久しぶりに『超・三國志』なる本を読み返しています。
これは20世紀初頭に周大荒という人が書いた小説『反三国演義』を、今戸榮一氏がリライトしたものです。完訳本としては渡辺精一氏のものがありますが、今戸氏の言によると、『反三国演義』は第3回くらいまでは非常に面白く書けているものの、それ以後どうにも退屈になり、別人が書いたのではないかと疑われるような筆運びになっているとのこと。 ことに目立つのは地理的な錯誤で、移動距離とそれに要する日数がまったく合わなかったり、同名の街の場所を混同していたり、だいぶめちゃくちゃなことになっているそうです。また黄河の流れかたは当時と現在とではまったく異なっているのに、そのあたりをまるで配慮していないとか。 どうも、執筆当時は中国が内戦中で、著者も戦火を逃れるためかちょくちょく移動していたので、腰を据えて考証したり古地図を調べたりということができなかったという事情によるものらしいのでした。 それで、今戸氏はいろいろ加筆したり、逆に冗長な部分をカットしたりして、小説として読むに耐える形に整えたのでした。だいぶ形を変えてしまったので、原題は用いずにあえて『超・三國志』というややおちゃらけたタイトルをつけたようです。まあ、出版元があのコーエーであったことも関係しているのでしょうが。 私はこの本を、1991年に刊行されて間もなく買って読んでいたのですが、当時の私はまだ元の三国志についてもそんなに詳しくなく、あんまり面白さがわかりませんでした。 四半世紀以上経って、自分の三国志の知識もだいぶ豊富になり、そろそろ初読のときとは違った印象を持てるかなと思って再び手に取ってみたのでした。 『反三国演義』とはそもそもどういう話なのかというと、要するに架空戦記です。三国演義自体が、かなり劉備たちの勢力である蜀漢に肩入れして作られている物語なのですが、それをさらに徹底し、三国の争いを制して天下を取ったのは実は蜀漢だったのだ、という妄想的な結末に持って行ったのがこの『反三国』なのでした。 今戸氏は訳していませんが、著者による端書きがなかなか面白く、「すべての歴史はインチキである」と断言しています。実は『反三国』のことを知ったのは、当時購読していた月刊の歴史雑誌に記事が載っていたからでした。そこに著者の端書きのあらましが書かれていたのですが、それを読んで面白そうだと思い、後日書店でこれを元にした『超・三國志』を見かけて買い求めたというわけです。 著者によれば、歴史というのは常に勝者によって書き換えられてきて、現代に伝わっているのはすべて、現実に起こったこととはなんの関係もない、改竄された記録に過ぎないというのでした。この主張そのものはまことにごもっともと言わざるを得ません。史書を丸ごと史実だと受け止めるのは危険でしょう。他のさまざまな文献や物証によって検証してゆくのが正しい学問的態度というものだと思います。 そこまでは良いのですが、だから三国の争いで魏が勝利したというのも嘘っぱちだ、本当は蜀漢が天下を取ったのである……となってくると、我田引水の様相をおびてきます。まあ、このあたりはシャレみたいなものなのでしょうが、前段のごもっともな論に引き続き、至ってマジメな口調で主張しているので、読者は大いに惑わされます。 架空戦記は現代の日本では大いにもてはやされており(最近は少しブームも去ったかな?)、もはやなんの言い訳も必要ない状態になっていますが、日本でも少し前までは、「歴史にイフはタブー」というのが常識でした。「もしこの時点でこの人物がこうしていたら、歴史はこのように変わっていただろう」などと想像するのはなかなか楽しいのですが、いやしくも歴史小説や歴史評論でそれをやるのは三文作家以外の何者でもない、と考えられていたのです。どうしてもイフを語りたいときは、「歴史にイフはあり得ない、と言われるが……」というような予防線を張った上で、ごく控えめに触れるにとどめるのが作家の常套手段でした。 しかし、一種のSFとして書かれた荒巻義雄の『紺碧の艦隊』が大ヒットしたあたりから風向きが変わりました。山本五十六提督の「死に戻り」という仕掛けを導入して、物語が徐々に現実の歴史からずれてゆく、そのこと自体を愉しむという新しい読書方法が生まれたのです。他の作家たちからしても、 ──あっ、こういう書きかたをしても売れるんだ。 と、眼から鱗が落ちた想いだったのではないでしょうか。 その後、架空戦記、あるいは歴史シミュレーション小説と呼ばれるジャンルの文芸作品が、雨後のタケノコのように簇生しました。