忘れ得ぬことどもII

テヘラン無差別テロ事件

 ロンドンでテロがあったと思ったら、こんどはテヘランです。国会議事堂とホメイニ廟が同時襲撃され、銃撃によって12人が死亡、40人余りが負傷しました。
 そして例によってISによる犯行声明が出ました。イラク軍クルド民兵により、ISはかなり追いつめられつつあるという話もあり、なりふり構わなくなっている観があります。
 フランスベルギー英国などと違い、イランはイスラム教国です。ISがイスラム教国でなぜ無差別テロなんか起こすのかと不思議に思う人が居るかもしれませんが、ISというのは本来、シリアとかイラクとかが接するあたりに不法に土着した武装集団であることを忘れてはいけません。そのあたりにもとから住んでいた人々は、あるいは追い出され、あるいは誘拐され、あるいは殺されてしまっています。彼らはほとんどがムスリムだったはずです。
 最近、先進諸国でのテロが目立っていましたけれども、ISによってもっとも深刻な被害を受けているのは、同じイスラム教徒たちにほかなりません。イラク軍やクルド民兵というイスラム教徒の軍勢がISに攻め入っているのも、ISの動きがムスリムたちから見ても眼に余るものだったからでしょう。
 イスラム教の指導的立場の人々がコメントして欲しいと私が繰り返し望んでいるのも、それゆえです。ISは異端であり、連中に影響を受けて惹き起こすテロ行為などは決してジハードではなく、アラーの思し召しに背くことなのだと声を上げてくれれば、各国でのテロリストの蠢動はかなり収まるのではないかと思うからです。

 そういうわけですから、ISもしくはそれに影響を受けた鉄砲玉が、イランで事を起こすのは決して不思議なことではありません。特にイランという国は、イスラム教の中でも主流派であるスンニー派ではなく、どちらかといえば少数派であるシーア派が幅を利かせています。宗教という世界では、異教よりも異端のほうが許せないという空気になることも多く、スンニー派から異端と見なされるシーア派が攻撃目標にされることは珍しくありませんでした。かつてのイラン・イラク戦争なども、根本にはこのスンニー派対シーア派の対立があります。
 ではそのスンニー派とシーア派はそもそもどこが違うのかということになります。長年繰り返されてきたいがみ合いの深刻さから判断して、教義の解釈によほど抜き差しならぬ対立があったのではないか……と思いたくなるところですが、実は外から見ると、拍子抜けするようなことでしかありません。
 つまり、ムハンマドを教祖とした場合、その死後に教団をまとめたのがカリフ(教父)であるわけですが、最初に指導者になったのがムハンマドの親戚で親友でもあったアブー・バクルでした。この人はイスラム教の最初の入信者だったとも言われます。
 アブー・バクルが3年ほどで亡くなると、次に指導者に選ばれたのがウマル・イブン・ハッターブでした。もともとはムハンマドの教義に敵対的であったそうですが、コーランを聞いて改心し、以後ムハンマド麾下の猛将としてアラビア半島の制圧に功のあった人です。10年あまりにわたって教団を率いました。
 ウマルの死後指導者の座に就いたのがウスマーン・イブン・アッファーンで、彼はコーランの読誦に長けた人でした。ムハンマドの死後、いろいろな版が乱立していたコーランをひとつにまとめたのが彼であったと言われています。ウスマーンは13年ほどその地位に居ましたが、叛乱を起こされて殺害されます。
 その次に指導者になったのがアリー・イブン・アビー・ターリブ、彼はムハンマドの従弟であり、かつムハンマドの娘ファティマの夫でもありました。アリーの母はムハンマドの父の従妹であり、息子を持たなかったムハンマドにとってはもっともつながりの濃い血族だったと言えます。
 シーア派というのは、このアリーがムハンマドから直接後継を託されたと見る立場で、従ってアブー・バクル、ウマル、ウスマーンの3代の指導者を正統なカリフとは認めていません。
 一方スンニー派は、3代の指導者をもカリフと認め、アリーを4代目カリフと見ています。
 両派の対立点というのは、枝葉を切り落としてみればそれだけのことで、なんでそのために長年殺し合わなければならないほどの理由になるのか、部外者にはさっぱりわかりません。

