忘れ得ぬことどもII

カタルーニャ独立運動

 スペインの北東部カタルーニャ自治州で住民投票がおこなわれ、有効投票中9割がスペインからの独立に賛成したというので驚きました。もっとも投票率は4割台であまり高くなく(棄権した人が多かったらしい)、マドリッドの中央政府がおとなしく独立を認めるとも思えないので、今後眼が離せないところです。
 しばらく前に、英国でもスコットランドが独立するかどうかで住民投票がおこなわれました。そのときは僅差で独立反対派が票を制し、かろうじて英国分解ということにならずに済んだのでしたが、今回の独立推進9割というのは、いくら投票率が低かったと言ってもおそろかにはできない数字です。
 カタルーニャは大都市バルセロナを中心とする地域で、スペインの中では比較的豊かなところです。それだけに、その富を貧しい他地方のために吸い上げられることに対して不満が高まっていたとも言います。たぶんここがスコットランドとは違う点で、スコットランドはグラスゴーなどの工業地帯はあるにせよ全体としてはそう豊かでない地域であり、英国に属していたほうが経済的に有利だという判断があったものと思われます。これに対し、カタルーニャはスペインから独立したほうが有利と踏む人が多かったということになるのでしょう。
 バルセロナなどでは、観光客があまり多くなりすぎて対応しきれず、あまり観光客を呼ぶなという地元住民のデモが起こったりもしていたようです。日本も観光立国などと言って浮かれている場合ではないかもしれません。

 それにしても、カタルーニャがスペインに統合されたのは、スコットランドとイングランドが連合王国としてまとまったのよりはるかに前の1479年のことで、もういい加減融け合っていても良さそうなものなのに、まだ地域対立が激しいことに驚かされます。
 スペインの歴史については、何度か触れたことがありますが、長いことイスラム帝国(アッバース朝、次いで後ウマイヤ朝)の支配下にあった点、他のヨーロッパ諸国とは毛色が異なっています。
 アッバース朝は非常に懐の深い大帝国で、当時としては最先端と言って良い学術文化を誇っても居ました。イスラム帝国ですからイスラム教を厚遇したのはまあ当然でしたが、キリスト教やユダヤ教に対しても一方的な迫害はせず、一定の人頭税(ジズヤ)を納めれば自由に活動できました。またアラブ人至上主義のウマイヤ朝を打倒して生まれたイラン系の帝国なだけに、国内での民族差別などもほとんど無かったと言われます。ギリシャローマの学術・人文遺産を直接引き継いで整理発展させたのは、当時まだ中世的停滞の中で国盗り合戦を繰り返していたキリスト教圏ではなく、このアッバース朝でのことでした。
 8世紀末に至って、ウマイヤ朝の王族のただひとりの生き残りであるアブド・アラフマーン1世が、イベリア半島のアッバース朝勢力に打ち勝ち、コルドバでウマイヤ朝を再興しました。これを後ウマイヤ朝と呼びますが、地域的にも、またベルベル人との混血とされるアブド・アラフマーン1世の血筋的にも、ウマイヤ朝のアラブ人至上主義は受け継がず、統治形態としてはむしろアッバース朝のやりかたを踏襲しました。民族差別はおこなわず、他宗教の迫害もほとんどせず、何よりも学術文化の振興に努めたのです。コルドバの栄華は、同時代のバグダッドほどではありませんでしたが、ヨーロッパでは疑いもなく最先端の文化都市でした。ヨーロッパ最大の図書館もこの街にあったのです。