専門のレーベルまで登場しています。いまは学研の歴史群像新書というのが有名ですが、先頭を切ったのがコーエーのifノベルスで、『超・三國志』もそのレーベルで刊行されています。 日本で1990年代に入って盛んになった架空戦記ジャンルを、はるか以前の1920年代にやってのけたのが『反三国演義』だったわけで、なるほど大上段に構えて「史書」自体を斬って捨てるくらいの勢いがないと、当時としてはリアリティが感じられなかったのだろうな、と思います。 内容はと言えば、とにかく蜀漢びいきになっていて、蜀漢の武将はほとんど誰も死にません。のちに魏王朝(というか司馬氏の勢力)に対して反旗を翻した、文欽・文鴦の父子や諸葛誕などの人物は、ことごとくあらかじめ蜀漢側に寝返ります。蜀漢の中でも評判の悪い人物、例えば後主こと劉禅などは早々と暗殺されて舞台を去ります。 シミュレーションとしてのキモは、徐庶が劉備のもとを離れずにそのまま軍師として仕えていたら……という仮定にあるようなのですが、なんにしても物事が蜀漢に有利なように運びすぎるのでした。まあ最近はやりのストレスフリーな小説と言えるかもしれません。それを1920年代にやっていたというのは、確かにすごいことです。 ちなみに徐庶というのは、劉備が荊州でくすぶっているときに親しくなった若者で、諸葛孔明を劉備に推薦したのは彼だったようです。彼は殺人の前科もあり、ちょっとワルっぽいところで劉備とうまが合ったのでしょう。演義では孔明に勝るとも劣らぬ凄腕の軍師として造形されており、彼の献策により劉備は曹操が差し向けた軍勢に勝利することになっています。実は劉備が曹操軍に勝ったのはこれがはじめてであり、それゆえ劉備はようやく参謀というものの価値を思い知って、徐庶の薦める孔明に会ってみようという気になるのでした。史実の徐庶がそんな傑物であったかどうかはわかりません。 残念ながら徐庶は、劉備に仕えることなく去ってゆきます。演義では、徐庶の知略をおそれた曹操が、彼の母親を人質にとって偽手紙を送りつけ、親孝行な徐庶を劉備から引き離すことになっていました。うかうかと偽手紙に騙された徐庶を叱りつけた母親は、そのまま自殺することになっています。 ここで演義の記述はやや破綻しています。母親が自殺したのなら、徐庶とすれば復讐のためにも劉備のところへ舞い戻って仕えれば良さそうなのに、その後おとなしく曹操に仕えたらしいのでした。演義では、赤壁の戦いのときに龐統の連環の計を見破った唯一の人物として再登場しますが、それきり消息を絶っています。 たぶん、実際の徐庶は、劉備とはうまが合ったものの主君とするには物足りなさを覚え、曹操に仕えに行ったのでしょう。しかし諸葛孔明がいみじくもかつて言ったように、曹操のもとには優秀なスタッフがたくさん居て、そんな中徐庶も鳴かず飛ばずで、小役人程度の処遇で終わったものと思われます。ちなみに、孔明が伝えられるようになかなか劉備と会おうとしなかったのだとしたら、やはり当時の劉備陣営は、仕官先としてはあんまり魅力を感じられなかったためでしょう。 ともあれ『反三国』は、偽手紙の計を見破った孔明が、徐庶を引き留めるという展開になっており、これが最初の山場にもなっています。 上に名前の出た龐統も、三国志ファンにはよく知られた軍師です。戦術家としては孔明よりすぐれていたかもしれません。というか現実の孔明はたぶん行政家であって、少なくとも当初は軍事的な役割はあまり期待されていなかったふしがあります。ともあれ劉備は、益州攻略にあたって、孔明ではなく龐統を参謀として帯同します。これも残念なことに、その攻略戦の最中、龐統は流れ矢に当たって戦死するのでした。 「もし」徐庶や龐統が、離れたり斃れたりすることなくずっと劉備に仕えていたら……という「イフ」が、『反三国』の最初の発想であったように思われます。孔明ひとりでさえ魏をあれだけ追いつめたのだから、孔明に匹敵する「軍師」が他にふたりも居たのなら、蜀漢が天下を取っても不思議はない、と考えたのでしょう。まあ、孔明にしろ龐統にしろ徐庶にしろ、演義によってかなりふくらまされたキャラクターをそのまま援用しているわけですが、当時としては読者のほうもそういうイメージしか持っていなかったでしょうから、やむを得ないことではあります。 物語はことごとく蜀漢有利のうちに進みます。ときに敗戦も無いではありませんが、その場合でも主だった武将はほとんど死なず、数字上の存在としての兵が減るばかりです。 