忘れ得ぬことどもII

移民という問題

 この年末年始(201516年)、ヨーロッパ方面では何やら大変なことになっているようです。
 パリで同時爆破テロ事件が起こったのは昨年11月でしたが、ケルンでは大晦日の晩に想像を絶した規模の集団暴行事件が発生しています。千人単位の中東や北アフリカからの移民たちが、駅に居た数百人のドイツ人たちに襲いかかり、物を奪ったり女性に乱暴したりしたというのですから、ただごとではありません。幸い死者は出なかったようではありますが、移民たちのあいだになんらかの統一された意思があったのではないかと警察では見ています。
 だとすると、偶発的な不幸な事故とか行き違いとかいった問題ではなく、計画された暴動、すなわちこれもまたテロであったと考えられます。占拠した街での掠奪強姦、乱暴狼藉は、ついこのあいだまでほとんどの戦争時におこなわれていた「儀式」みたいなものであり、ケルン駅に群がった移民たちは、街を制圧したような気分だったのかもしれません。
 ここまで大規模な襲撃事件ははじめてだったかもしれませんが、実は昨年中、北欧の都市などでも似たような事件が発生していたということです。それがあまり報じられなかったのは、ヨーロッパ各国で進められている移民受け容れ政策の妨げになっては良くないということで、当局が発表を控えていたからだという、信じがたいような話も伝わってきました。「報道しない自由」は、日本のマスコミのお家芸かと思っていたら、いずこも同じであったようです。

 移民受け容れ政策というのは、一見人道的でもあるし、人口減対策や労働力対策の面からも、ついこのあいだまで、世界的趨勢であるかのような風潮がありました。日本があまり難民申請を通さないというので、経済人やメディアはこぞって批難していましたし、欧米からの圧力もあったようです。
 これからますます必要になる介護職の数が少子化で減る一方で、移民に来て貰うしかない……人口は国力であり、このまま人口減を放置していては日本は亡びる……高度なスキルを持つ移民だけ受け容れることにすれば、治安の悪化はあり得ない……多文化共生こそこれからの道である……そんなご高説をどれだけ聞かされたことでしょうか。
 少子化で労働力が減り、国力も落ちる、というのは、耳に入りやすい議論です。日本社会の少子化は誰が見ても明らかですし、人口構成がいびつになって、介護を受ける立場の高齢者が多いわりには介護をする立場の若年層が少なくなっているのは確かです。だから移民を入れるべきだ、と言われれば、そんなもんかな、とも思えてしまいます。
 しかし、移民というのは一旦受け容れてしまうと、用が済んだからお帰りください、というわけには決してゆかないものです。ここ10年ほどは確かに団塊の世代が後期高齢者に突入し、お年寄りがやたら多い社会が続くかもしれませんが、高齢者の数もその後減ってゆくわけで、そうなったときに、団塊の世代の人口規模に対応して受け容れた移民をどうするのでしょうか。それに移民だって齢をとり、働けなくなれば福祉の世話にならざるを得ません。従って福祉予算は減らせないことになります。
 そもそも人口が国力だなどというのは、古代中国の春秋時代くらいならいざ知らず、ずいぶん古臭いことを言うものだと私は思います。それなら人口が多い国ほど国が富んでいなければおかしいわけですが、中国インドUSAインドネシアブラジルパキスタンナイジェリアバングラデシュロシア……と日本より人口の多い国々を並べてみても、日本よりなんらかの意味で富んでいる、豊かだ、と感じられるのはUSAしか無さそうです。中国がGDPで日本を抜いたなどと言っても、ひとりあたりということになればまだ全然及びもつかず(たぶん10分の1以下)、しかも貧富の差が烈しいこともあって、ちっとも社会が豊かになっている気がせず、なんらうらやましさを覚えません。
 老子「少国寡民」などという言葉を持ち出さなくとも、日本より人口もGDPも低くて、それでもずっと人々が豊かで幸せな暮らしをしていると感じられる国だっていくらでもあるわけです。国の人口というのは、国土の広さやその利用形態などによって適正な規模というものが決まっているもので、多ければ良いというようなものではありますまい。
 日本の人口は江戸時代に3000万人くらいで、自給自足を旨とするならたぶんそのくらいが適正なのでしょう。自給自足という時代ではないとしても、現在では8000万人くらいがちょうど良いような気がしてなりません。1億3000万人というのは、日本の国土にしてはどう考えても多すぎると思います。
 「1億人とか8000万人くらいまでは減っても良い、などと思っていると、たちまちそれ以上に減ってしまって、日本は衰退の一歩をたどることになる」
 と警鐘を鳴らす論者も居ますが、どんなものでしょうか。人口が減れば税収も減る、それに内需が減るから企業活動の規模も小さくなる……というわけでしょうけれども、すでに規格大量生産という時代でもなく、企業のスケールメリットもそれほど顕著ではなくなってきています。こういうことを言う論者は、やはり古い企業観に囚われているのではないかと思いたくなります。