 が、そこに領土的野心に燃えた侵略者たちが攻めてきました。たぶんヨーロッパの他の地域の勢力が大体定まって、これ以上大きくなれないという事情があったものと思われます。彼らはキリスト教の旗を掲げ、ピレネー山脈を越えて襲いかかってきました。
 「再征服レコンキスタが彼らの合い言葉でした。イスラム勢力に征服されたイベリア半島を奪還しよう、というのが大義名分でしたが、実のところ奪還と言っても、ローマ帝国の版図であったということ以外には特に根拠がありません。イベリア半島が明確なキリスト教勢力のものであったことはそれまでの歴史上いちどもありませんでした。ただ、ローマ帝国がコンスタンティヌス帝のときにキリスト教を国教としたことをもって、かつてのローマ帝国の版図はすべてキリスト教勢力のものであると牽強付会しただけのことです。
 つまり、「国土回復運動」などというきれいごとめいた訳語が不適当なばかりか、「再征服(レコンキスタ)」の「再(レ)」の字も、キリスト教側に都合良く捏造された語法と言えるのです。ありようは侵略以外の何物でもありません。
 しかも、当時の文化状況を考えれば、「野蛮人による文明の蹂躙」だったと言えます。われわれはなんとなく、キリスト教圏が常に文明的であったかのように錯覚してしまいますが、キリスト教文明が他よりも先行し始めたと認められるのは、せいぜいルネサンス以降のことです。つまりここ600年ばかりの話に過ぎません。それ以前、少なくともアッバース朝や後ウマイヤ朝が健在だった時代については、圧倒的にイスラム教圏のほうが高度文明でした。十字軍なども、野蛮人の所業としか思えません。
 イベリア半島への侵略者たちは、いくつか拠点となる街を陥として自分たちの支配地としました。ある程度それが進んだところで、ローマ教皇からカスティーリャ王アラゴン王レオン王などの称号を貰ったものと思われます。
 後ウマイヤ朝のほうも黙ってやられていたわけではなく、帝国の威信にかけて侵略者たちに対抗しようとしました。イベリア半島は日本の1.5倍ほどの広さがあり、しかも高原や山岳が多い地形ですので、戦況は一進一退でしたが、後ウマイヤ朝側はやや文弱に流れた気配もあり、じりじりと押されてゆきました。
 侵略者たちの支配地域では、キリスト教の信仰が強制され、イスラム教徒やユダヤ教徒は迫害されることになりました。それまで平和に共存していた人々が、いきなり改宗か追放かの選択を強いられることになったのです。よくイスラム教の布教を「剣かコーランか」などという言葉で貶めますが、レコンキスタ期の侵略者たちこそ「剣か十字架か」を強引に迫った連中であったと言えるでしょう。
 生きるためにキリスト教に改宗する人々も多く、そうした人々はコンヴェルソと呼ばれました。「改宗者」と訳されていますがこれもきれいごとな感じで、ニュアンスとしては「転向者」のほうが近そうです。表向き、コンヴェルソは一般のキリスト教徒と平等に扱われましたが、陰ではマラーノ(豚野郎)と呼ばれて蔑まれたのです。これだけでも、どちらが文明的だったかわかろうというものです。
 後ウマイヤ朝はこの圧迫を前に内乱状態となり、1031年に最後のカリフであるヒジャーム3世が評議会により追放されて滅亡しました。ただし、これはイスラム勢力の壊滅というわけではなく、州くらいの規模の小王国が乱立しました。これをタイファ諸国と呼びます。セビリャ王国サラゴサ王国グラナダ王国トレド王国などが有名なところです。しかしこうなってしまうと、キリスト教諸勢力に対しての抵抗力が一挙に弱まります。タイファ諸国は北アフリカのイスラム勢力であるムラービト朝ムワッヒド朝に頼ってキリスト教勢力に対抗しようとしましたが、かえってムラービト朝やムワッヒド朝に支配されたりして、あまりうまくゆかなかったようです。そしてムワッヒド朝が衰えると、もう頼れるものもなく、仲間割れも相次いで、キリスト教勢力に各個撃破されてしまいました。最後に残ったグラナダのナスル朝が滅亡したのは1492年のことでした。なおナスル朝の栄華のなごりが、いまに残るアルハンブラ宮殿です。

 グラナダの陥落で、レコンキスタ──キリスト教勢力による征服が完了しました。
 そのずっと以前から、侵略者たち同士の中でも勢力争いが始まっています。まずカスティーリャ王国とレオン王国はもともと親戚関係みたいなもので、ときに争い、ときに同君連合を組んだりもしていましたが、1230年にカスティーリャ王フェルナンド3世がレオン王位も継承して両国は統一されました。
 トレドに本拠地を置いたカスティーリャ王国は、セビリャやコルドバなどのタイファ諸国を次々と攻略し、15世紀後半に女王イサベル1世が即位した頃には、すでにイベリア半島で最大の版図を持つ王国に成長していました。この女王の治世下に、グラナダが陥落しています。
 この時点で、アラゴンとカタルーニャも同君連合を組み、アラゴン王国となっていましたが、ヨーロッパ統一の野望に燃えたハプスブルク家カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)は、ありとあらゆる手練手管を用いて各地の王位を我が身に集めようとし、その過程でカスティーリャ王・アラゴン王の位も獲得し、さらにナバーラ王・バレンシア王・マヨルカ王なども兼任し、ここにスペインが統一されました。カルロス1世の称号はスペイン関連だけではなく、ナポリ王シチリア王ブルゴーニュ公ブラバント公ルクセンブルク公ミラノ公フランドル伯ネーデルランド君主などきわめて多数に及んでいます。彼はカール大帝の再来を呼号し、本気でヨーロッパ統一を目論んでいたのです。
 しかしさしもの辣腕家カルロス1世も、ポルトガル王位は奪えなかったため、ポルトガルはイベリア半島の独立国としていまに至っています。
 残念ながらカルロス1世の野望は、フランスによる妨害やプロテスタントの擡頭、それにオスマン帝国との戦争に敗れたことで実現しませんでした。彼の退位後、ネーデルランドはオランダとして独立し、他の地域も別の勢力に奪われましたが、「スペイン王国」だけはそのまま残りました。現在のスペインはヨーロッパではフランスに次いで大きな国土面積を持っています。