関羽や張飛よりも、趙雲や馬超の活躍が目立つのは、著者である周大荒の好みでしょう。馬超は精強な涼州の騎兵を率いて劉備に帰順した人物です。益州のあるじであった劉璋は劉備の攻勢に頑強に抵抗していたのが、劉備軍に馬超が加わったと聞いただけで抗戦をあきらめて投降します。それだけのネームバリューのある武将だったわけです。劉備は非常に喜び、漢中王に即位したときには、馬超を関羽・張飛・黄忠と並べて正規の将軍に抜擢しています。なお黄忠は、荊州閥武官のトップとしての処遇でしょう。 ところが、その後の戦争では、馬超は全然活躍しません。実はほどなく病死してしまうのです。 もうひとりの趙雲については、前に考察したことがあります。個人的武勇はあったのでしょうが、大軍を指揮するような将才には乏しかったのではないかと私は思っています。後主・劉禅とからむエピソードが多いので、実際には皇太子付き護衛武官といった存在ではなかったかというのが考察の結論でした。雑号将軍には任命されていますが、前将軍、左将軍といった「正規の」将軍位には就いていません。上の4人の将軍と並べて「五虎将軍」になったというのは演義でのフィクションです。 こういう、演義でも案外活躍場所の少なかったふたりを縦横に暴れさせているのが『反三国』の特徴です。 著者の好みは呉の武将にもあるようで、周瑜・魯粛・呂蒙といったいわば「王道」のラインナップの扱いはあんまり良くありません。周瑜はさしたる見せ場もなく病没し、魯粛に至っては無能扱いされてすぐに病没、呂蒙はそこそこ頑張るもののさほど存在感がありません。呉でいちばん印象的に描かれているのは徐盛ですが、「誰だっけ、それ……」と思う人が多いのではないでしょうか。正史では地味ながらけっこう重要な働きをしていますが、演義では使いっ走りみたいな役柄が多く、あまり重視されていません。この人物を採り上げたのは『反三国』の見識と言えるでしょう。後半で蜀漢軍にとらわれた徐盛が自刎すると、その時点で呉の存立そのものがもう駄目だろうと思わせるような書きぶりになっています。 魏の武将はどんどん殺されてゆき、けっこう粘っていた連中も後半で孔明のセットした地雷にやられてひとからげに爆死してしまいます。これは三国志の時代では明らかにオーバーテクノロジーでしょう。仮想戦記でも、やたらと時代を無視した新兵器が登場するものは駄作と言って良いのですが、ある意味ではこの小説は、後世の仮想戦記が陥りやすい傾向を先取りしているとも言えるわけです。 三国志についてだいぶ知識を豊富にし、仮想戦記のたぐいもあれこれと読んだ上で再読すると、『反三国演義』はなかなか興味深い本だという気がしてきました。とにかく1920年代という時代にこれが書かれているということが驚異です。もしかしたら、軍閥がしのぎを削っていた当時の中国の状況を寓意しているのかもしれないという想像も浮かびました。著者の周大荒がどういう立場の人であったのかははっきりしないようですが、袁世凱などの北洋軍閥を曹操になぞらえ、孫文らの勢力を劉備に投影しているとも言われています。
中国の歴史小説には、書かれた当時の現実が寓意されているということがよくあります。姚雪珢の大河小説『李自成』が毛沢東をモデルにしていることは有名で、毛沢東もそれを知っていたために、明末の大盗賊である李自成が、小説の上では無謬の聖人君子となってしまい、甚だしくリアリティを欠いたキャラクターになってしまったという悲劇的な話もあります。李自成に変なことをさせると毛沢東が怒ってどんな行動に出るかわかったものではないのですから、著者は薄氷を踏む想いだったでしょう。かと言って小説を投げ出すわけにもゆかず(投げ出したらやはり毛沢東が怒るでしょうから)、結局姚雪珢はこの小説を完成させられないまま世を去りました。史実の李自成は北京を落として明を滅亡させたものの、満洲族の清軍に攻められて北京を放棄し、どんどん没落して、ついには村の自警団みたいな連中に叩き殺されます。このくだりを、どうすれば毛沢東にとがめられずに描写できるか、いかに智慧をしぼってみても思いつかなかったものと思われます。 いっそのこと姚雪珢も、周大荒のひそみにならって、架空戦記のような形で大胆に歴史を変改した小説にすれば良かったかもしれない……と思ったりもするのでした。文学的価値は著しく下がったことでしょうが、毛沢東の覚えはめでたかったかもしれません。 (2018.3.31.) |