外国へ行くと、慣れ親しんだ名前などがまるで違った発音で言われるために面食らうということがよくあります。私などの畑で言えば、例えばクラシックの作曲家の名前が「誰それ?」と言いたくなるような発音になっていたりします。
バッハBachが、英語圏ではたいていバックと発音されるので、一瞬誰のことかわからなかったり。
ベートーヴェンBeethovenも、ピートホーヴンというような発音になることがあります。
フランス語圏などではもっとひどいことになっています。モーツァルトMozartはモザール、シューベルトSchubertはシュベールと読まれます。フランス語では語尾の子音を読まないことを知っていても、イントネーションが変わるためにわからなくなってしまいます。
一方ショパンChopinはフランス語読みのほうがポピュラーですが、たいていの国ではチョピンという発音になります。彼の故国であるポーランドでも、読みかたはチョピンです。 ──チョピンとはおれのことかとショパン言い 元ネタはゲーテGötheの「Oウムラウト」をカタカナ表記することの困難さから ──ギョヱテとはおれのことかとゲーテ言い という川柳が詠まれたのですが、ショパンについてもそのパロディが詠まれています。チョピンと発音してしまうと、なんだか妙にユーモラスで、あの名曲の数々にそぐわないような気がしてしまいます。
ドヴォルジャークとなると大変な騒ぎで、綴りはDvořákなのですが、この「ř」などはそもそも日本人には無理ではないかと思われるようなヘンテコな子音です。他の国では、添え記号を無視してドヴォラックのように発音してしまうことも多いようです。ドヴォルジャークというカタカナ書きは、まさに苦肉の策なのでした。 日本人はそれでも、なんとか原語での発音を写し取ろうと努力しているほうではあると思います。ヨーロッパ人同士だと、上に見たように、平気で自国語の発音規則に引き寄せて読んでしまいます。
これがクリスチャンネームになるとさらに顕著で、綴りがどうあろうと自分の国の流儀で発音してしまったりします。例えば英語のジョンJohnは聖書に出てくるヨハネが元になった名前ですが、いちばん近いのはドイツ語のヨハンJohannでしょう。フランス語ではジャンJean、スペイン語ではフアンJuan、イタリア語ではジョヴァンニGiovanni、ロシア語ではイワンИванと変化します。冒頭に挙げたバッハのうちいちばん有名な「大バッハ」はヨハン・ゼバスティアンJohann Sebastianという名前ですが、英語圏ではいともあっさりと「ジョン・セバスチャン」にしてしまうのでした。名前の国ごとの変化を知っていれば良いようなものの、これも予備知識がないと面食らいます。
そういえばマイケル・ジャクソンのことを、私の学生時代、わざと「ミヒャエル・ヤックゾーン」などと呼ぶのがはやりました。あえてドイツ語読みにしたわけです。しかしヘタをすると、ドイツでは本当にそう呼ばれていたかもしれません。ちなみにマイケルは大天使ミカエルが元になっています。フランス語ではミシェル、スペイン語ではミゲル、イタリア語ではミケーレ、ロシア語ではミハイルと変化します。考えてみると、このように各国での発音を、正確にではないにしてもいちおう写し取れるカタカナというのは、なかなかすごい言語ツールと言えます。
そこで気になるのが、英国人にせよフランス人にせよロシア人にせよ、自分の名前を外国人からそれぞれの発音で呼ばれた場合、どう感じるのだろうかということです。
アシモフの『黒後家蜘蛛の会』の中で、月例会食にフランス人ゲストが登場する回がありました。ゲストの名前はジャン・セルヴェJean Sérvesと言って、紹介されたとき、会員のひとりが
「ジョン、とお呼びしてもよろしいですか」
と訊ねます。セルヴェ氏の答えて曰く、
「そう呼ばれても殴りはしません」
とのことでした。仕方がないとは思うがやや不快である、という感じですね。そのセルヴェ氏は、会員でもとから知り合いだった作家のルービンRubinのことを、つい「リュバン」と呼んでしまってしょっちゅう直される、とも言っています。このゲストが出てくる物語そのものも、ある名前の英語読みとフランス語読みの違いというところをネタにしています(あいかわらず、原文では「読みかた」をどう文字にしているのかが気になりますが)。人によっては相手の言語に引き寄せて名前を呼ばれることに拒否反応を示す人も居るということでしょうか。 文字が共通していると、どうしても自分の言語に引き寄せて読んでしまう傾向があるのでしょう。外国人の名前をできるだけ原語読みに近い形でカタカナ書きしようとする日本人も、相手が漢字を用いていると、その配慮が薄れがちになります。と言っても、現在ではもう、漢字名を持っているのは日本人の他、韓国人と中国人と台湾人だけになりましたが。北朝鮮では漢字は廃止されましたが、人名と地名だけはまだ使うのかもしれません。
漢字が使われていると、つい日本語の漢字の読みかたで読んでしまうのですが、それがつまりモザールとかシュベールとかの読みかたに相当するのでしょう。
中国人・台湾人は、そのことに対してさほどとがめ立てはしないようです。毛沢東をマオツェドンではなくモウタクトウと読んでも怒る人は居ませんし、李登輝もリトウキで問題はありません。これについては陳舜臣氏がエッセイで書いていたことがありますが、中国人の場合、同じ漢字を用いていても、地方によって発音が全然違うので、日本人が日本語発音で読んでも一向に気にしないとのことでした。例えば陳という字は、北京官話ではチェンですが、福建あたりだとタンという発音になり、日本語のチンのほうがむしろ北京官話に近いのだそうです。そして日本の標準語とは違い、中国では北京官話が「正しい発音」であるという意識はきわめて低いらしいのです。確かに、もともと満洲なまりの発音が元になっていますので、あんまり「われらの標準語」という気にもなれないのでしょう。