 アリーの立場は不安定で、シリア総督ムアーウィヤと対立し、小競り合いを続けていました。しかし不毛な争いにいやけがさしたのか、あるときムアーウィヤと和解しようとします。ところが、ムアーウィヤを一貫して批判していた側から見るとこれは裏切りと感じられたらしく、アリーは和解反対派に暗殺されてしまうのでした。この和解反対派は、のちハワーリジュ派として何かと小うるさい存在になってゆきます。
 ムアーウィヤはアリーの死を受けてカリフに就任し、かつウマイヤ朝を開いて自らの地位を世襲させることにします。アリーの子孫のみを指導者(シーア派では「イマーム」と呼びます)と考えるシーア派は、当然ウマイヤ朝には従わず、迫害を受けました。ウマイヤ朝を容認するスンニー派との溝が拡がったのはこのためでしょう。
 イスラム教の中の各派の対立というのはおおかたこんなもので、教義に関する深刻な意見の対立といった性質のものではありません。シーア派の中でも、誰と誰をイマームと見なすかによっていろんな派閥が誕生し、5イマーム説をとるザイード派、7イマーム説のイスマイール派などが派生しました。現在のシーア派本流は12イマーム説です。
 もう勝手にやってくれと言いたくなります。人間とはこんなつまらぬことで千年以上も殺し合える生き物なのかと絶望したくもなります。勝手にやってくれとは思いますが、それが無関係な人々を巻き込む無差別テロになるのでは放ってもおけません。
 イスマイール派のさらに分派であるニザール派などは、一時期は暗殺教団と呼ばれたほどにテロを繰り返しました。しかしこのときも、対立する派の要人を狙ったのであって、無差別テロはやっていません。ISは暗殺教団よりもっと悪辣と言えるのです。

 イランが伝統的にシーア派であるのは、民族的な理由もあるという説があります。イラン人というのはアーリア人種であり、大別すれば白色人種に属します。セム語族に属するアラブ人とは全然別の系統です。そしてはるかな古代から非常に高い文明を築いてきました。
 イランの前身であるペルシャ諸王朝は、旧約聖書にも何度も大国として登場します。ユダヤ人たちを主に圧迫したのはエジプトとかバビロニアとかの勢力でしたが、ペルシャはその強大なエジプトやバビロニアを軽々と破ってしまう存在でした。懐も深く、旧約聖書にはペルシャから迫害されたという形跡は見当たりません。
 ペルシャ諸王朝は、伝統的にゾロアスター教を奉じています。教祖ゾロアスター(ツァラトゥストラ)は紀元前11世紀頃の人とされ、お釈迦様や孔子様なんかよりさらに500〜600年くらい遡ります。名の伝わっている最古の宗教家でしょう。ゾロアスター教では、この世は光明神アフラ・マツダと暗黒神アンリ・マンユの闘争の場とされ、人はいずれ勝利するアフラ・マツダを信じて善行に励むべし、というのがその根本教義でした。ユダヤ教などの一神教、日本やギリシャなどの多神教に対し、双神教の典型と言われます。
 ちなみに自動車メーカーのマツダのアルファベット表記が「Matsuda」でなく「Mazda」であるのは、このアフラ・マツダを意識しているからです。
 現代にこそ残っていませんが、ゾロアスター教はかなりの大宗教であり、そのもとで輝かしい古代文明を築き上げてきたペルシャ諸王朝の記憶は、後世にも色濃く受け継がれました。
 アケメネス朝ササン朝などの古代文明が光り輝いていた時期、アラブ人などは辺境の蛮族に過ぎませんでした。
 そのアラブ人の中から興ったイスラム教が見る間に強大化し、ササン朝をおびやかすに至ったのは、ペルシャ人たちにとっては意外でもあり、口惜しくもあったことでしょう。ササン朝を亡ぼしたウマイヤ朝はアラブ至上主義で、敗者であるペルシャ人たちは相当にイヤな想いをしたと思われます。
 イラン地域から興隆してウマイヤ朝を打倒したアッバース朝は、アラブ人の特権をすべて停止し、いかなる民族であってもイスラム教を奉じる限り平等に扱うことを旨としました。イスラム教が史上もっとも急速に拡大したのはアッバース朝のもとでのことで、イベリア半島の大半までイスラム化されたのはこの時期です。基本的に民族差別ということのないアッバース朝に、多くの民族が従い、そしてイスラムに改宗したのでした。
 アッバース朝の保護下、学術や芸術も発展し、まさにイスラム黄金時代を築き上げました。ギリシャ哲学などが整理されたのも実はアッバース朝でのことで、当時のヨーロッパはまだ後進地域に過ぎません。
 タラスの戦いでは高仙芝将軍に率いられた唐軍を撃破し、そのときの捕虜から製紙法も伝わりました。紙が学術文化の振興をさらに促したことは言うまでもありません。

