン的なものだけ、最後にまとめてありましたが、鴨居玲という画家はデッサンをゆるがせにしないというか、「素描」という訳語が不適当に思えるほどに濃密なデッサンをおこなう人だったようです。中でも鉛筆だけでなくパステルなどを用いたものは、ほとんど完成した絵画に近いような印象さえ受けました。「1枚の絵を描くためには100枚のデッサンをすべきだ」とか、「指にデッサンだこができていない画家は信用しない」とかの発言もあったそうです。
 デッサンに対する力の入れかたというのは、画家によってかなり差があるものらしく、ルノワールなどはほとんどやらなかったと言われています。モーツァルトが下書きせずにほとんどミスの無い楽譜を書き上げていたのと同じことではないか、とマダムが言っていました。その比喩が妥当であるかどうかはともかく、世の中には、「人が苦労するところを軽々と飛び越してゆく」型の天才と、「人が適当に済ませてしまうところをひたすらにこだわって苦悩し続ける」型の天才が居ることは確かで、鴨居玲は明らかに後者の型であったと考えられるのでした。
 とはいっても、前者の型を志したとしても、不可能であったというわけではなさそうです。彼は決して「不遇な芸術家」ではありません。生前世の中にまったく認められず朽ちて行ったゴッホのような悲劇性があったわけではなく、多くの作品がそれなりに栄誉ある賞を受けており、特に後半生は「描けば売れる」画家ではありました。ただそういう自分に満足していられないという難儀なたちであったのでしょう。
 彼が金沢の美術学校(現在の金沢美術工芸大学)を出て創作活動をはじめた戦後すぐの日本の画壇は、抽象画がやたらともてはやされていた頃だったらしく、抽象画にあらざるものは絵画芸術にあらず、というほどの勢いであったようです。その辺はどうも、私の畑にたとえるならば「無調」といったような概念と似たものであったかもしれないと思います。
 鴨居青年も、その趨勢からまったく自由ではなかったのでしょう。初期作品を通して見て感じたのは、画風が次々に変化しているという驚きでした。抽象画もあれば、シュールレアリスムと呼ぶべき絵も何枚もありました。自分がどの方向へ進むべきか、深刻に模索していたのだと考えられます。司馬氏の文を読むと、何やら最初から迷い無く「わが道をゆく」タイプの人であったかのように感じられてしまうのですが、私はむしろ「最後まで迷い続けた」人であったのではないかと感じました。
 やがて鴨居玲は抽象を棄て、具象画に戻ります。抽象画を描くことに限界、というか苦痛を感じたのでしょう。自分の描きたいものはそこには無い、ということを見切ったのに違いありません。
 作曲家で同様の遍歴を辿った人といえば、おそらく林光などが相当するかもしれません。林氏も若い頃には無調の曲を書いています(ピアノソナタなど)が、いかにも性に合わないことをやっている観があり、ある時期から吹っ切れたように、調性的で平明な音楽を作るようになりました。現在では無調というのは、音の響きのパレットのひとつでしかなくなっており、私も好き勝手に調性のある音楽と無調の音楽をとりまぜて作っていますが、「あの年代」で調性音楽に回帰することには、かなりの勇気が必要ではなかったかと思うのです。
 同じような勇気を、昭和30年代の鴨居玲もふるったことでしょう。彼が「不遇であった」「認められなかった」とすれば、たぶんその時期くらいのことだったのではないかと思います。
 たぶん日本に居ることが息苦しくなり、南米へ出かけて、あちこちまわりながら絵を描き続けていました。酔っ払いや老人といった、晩年まで引き継がれてゆくモティーフは、この頃から使われはじめます。司馬遼太郎が鴨居玲の画集をはじめて見たのはこの時期であったようです。

 そのあと、41歳のときに「静止した刻」安井曾太郎賞を受け、ここからは「注目される画家」としての経歴がはじまると言って良いでしょう。
 なおこの「静止した刻」は、受賞したヴァージョンと、少し構図の違うヴァージョンがあり、背景の暖炉らしきものが無かったり、人物配置が異なっていたりします。2枚並べて掲示されていたので比較しやすかったのですが、どちらにしろ、サイコロ賭博に興じている男たちを描いたものです。構図の違うほうのヴァージョンでは、サイコロのひとつに3の目がふたつ描かれており、意図的なのかミスなのか議論があるとのことでした。
 私はけっこうこの絵をじっくり見て、受賞したヴァージョンのほうにも、ありえないサイコロが描かれていることに気がつきました。1の目と6の目が隣り合っているではありませんか。もちろん、サイコロというのは「裏返した目どうしを足すと7になる」ようにできており、1と6が「隣り合う」ということはありえません。添えられた解説がそこに触れていないのが不思議です。してみるとこの絵はイカサマ賭博の絵なのであり、別ヴァージョンの「3の目がふたつ」というのもおそらく意図的だったのではないでしょうか。
 ともあれ、彼はその後、スペイン、そしてフランスにしばらく暮らします。スペイン時代の作品は、ゴヤを思わせるような明暗の使いかたが見られるようになります。実際、19世紀なかばのスペインの画家の作品であると言われても納得できるような色調と構図が多用されています。やはり好んで描いたのは酔っ払いと老人でした。画家はこの頃から、酔っ払いと老人に感情移入するあまり、