対照的に、極度に気にするのが韓国人です。私の子供の頃に金大中氏の拉致事件やら朴正熈氏の暗殺事件やらがあって、その頃はニュースで確かに「キンダイチュウ氏」「ボクセイキ氏」と言っていましたけれども、いつの間にか「キムデジュン氏」「パクチョンヒ氏」などと読まなくてはならないようになっていました。現在の大統領文在寅氏にしても、どんな嫌韓サイトを見てもおおむねムンジェインと表記してあります。わざと「ざいとら」などとイヤガラセのように書いたり呼んだりしていることはあるものの、あだ名としてはムンたんとかムンムンとか呼ばれることが多いようで、ブンザイインと日本語の音読みにしてあるのを見たことはありません。
こうなったのは、確か崔なにがしという在日韓国人がサイさんと呼ばれて腹を立て、訴訟を起こしたのがきっかけではなかったかと記憶しています。日本語で読まれるのは不愉快であって、ちゃんとチェと呼べ、ということでした。そう言われても日本人にとって、それぞれの漢字の朝鮮語読みなど知るよしもないことで、一体どうしろと……というのが一般的な反応であったようです。ともあれこの事件以後、テレビのニュースなどでも韓国人名・朝鮮人名は現地発音に近い読みかたがなされるようになり、よくある苗字などは日本でも大体読みかたが周知されました。 私も中学校で講師をしていた時分、李くんという生徒が居て最初呼びかたに迷いましたが、五十音順になっていた名簿で最初のほうにあったので、なるほどリくんではなくイくんなのだな、と納得したことがあります。ただ李という姓は中国人にもごく普通で、日本の落語の熊さん八つぁんというようなニュアンスで「張三李四(チャンサンリースー)」という言葉さえあります。そちらはリで良いというか、イと呼ぶとむしろ不愉快だと思われますので、気を遣います。
さらに金となると、韓国人・朝鮮人としてはいちばん多いような姓ですが、金美齢さんのように台湾人にも居り、もちろん中国人にも居り、さらに純粋な日本人にも苗字として存在するのでややこしくなります。
韓国人・朝鮮人の「金」はもちろんキムと発音します。在日韓国・朝鮮人の金さんの中には、通名として金田とか金子とか名乗っている人も居ますが、金田や金子という苗字は元々の日本人の中にも居ますので、苗字だけで判断はできません。中国人の場合はチンと発音することが多いようですが、上記のとおり、こちらはキンと日本式に読んでも別に問題は無いようです。金美齢さんもキンビレイさんと呼ばれて特に文句を言っていません。
これに対し、日本固有の苗字である「金」は「コン」と発音します。平安時代、東北地方で黄金の鉱脈が発見された頃に、主にその探鉱や採掘などに携わった人たちが金の苗字を名乗りました。金野(こんの)、金藤(こんどう)、金春(こんぱる)など、コンと読む金がついた苗字はほぼ間違いなくこの「金」からの派生で、純国産です。いまでも青森県や岩手県には金姓が多く、しばらく前にある右派系ブログのコメント欄を見ていたら、青森県のどこだかの村役場の職員名簿に、金とか金野とかいう苗字がやたらと多いため、
「地方公務員の中にこれほどまでに在日韓国人が入り込んでいるとは!」
と慨嘆している記事がありました。明らかに見当違いなので、これはキムではなくコンと読んで、東北地方には多い日本固有の姓ですよ、とレスをつけてあげましたが、納得して貰えたかどうかはわかりません。 自分の名前をちゃんと呼んで欲しいと思うのは自然な感覚かもしれませんが、外国人にそれをあまり厳格に求めるのもいかがなものかという気はします。言語によっては発音しにくいという場合もありますし、とりあえず文字を示して、あとは相手の流儀で読んでくれれば良い、という程度の気持ちで居るのが、お互い腹も立たずに妥当なところではないでしょうか。
マダムの旧姓は蜂巣というのですが、フランスに居た頃はたいていアシズと読まれてしまっていたようです。Hachisuという綴りの中の、Hはフランス人は本能的に発音しないことになっているし、chはシャ、シ、シュ、シェ、ショというときの子音として受け取られるし、母音にはさまれたsは有声化(日本語で言うところの「濁音化」)されるので、アシズになってしまうのでした。
ローマ字表記は、行く国によって変えても良いように私は思うのですが、ただフランス人にハ行の発音をさせるための綴り、チという発音をさせるための綴りは、どうにも思いつきません。もともとフランス語に無い発音なのでやむを得ないでしょう。
私はイタリアでおこなわれる演奏会のパンフレットには、自分の名前をMiciakiと綴っておきました。ヘボン式ローマ字綴りでMichiakiとすると、イタリアではミキアキと発音されそうだと判断したのでした。言語によって綴りを変えるというのは、ヨーロッパに行くとむしろ不思議に思われるかもしれませんが、変な発音をされたくなければそうしておいたほうが良いように思えます。
芥川也寸志さんがロシアで作品を演奏されるので出かけて行ったとき、なぜか女性だと思われていたので面食らった、という話があります。ロシア語では人名は、性別によって姓まで変化し、Aで終わるのは女性名に決まっているので、アクタガワАкутагаваという文字を見て女性だとばかり思われたとか。発音は正確に伝わっても、それぞれの国の習慣により、そんなおかしなことも起こるのでした。
名前と異文化の問題は、厄介なようでもありますが、むしろそういう行き違いを面白く思えるだけの心のゆとりは持っていたいものです。
(2018.2.4.)
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