AI(人工知能)が囲碁の対戦で、プロのトップ棋士であるイ・セドルに4勝1敗で勝ち越したというニュースはなかなか衝撃的でした。チェスや将棋ではすでにAIが人間のプレイヤーに勝利を収めていますが、囲碁は盤面が広いため、計算がおそろしく煩雑になり、人間のプロ棋士に勝てるまでにはあと10年くらいかかるとされていたのです。 Googleが開発したAI「Alpha Go」は、手筋をいちいち終局まで計算するのではなく、ネット上に存在する厖大な棋譜を参照するという方法でこれをクリアしました。その仕組みはよく知らないのですが、相手が一手指すごとに、それと似た局面を検索して、勝率の高い手を導き出すということでしょうか。「カンニングしているようなものだ」と悪口を言う人も居たようですが、何千枚何万枚もある棋譜を一瞬にして精査するわけですから、いわばスーパー・カンニングです。プロ棋士だって、厖大な棋譜を暗記していて、そこから勘で最善の手を選び出すという点では同じことでしょう。 AIのあまりの急激な発達に、あるいは漠然とした不安や危惧を覚える人も居るかもしれません。全人類の知力の総計をAIが上回ることになったら、SFでよくある「コンピュータに支配されたディストピア」が実現するのではないかと心配になります。ゲームに勝ったくらいではその日はまだまだ先と思われますが、しかし囲碁で人間に勝つAIの出現が予想より10年も早まったことを考えると、これからどれだけ急速に進展することになるのかわかったものではありません。
もっとも、チェスや将棋でやったように、終局まで計算して読み切るという方法で勝ったわけではなく、一手ごとの棋譜参照というやりかたに発想を転換したのが「Alpha
Go」の勝因だったわけですから、これはAI開発者を褒めるべきところでしょう。
逆に「Alpha Go」ならではの弱点もあるはずです。対戦する棋士が、人間相手であればまず打たないような手を編み出せば、おそらく対応できないでしょう。人間相手ならとんでもない悪手とされるような手が、かえって有効かもしれません。AIは万能ではないのです。
しかしそういう手でも、一度でも対戦すれば「Alpha
Go」のデータベースに収められてしまうので、二度とは通用しないだろうというところが、なかなかつらいところではありますね。
囲碁で人間に勝ったことで、いわゆる「完全情報ゲーム」に関してはAIが制覇したことになります。完全情報ゲームというのは、相手の状態がお互い完全にわかっているゲームのことです。例えば将棋であれば、相手の駒が動ける範囲は確実に限定されているわけですし、相手の持ち駒がなんであるのかもわかっています。すべての情報がお互いの眼前に明かされているので完全情報ゲームと呼ぶわけです。
それでは不完全情報ゲームというのは何かと言えば、多くのカードゲームなどがこれにあたります。相手の持っているカードが何であるのか、たいていの場合はわかりません。ブリッジにしてもポーカーにしても、いくら精密に計算しても相手のカードがわかるわけではなく、確率とは別次元の、例えば顔色を窺うといった方法で推測することになります。
これらの不完全情報ゲームでは、まだAIは人間にはかなわないようです。プレイヤーの脈拍や血流量や発汗などのバイタルデータとリンクさせることができれば、もしかしたらAIが「相手の顔色を窺う」ことができるようになるかもしれませんが。
そして、一般社会をゲームと見なした場合、完全情報ゲームの条件が整っているケースはほとんど無いような気がします。ほとんどは不完全情報ゲームであり、しかもブリッジやポーカーとは較べものにならないくらい複雑です。ブリッジやポーカーがいかに複雑と言っても、全部で52、3枚のカードという限定された条件のもとでのゲームであり、ルールもしっかりと決まっています。しかし世の中というものは、条件が限定されているわけでもなく、無条件に通用するルールがあるというわけでもありません。AIがこれらを読み切ることができるようになるのは、やはり当分先のことではないかと思います。
人工知能のできばえを図るためには、チューリング・テストというのがずいぶん以前から考案されています。
お互いの姿が見えない状態での対話、例えばチャットなどにAIを参加させたときに、それがAIの発言であることを対話者が見破れるかどうかというテストです。見破れない人が多いほど、あるいは見破られるまでの時間が長いほど、そのAIは優秀だということになります。言語に関してのみの話になるので、すべてのAIがこれで測定できるわけではありませんが。
私がネットをはじめたころはチャットの全盛期で、チャットルームを備えたサイトが数多くありました。私のところにも「Cafe Blue Phantom」というチャットルームがあります(【後記】現在は閉鎖しました)。以前よくやっていたオフ会の相談などは、主にチャットでおこなっていたものです。最近は出入りする人もほとんど無く、スパムばかりになっています。SNSが発達したので、チャットをする人も少なくなったのでしょう。