 高度なスキルを持つ移民だけ受け容れる、などという皮算用が通用するとも思えません。だいたいそんな高度なスキルを持つ人なら、本国でも大事にされるでしょうし、政治的経済的な理由で外国に移るとしても、日本に来てくれる必然性はあんまりありません。
 また、そういう移民が単身でやってくると思うのは大間違いであって、たぶん家族ぐるみで来るはずです。日本のような核家族であることはむしろ少なくて、養わなければならない人の数はずっと多いでしょう。当人の稼ぎだけで食って行けるとは思えず、いずれ税金などでなんとかしなければならなくなるでしょう。
 また、移民推進派の経済人は、なんの根拠も無く、移民労働者は日本人より安い賃金で働いてくれると信じているように見えます。それでも本国に居るよりはずっと高収入になるはずだ、ということでしょうが、最初の1年くらいはだまくらかすことができても、すぐに日本人と同等の給料を要求するようになるに決まっているように私には思えます。なぜと言って日本で暮らす以上、支出規模は日本人と同程度にならざるを得ません。福利厚生だって同等のものを与えなければ済まなくなるでしょう。
 要するに、労働力として移民を受け容れても、長いスパンで見ると収支はマイナスになると思われるのです。
 実際、今回の事件のあったドイツでも、長らくトルコ人移民を安く使ってきています。安く使われるトルコ人からすると、確かに本国に居るよりは豊かな暮らしができるかもしれませんが、やはり納得の行かない気分でしょう。いろいろと問題も起こり始めています。
 そこへ、さらに100万人規模で、中東や北アフリカからの移民を受け付けるということにしたのですから、何も起こらないほうが不思議と言えます。

 トルコは基本的にムスリムが多いのですが、ずいぶん長いことヨーロッパ世界と接しているだけに、それでもかなり共通する価値観が培われていると見て良いでしょう。
 しかし、中東や北アフリカから直接やってきたムスリムは、ものの考えかたがそもそも根本的に異なっていると思ったほうが確実です。
 ケルンの事件にしても、

 ──難民である自分たちを受け容れてくれた大恩あるドイツで、なんてことをするんだ。感謝の念は無いのか。

 とわれわれは思ってしまいます。しかし、彼らの感覚では違うのでした。
 彼らの新天地を拓いてくれたのは、彼らの感覚ではドイツ人ではありません。あくまでもアラーの恩寵なのです。アラーが異教徒をして道を拓かせてくださった、というのがイスラムの考えかたになります。従って、ドイツに対する感謝の念などはありませんし、恩があるとも思っていません。彼らには、人間、ことに異教徒に対して「感謝する」という感覚が備わっていないのです。
 事件を起こして警察に拘束されたとき、

 ──おれたちはあんたんとこのメルケルに招かれて来たんだ。鄭重に扱って貰おう。

 とうそぶいた者も居たそうです。これが実は本音ではなかったでしょうか。つまり、来てはみたものの思ったほど鄭重な扱いをされなかったので、怒って騒ぎを起こしたのかもしれません。
 そしてまた、「異教徒から奪う」ことは、ムスリムにとっては正義にほかなりません。トルコあたりのすれっからしのムスリムは、ヨーロッパのキリスト教の国々とさほどの摩擦なくやってゆくコツをつかんでいますが、これまで接触の少なかった地域の連中には、そんな世間智は無いと考えるべきでしょう。コーランの教えのまま、異教徒から奪うことが善だと考えている者がほとんどだと思います。
 ここまで考えかたや価値観の異なる人々を、厳密な審査も無く無造作に受け容れるというのは、やはりいささか無謀であったのではないでしょうか。早くもドイツの民間では移民排斥の動きがはじまっており、隣のオーストリアに押し戻す事例も出てきています。押し戻されたオーストリアのほうだっていい迷惑でしょう。ドイツが受け容れるというから、中継地の役割を果たすだけのつもりだったでしょうから。
 ドイツ首相メルケル女史の、いともうるわしい人類愛に基づいてはじまった移民受け容れ政策は、その最初の段階で頓挫してしまったと言えそうです。彼女の失敗は、自分たちの西欧的な価値観や道徳律が、世界のどこでも普遍的に通用しているものだと誤解してしまったところにあったように思えます。困窮した難民を迎え入れてやれば彼らは満腔の感謝の念を抱き、受け容れ国のために尽くしてくれるだろうと夢想したのに違いありません。
 肌の色や顔立ちの異なる人々が一致協力してひとつの社会を築いてゆく……その理想は確かに甘美なものです。しかし、そんな世の中が実現するためには、まだしばらくの時が必要であることが、甚だ残念な形で証明されてしまったのでした。