 ──彼らは、実は私自身なのだ。

 と感じるようになってきた気配があります。
 それと同時に、「教会」のモティーフがよく現れるようになりました。彼の描く教会は、実在の教会と違い、一切の装飾が無く、窓も扉もないのっぺらぼうの建物で、それが荒れ野に立っていたり、傾いて地中に埋まっていたり、宙に浮いていたりするのでした。具象画を愛した画家ではありましたが、教会のモティーフだけは、シュールレアリスム的な扱いをし続けたようです。ラピスラズリのような鮮烈な青一色で描かれた、宙に浮く教会の絵は、マダムが非常に気に入っていたようでした。
 この特異な「教会」のモティーフの意味は、なんとなくわかる気がします。私の恩師であった神野明は、西洋音楽を演奏するのであればキリスト教を理解しなければならないと考えてみずから受洗しました。同じような動機でクリスチャンになる音楽家は少なくありません。鴨居玲も、西洋画を描いてゆくためにはキリスト教がわからないといけないのではないかという焦りを覚えたのではないでしょうか。特に醇朴なカトリックの多いスペインの小村に滞在してその気持ちが強くなったのでしょう。ところが、彼はキリスト教のどこかに違和感を持ち続けたものと思われます。受洗しようとは考えなかったのです。扉も窓もない教会のモティーフは、キリスト教の中に決して入り込めない自分を象徴しているとしか考えられません。
 それでは、西洋画をやっている自分とは何者なのか。「ニセモノ」なのではないのか。
 そういう切実な疑問を抱いたまま、画家は日本に帰ってきたのでしょう。

 帰国後、鴨居玲は裸婦像などにもチャレンジしますがあまり得るところ無く、憑かれたように自画像を描き続けます。
 晩年の自画像群を見ていると、自分とはいったい何者なのだ、という悲鳴が聞こえてくるような気がします。その問いに答えるためだけに、次から次へと自画像を描き続けたように思えました。
 いままで描いた絵のオールスターキャストが再登場している「1982年 私」などは、私が見ると何やら昔の「東映まんがまつり」的なスペシャル感を覚えるのですが、画家にとってはもちろんもっと深刻で、これから何を描いてゆけば良いのかという問いかけになっているのでしょう。
 自画像はどれもこれも同じ、口を半開きにしたうつろな表情しかしていません。ポーズも過去の酔っ払い作品とあまり変わっていないようです。明らかに行き詰まりが見られます。
 しかし世間的な評価はどんどん上がっていたようで、毎年のように何かの賞を受賞していました。胸に4つの王冠をつけた自画像である「勲章」は、それらの受賞を皮肉ったものだと言われていますが、私にはこれも皮肉というより悲鳴に感じられます。私個人の勘ぐりに過ぎませんが、この絵からは、

 ──得るべきでない栄誉を得てしまっている自分への嫌悪。

 といった気分が、むしろ強く訴えかけてくるのでした。

 ──おれは何も産み出せていない。これからも産み出せそうにない。自分が何者かということすらわかっていない。それなのに、これはなんなんだ?

 具象画は、彼が国外を彷徨しているあいだに、国内でも復権がおこなわれていました。そうなると彼は、その復権のさきがけとしてもてはやされるようになります。「具象展」と名づけられた展覧会すら開催されるようになりました。彼は先覚者として胸を張っても良かったところですが、とてもそういう気にはなれなかったのでしょう。
 キリスト教に入り込めずに西洋画を描いている自分が何者なのか、「ニセモノ」ではないのか、という疑問には、まったく答えが出ていないのですから。

 昭和60年、57歳で鴨居玲は世を去ります。「ミスターXの来た日 1982.2.17」で描かれているように心臓の持病もあったようですが、自殺ではないかとも言われています。30代での南米旅行のときから、自殺を考えていたということです。
 理解できるとは言いませんが、彼の死と同じ50代となった私の感覚だけで言えば、彼は

 ──表現したいことと、表現できること

 のギャップに苦しみ続けた人ではなかったかという気がします。技術的には卓越した才能を持ちながら、それでは表現しきれない「想念」があり、結局その「想念」の表現方法を見つけることができなかった人だったのではないでしょうか。
 これは実は、表現者にとっては、作品が全然売れないことよりも、もっと悲劇的です。佐村河内守氏もそうだったのではないかと私は最初思いました。どうやら見当はずれであったようですが、当初は、「大交響曲を書きたい→しかし自分にはその技術が無い→技術を持った人にこの想いを形にして貰おう」という切実な道筋でゴーストライター事件を起こしたのではないか、いやせめてそういうことであってくれ、と考えていたのでした。
 私自身は、幸いにいまのところ、「表現したいこと」を自分の技術水準からそうはみ出ない範囲で設定できています。しかし大学に入った頃まではそうではありませんでした。たいていその時点での自分の技術レベルをはるかに超えた構想ばかり立ててしまい、未完で終わってしまった習作の多いこと多いこと。それがもし40代50代まで続いていたとしたら、どうもしんどいなあ、と思わざるを得ません。鴨居玲は、そのしんどさを乗り切ることが、おそらくついにできなかった人だと思うのです。

 マダムもいろいろ思うところの多い美術展であったようで、

 ──いままで見てきた美術展でいちばん感動した。

 と言っていました。彼女が鴨居玲に興味を持ったのは、「蛾」という作品の構図の完璧さに惹かれたからであったようですが、そういうテクニカルな面を超えた何かを感じとることができたのでしょう。

(2015.6.4.)

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