 とはいうものの、スペインは基本的には封建国家であり、隣国フランスのように中央集権を強力に推し進めることができませんでした。各地方の独立性はかなり高く、言語や文化もそれぞれのものが根強く残っています。
 この前演奏会をおこなったガリシアなども、辺境の地で人口も少ないとはいえ、独自の文化と言語を持つ地域です。ナバーラ、つまりバスクに至っては、そもそも語族さえ違っています。バスク語は屈折語(数や性や格によって語そのものを変化させる言語)であるインド・ヨーロッパ語族ではなく、むしろ日本語に近い膠着語(「てにをは」によって語をくっつけてゆく言語)です。
 そしてカタルーニャも、いわゆるスペイン語(カスティーリャ語)とは違うカタルーニャ語を用いる地域です。もちろんカスティーリャ語も通じますが、バルセロナの街中を歩いていると、道端の看板でカスティーリャ語とカタルーニャ語が併記されていたり、カタルーニャ語だけ書かれていたりするので、ちょっとびっくりします。
 まあ、バスク語のように根本的に異なる言語というほどではなく、同じローマン語(ラテン語)系統に属するのだとは思われ、文法などはさほど違わないのですが、単語はいろいろ違っていて興味深いものがあります。
 私が思わず笑ってしまったのは、カタルーニャ語のcaixaの意味を知ったときです。これは「カイシャ」と発音するのですが、英訳するとofficeの意味になります。つまり「会社」なのでした。会社組織ではなくて単に事務所のことなので、完全に対応した言葉とは言えませんが、それにしてもすごい一致です。私はバルセロナに行くにあたって、現地でオペラを観ようと思い、ネットで苦労して予約したのですが、その過程でcaixaという言葉がちょくちょく出てきたために印象深かったのでした。
 ともあれ、カタルーニャはスペインの他の地域、カスティーリャ勢力については、もともと含むところがあったのだと思われます。大阪人が東京人に対して要らぬ対抗意識に燃えているというのとはわけが違うのでしょう。
 住民投票だけで独立が決まるというものでもなく、まずは中央政府との折衝をしなければならないでしょう。また国際的にも、特に周辺諸国に独立を認められなければ、うまくゆかないと思います。うまくゆかなかった結果、武力闘争などがはじまってしまっては、収拾がつかなくなりそうです。バスク人の反政府組織ETAはしばしばテロをおこなっていますが、バルセロナ近辺でもカタルーニャ・テロが頻発するようになってはたまりません。
 バルセロナといえば、サグラダ・ファミリアがあと9年とかで完成するという話で、マダムはぜひその完成を見にゆきたいと言っているのですが、内戦状態にでもなったらそれどころではなさそうです。

 イスラムテロに加え、各地で少数民族の反政府活動が頻発し、まさかの先進国内での独立運動までもが活溌化してきました。しかもスコットランドとかカタルーニャとか、
 「え? 今さら?」
 と言いたくなるような地域が中央政府に叛旗を翻しはじめています。どうにもカオスな状況と言わざるを得ません。このさき世界はどうなってゆくのでしょうか。
 日本にはそんな問題は無い、と言いたいところですが、沖縄独立論なるものが横行しはじめています。
 スコットランドやカタルーニャのケースと違って、沖縄独立論には、明らかに背後に中国が居ることがわかるので、きな臭いことこの上ありません。中国の思惑としては、沖縄を日本から引き離しておいて影響下に置き、太平洋への出口を確保したいわけです。影響下どころか、頃は好しと見ればチベット同様に吸収してしまうに違いありません。この中国の思惑と煽動に、米軍基地反対派が乗っかったのが沖縄独立論です。
 沖縄の人々が、独立することによってより幸せになる公算が大きいのであれば、独立を応援するにやぶさかではないのですが、いまのところ悲惨な未来しか見えないので、賛成するわけにはゆきません。独立派(というほどのパーセンテージは無いと思いますが)の皆さんには、ヤマトンチューよりもさらに立派な日本人たろうと雄々しく闘った戦争中の人々、またUSAの統治下で一日も早い本土復帰を願い続けた人々、そういう父祖の想いを無駄にし去りたいのか、と問いかけたいと思います。

(2017.10.3.)

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