 日本にも、上記の「安い労働力を期待している経済人」とは別に、メルケル女史と同じような夢想を抱いた人々が、かなりの数存在したように思います。
 彼らは口を揃えて「ドイツや北欧を見倣え」と言い、移民受け容れに積極的でない日本政府を批難し続けてきました。
 ドイツや北欧の現実が明らかになってきて、あげくにケルン駅事件が起き、一転して移民受け容れに難色を示すようになった現在、彼らはどう考えているのでしょうか。
 移民受け容れを大いに推進していたある新聞は社説で、ケルン駅事件に触れつつ、
 「こんなことで移民を排斥するようになってはいけない。人類の叡智を働かせて共存する方法を探ってゆくべきだ」
 というようなことを主張していました。思想というものはすぐには方向転換できないだろうという点は同情しないでもありませんが、無責任な言論であると言わざるを得ません。受け容れる側が一方的に人類の叡智を働かせても、押し寄せる側にその気が無ければ解決のしようが無いではありませんか。
 少し前に曾野綾子氏が、移民を受け容れるのは結構、仕事を一緒にやるのも結構だが、少なくとも住む場所だけは分けたほうが良い、ということをコラムに書いて、差別主義者だなんだとさんざん叩かれたことがありました。クリスチャンの立場から、紛争地を含む世界各国をまわってきた曾野氏の、長年の実感を込めた提言であって、私などはまことにもっともなことだと思ったのですが、上に書いた「肌の色や顔立ちの異なる人々が一致協力してひとつの社会を築き上げる」という「甘美な理想」に酔っていた人たちにとっては、許し難い暴言に思えたのでしょう。
 それからついこのあいだは、はすみとしこ氏のイラストが話題になりました。難民の少女の写真をイラスト化し、

 ──安全に暮らしたい/清潔な暮らしを送りたい/美味しいものが食べたい/自由に遊びに行きたい/おしゃれがしたい/贅沢がしたい/何の苦労もなく/生きたいように生きていきたい
 他人の金で。
 そうだ 難民しよう!

 というキャプションをつけたイラストがネットに出回るや、ものすごい批難や抗議と、それに負けないほどの称賛と共感とが捲き起こったのでした。その相反する反響が、また見事に左右の陣営に分かれていたことから、なんだか踏み絵みたいな扱いとなり、フェイスブックなどでこのイラストに共感を示した人々の実名を、あろうことかネットセキュリティ会社のそれなりの地位の人物(この人は反対派)がリストアップして晒し上げるなどといった騒ぎになってしまいました。こうなるとどう見ても職権濫用、という以上に職業倫理違反というものでしょう。
 ひとことで難民と言っても、戦火を逃れてきた戦争難民も居れば、自国の権力者に弾圧迫害されて逃げてきた政治難民も居ますし、自国では生活が苦しいので少しでも楽そうなところに移住したいという経済難民も居るわけです。はすみ氏のイラストのキャプションは、この最後の経済難民のありかたをおちょくった内容と言えるのですが、実在の少女の写真を利用した手法そのものはどうかと思われるにしろ、キャプションについては

 ──その通りなんじゃないか?

 と、誰もがどこかで思ってしまうところがあるのではないでしょうか。「甘美な理想」派がこのイラストをことさらに批難罵倒したのは、その理想の無理さ加減、甘さ加減を無遠慮に突きつけられたような想いを感じたせいであったかもしれません。真実とは、往々にして不愉快なものなのです。

 移民を受け容れるとしたら、現状の日本ではまだ全然準備ができていないのは明らかでしょう。安易な理想や博愛主義だけで突っ走ると大変なことになります。
 少なくとも、法を犯した場合には容赦なく本国に送り返す厳しさを持つことは必須の条件だと思いますが、いつぞやのカルデロン事件みたいなていたらくを見ると、とてもいまの日本にそれだけのコワモテは期待できそうにありません。そもそも子供がかわいそうだというので不法滞在を見逃せなどと言い出す「支援者」が、相当数の支持を受けてしまうこと自体、移民という現実にシビアに向き合う能力と覚悟を、現在の日本人が欠いてしまっていることの証明になりそうです。
 子供がかわいそうだというなら、なぜ法を犯すようなことをするのか、と問うのが、まあ普通の考えかたでしょう。子供が日本語しかしゃべれないなどというのは理由にならないのが世界標準です。しかし現在の日本社会では、それでは冷たすぎると思ってしまう人が多いのではないでしょうか。
 もちろん、支援者は居ても構いません。ただその場合は、個人の好意と支出によって支援すべきであって、国や社会に負担を求めるのはお門違いです。
 ……という割り切りかたができるようにならないうちは、とても移民など受け容れられる状態ではないと思うのです。曾野氏やはすみ氏の書いたこと程度で、差別主義者だなんだと大騒ぎする手合いが絶えないうちは、まあ難しいでしょう。
 要路の各位には、目先の労働力確保などというお題目に惑わされず、先の先まで検討し尽くして、日本社会にとっていちばん佳い形を選んでいただきたいと思うばかりです。

(2016.1.15.)

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