 古代からの長い栄華、巨大帝国アッバース朝の栄光……これらはいまに通じるペルシャ人=イラン人の誇りです。彼らはアラブ人などの下風に立つことを決して潔しとはしないのです。イスラム教の中でも、あえて少数派であるシーア派を奉ずるようになったのは、いろいろな歴史的事情もあったとはいえ、アラブ人のような「野蛮な連中」とは違うのだという矜恃が連綿と受け継がれたからに違いありません。
 このような「蔑視」はまた、それを受ける相手に敏感に伝わるものです。アラブ人側がイラン人を好かんヤツらだと思いはじめるにも、そう時はかからなかったことでしょう。
 ところがイスラム教には、さらに第三の勢力が登場します。トルコ人です。
 トルコ人も長い歴史を持つ民族で、古代には主に中国の周辺民族として記録されています。犬戎鉄勒突厥など、tやkの子音を持つ族名で呼ばれている北方異民族はたいていトルコ系とされます。
 アッバース朝を亡ぼしたのはモンゴル帝国でしたが、モンゴル勢力は短期間で姿を消し、そのあとの空白地帯に入り込んできたのがトルコ人たちでした。というより、もともと数の少ないモンゴル人に大挙して付き従ってきたトルコ人たちが、モンゴル人が撤退したあとで自前の王朝を起ち上げたのです。
 トルコ人たちはアラブ人もイラン人も等しくその支配下に置き、カリフの座をも奪いました。トルコ人によるオスマン朝はほぼ500年にわたって中東地域を支配したのです。
 イスラムの宗派対立には、実はアラブ・イラン・トルコの3大民族の三つ巴の確執があり、そこにさらにクルドなどの少数民族がからんでいるため、宗派としての対立の理由こそ上のように些細なことであるにせよ、そのわだかまりは容易に解きほぐせない状態に陥っています。

 イランはそんなわけで、イスラム諸国の中でもわりに他と足並みを揃えず、「わが道をゆく」ところがあるようです。
 1979年に革命が起こって、皇帝パフラヴィー2世(パーレビ国王)が追放されたわけですが、パフラヴィー朝のふたりの皇帝は、いずれも近代化路線をとり、欧米諸国などともうまくやってゆこうとしていたようです。
 この路線がうまく運んでいれば、もしかしたら、私が何度も書いている「イスラムのプロテスタント化」が可能になったかもしれません。つまり、パフラヴィー帝の意を汲んだ形で、イスラム指導者の誰かが、西洋文明と折り合うことの可能な神学的根拠を築き上げることができていれば、そういう流れにもなっていたのではないかと思うのです。アラブとは違うという立ち位置を常にとってきたイランであれば、それが受け容れられる可能性もありました。
 実際、その徴候はあったのかもしれません。それで危機感を覚えた原理主義者のホメイニらが立ち上がり、パフラヴィー帝を追い出してしまったのです。パフラヴィー帝は、少し急ぎすぎたのかもしれません。もう1代くらいかけて、じっくりと国内を改革してゆけば、ホメイニのような過激な原理主義者を突出させることなく、新たなイスラムの形を呈示し得ていたような気がします。まあそれは「歴史のイフ」の範疇になってしまいますが。
 ともあれ、そんなイランですので、ISの標的になるということも充分に考えられることではありました。アラブ系の過激派にとってみれば、欧米人やユダヤ人も敵ですが、ペルシャ人も憎たらしい存在にほかならないのです。ISもホメイニも、同じように「イスラム原理主義者」と見られているわけですが、そのISがホメイニ廟を爆破しようとするという、外部から見ているとなんとも不思議な現象も、歴史を鑑みれば、ちっともおかしなところはないということがわかるのでした。
 とはいえ、イラク軍に攻められているいま、イランまで敵に回したとなると、ISの命運もそろそろきわまったかもしれません。
 スンニー派のほうでも、カタールが周辺のアラブ諸国から一斉に国交を絶たれるという事件が起こっています。イスラム教の中には、大きな求心力を持つ存在がどんどん無くなっているようでもあります。もちろんそれは平和を意味するのでなく、脈絡のないテロ事件が世界中で頻発する事態につながりかねない、むしろ危険な状態と言えます。難しい局面です。

(2017.6.8.)

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