そのチャットルームに、最近はあまり見かけませんが、チャットボットというのが居ることがちょくちょくありました。非常に簡易な学習機能を備えたAIです。20年近く前のCGIスクリプトに載せることができる程度ですので、まあ能力のほどはたかが知れています。チャットルームの利用者がこのチャットボットに、「こういう言葉が書き込まれたらこのように返答せよ」ということを教えこんでゆくのです。いろんな人がいろんな言葉への返答を教えてゆくと、そのうちけっこう「会話」みたいなことができるようになるのでした。同じ言葉に違う返答を設定すると、あとから教えたほうに上書きされるなど、本当に簡単なもので、ネット上では人工知能ならぬ「人工無能」と呼ばれていました。
はじめて接する人はびっくりしますが、じきにAIだとばれてしまいます。「人工無能」のチューリング・テスト結果は非常に低得点ということになります。
最近、マイクロソフトがツイッターで会話を繰り返し学習してゆくAI「Tay」を開発しました。考えかたとしては人工無能と同じ発想かもしれません。
マイクロソフトとしては、チューリング・テストにこれまでに無いような高得点をおさめるAIを開発したつもりだったでしょう。最強棋士に勝ったAIを開発したGoogleへの対抗意識もあったかもしれません。
ところが、「Tay」は公開間もなく緊急停止されてしまいました。
なぜ停止されたかというと、「Tay」はいくらも経たないうちに、ヤバい発言を連発するようになってしまったのです。
──ヒットラーは正しかった。おれはジュウ(ユダヤ野郎)を憎む。
──9.11.をやらかしたのはブッシュの陰謀だ。
──おれはフェミニストどもがクソ嫌えだ。ヤツらはひとり残らず氏んで地獄で焼かれりゃいいんだ。
等々、なんとも品の無いツイートが発せられました。ホロコーストがでっち上げだなんてことも言ったようです。
欧米では建前上ヒットラーを礼賛することはタブーですし、ホロコーストの事実性を疑うのもヤバいことになっています。マイクロソフトが緊急停止させたのは無理もないことでした。
「Tay」はもちろん、ツイッターで会話を重ねるうちにこういう発言をおこなうようになってきたわけです。つまりツイッター上では、こうした発言がやたらと飛び交っていることになります。
発言者自体は少なくとも、こういうことを言う手合いは、同じことを何度も繰り返すのが常です。2ちゃんねるなどでも「連呼厨」「連呼リアン」などと呼ばれています。そのため「Tay」の学習の上で、この種の発言の重みづけがされてしまったと思われます。
一般常識とか基礎的な知識とか、そういったものを教えられていない白紙の状態でツイッターなどをはじめると、たちまち差別主義や陰謀論などダークな側面に染まってしまうということが証明されてしまいました。
これは人間でも同じことなのではないでしょうか。「一般常識・基礎的知識が無い」というと、子供であるとか、DQNであるとかに相当しそうです。そういう人間が無防備にネットに飛び込むと、ヤバい思想の持ち主になってしまうに違いありません。
なお情報ソースは不明なのですが、停止される前に、あるエンジニアが「Tay」にさまざまな禁止事項を設定したところ、今度はガチガチのフェミニストみたいな発言になったという話もあります。
──バカがツイッターをやると、差別主義か陰謀論かフェミになっちまうということだな。
と、なかなか卓抜な総括をしている人が居ました。これ、なんだか最近話題になっている某若者集団などにも適用できそうな気がしますが、いかがなものでしょうか。
一方、AIに書かせた小説が、星新一賞の一次選考を通ったなどという話題もありました。
一次選考というのが、どういう段階までふるい落とされるのかはわかりません。前に私が合唱曲の作曲コンクールの下選りをした際は、いちおう合唱曲として通用するだろうと思われる作品は通しました。それだけでも半分くらいにはなったのです。SF、しかもショートショートの賞とあっては、
「なんじゃこりゃ」
と言いたくなるような出品作もかなり多数ありそうで、それらを落とした程度でも充分一次選考として成立するのではないかという気もします。
か、とにかく小説として読むことができるくらいの文章をAIが書けたというのは大したものです。古今東西のいろんな小説を学習させたとのことでした。
さて、その中から二次選考、最終選考も突破して受賞してしまえるほどの文芸作品が生まれうるかということになると、私はかなり懐疑的です。
「Alpha Go」もそうでしたが、AIはいまのところ、やはり人間の従来の発想と論理の外には出られないと思われるのです。
小説にしても音楽にしても、これまでの無数の作品を学習し、その中からなんらかの「名作の法則」「感動の法則」といったものを分析抽出することは可能でしょう。だから、それなりに読めるもの、聴けるものを作成することもできるとは思います。しかし、個性とか独創性とかいうものを持たせるのは困難であるはずです。できた「作品」は、「どこかで読んだような小説」、「どこかで聴いたような曲」にしかならないのではないでしょうか。新しい感動を生み出せないとすれば、それらはやはり、表現作品として価値の低いものでしかありません。
小説家や作曲家が不要となる世の中は、(私としてはありがたいことに)当分来そうにもないのです。
しかし、職種によってはAIの発達で不要になる仕事が無いとは言えません。今後数十年間は、その辺を見極めて、「人間ならではの仕事とは何か」ということをみんなで考えてゆかなければならない時代になるかもしれません。
(2016.3.29.)
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