忘れ得ぬことどもII

「三国志」展

 上野国立博物館に、「三国志」展を見に行ってきました。川口駅で私がちょうどいつも下りるあたりに、国立博物館の「三国志」展と、科学博物館恐竜展の広告が並んで設置されていて、両方とも行きたいと思っていたのでした。ただ、先日上野で観光ボランティアをやってきたマダムによると、夏休みに入ってから恐竜展のほうはお子様の動員がものすごいそうで、ちょっと怖じ気をふるいました。9月になって学校がはじまってから行ったほうが良いかもしれません。
 その点「三国志」展はそこまで混まないのではないかと思いました。恐竜よりは高年齢向けではないかと思います。私自身が興味を持ったのもせいぜい大学生時代以降です。休日には客が押し寄せるかもしれませんが、平日ならさほどのこともありますまい。
 しかしながら、コーエーのゲームという端倪すべからざる伏兵も居て、中高生のファンが居ないとは言えません。まあ、当たって砕けろというつもりで今日出かけてきたのでした。
 ちなみにマダムは三国志には特に興味は無く、今日は私と一緒に出て、パナソニック汐留美術館でやっている「マイセン動物園」展を見に行きました。興味の方向が違うので、こういうこともあります。前にも同じ日に別々のミュージアムに出かけたことがありました。
 パナソニックの美術館は新橋下車になりますので、私は上野でマダムに別れを告げて電車を下り、国立博物館に向かいました。私の学生時代だと、JR駅に並行している坂道の歩道に設けられた雑な階段を上がっていかなければなりませんでしたが、いまはその道に面しているビルにエレベーターやエスカレーターがついていて、屋上が上野の山に直結しています。ずいぶん楽になりました。
 何年も通った道ですが、だいぶ雰囲気が変わりました。国立博物館に正面から向いて歩いてゆくと、なんだか前方がやたら宏大な広場のようになっており、天安門広場から人民大会堂を望んでいるような気がしました。国立博物館の建物はどこか宮殿めいた印象があります。
 切符売り場に行くと、「三国志 待ち時間 0分」というボードが置かれていました。こんなボードが用意されているということは、やはり曜日などによっては入場制限がおこなわれるほど混雑するのでしょう。
 私の前に並んでいたのが中国人の家族らしく、切符売り場のお姉さんが英語でしゃべり出すと若干戸惑っていて、やや時間がかかりました。あんまり英語は得意でなかったのでしょう。しかしまあ、そんなに待たずに入場券を買うことができ、「三国志」展が開催されている平成館に向かいました。
 入場制限するほどではないとはいえ、やはりだいぶ混んでいました。案の定中高生も少なからず居たようですし、外国人がやたらと多いのを予想していませんでした。こちらは夏休みも休日もあんまり関係なさそうです。

 ところで、「三国志」展の英語タイトルが「Three Kingdoms」になっていたので、おやおやと思いました。曹氏も、孫氏も、劉氏も、いずれも「皇帝」を名乗っています。従って三国とも「帝国」つまりempireであるはずです。しかるに、「Three Empires」ではなく「Three Kingdoms」つまり「三王国」という訳語になっているのは、彼らは皇帝を名乗りはしたけれども「自称」に過ぎず、皇帝もしくは帝国としての実質が伴っていなかったという判断なのでしょう。これはこの企画展の判断なのか、それとも中国の三国時代のことを英語では普通の術語として「Three Kingdoms Period」などと表記しているのか、ちゃんと確認しておいたほうが良いかもしれません。
 三国時代と言っても、実際には魏が全中国の国力の合計の7割くらいを占め、残り3割のうち2割を呉が、1割を蜀が保っていたようなものだというのは、三国志好きなら常識でしょう。呉は長江の滔々たる流れによって、蜀は名にし負う蜀の桟道の天険によって魏の侵攻をかろうじて防いでいただけというのが定説です。
 ただ、各国の版図を地図上に描いてみると、意外と3つの勢力が似たような広さを持っているので不思議な気もします。首都に近いほうが行政区画が細かいために「州」や「郡」といった区画のサイズが小さい、というのは日本の旧分国や都道府県の面積を考えても納得が行きます。呉の交州とか蜀の益州とかは、辺境であるがゆえに面積が大きいわけで、これは北海道などを連想すればなるほどと思えるでしょう。
 実際、呉は人口密度の低さが悩みのタネで、広いわりに人が居らず、海の向こうの夷州とか澶州とかに「人狩り」のための船を派遣したりしています。夷州は台湾とも海南島とも言われ、澶州は日本説もありますがたぶん沖縄あたりではないかと言われています。澶州には遠すぎて行き着けず、夷州にはなんとか着けて原住民をとらえてきたものの、炎暑と風土病にダウンする船員や兵士がひきもきらず、とらえた原住民よりも連れて行った船員や兵士が死んだ数のほうがずっと多いという「なにやってんだ~」な結果となり、人狩り軍を指揮した将軍たちはみんな処刑されてしまったとのことです。
 蜀のほうも、版図は広くともほとんどが山岳地帯で人は少なく、居たとしても異民族が大半であったようです。ただ、諸葛孔明が七たび捕まえて七たび許し、最後に心服させたとされている孟獲は、ずっと異民族の酋長だと考えられてきましたが、実は漢人だったのではないかという説も唱えられているとか。
 しかしながら、蜀は古来より「天府」と呼ばれるほど物成りの良い土地で、三国時代より少し後に「三都の賦」を著して「洛陽の紙価を高からしめた」左思によれば、「めぐみの蜀」と呼べるような土地であったとされます。ちなみに呉は「にぎわいの呉」、魏は「おごそかなる魏」と評されています。魏は古くから開墾が進み、田畑はたくさんあったものの、三国時代は寒冷期であったようで収穫は少なく、総合的な国力という意味では案外しょぼかったのではないでしょうか。曹操屯田兵を思いついたのもそのせいだと思います。
 展示の中に、三国それぞれで作られた俑(よう、墳墓に供えるための素焼きの人形で、死後の召使いとして作られた)がありましたが、蜀のものは実に穏やかで楽しそうな表情をしているのでした。諸葛孔明による連年の出兵を支えるだけの、豊かな物産があったものと思われますし、蜀という国の歴史のほとんどすべてをその治世としている後主・劉禅が、国民にこのような表情をさせる統治者であったとすれば、最悪の無能な暗君との従来の評判とはうらはらに、思いの外の名君であったのではないかという気もしてきます。というか、私はもとから劉禅は案外と名君だったかもしれないという意見を持っているのですが、楽しそうな表情の俑を見て、ますますその確信が強くなったと言えます。
 蜀はその最後の10年において、姜維の無謀な軍事行動により見る間に国力を蕩尽し、ついに抵抗力を失ったところを見透かされて魏の司馬昭に亡ぼされます。姜維は諸葛孔明に認められてその弟子のようになった武将ですが、その才能は軍事に偏っており、孔明のように内政をきちんと治めた上で軍事行動をおこなうという配慮にはどうやら欠けていたようです。姜維の連年の軍事行動が無ければ、蜀はもう少し長持ちしたのではないかと思われてなりません。
 魏は上記のとおり、この時代は生産力が著しく落ちており、しかも強そうに見えても版図は実は虫食いだらけ、北辺では強力な北方民族と対峙していました。版図とされる中にはかなり広大な公孫氏も含まれており、その地方はほとんど独立国のようになっていました。三国時代ではなく、燕を加えた四国時代と呼ぶべきだと主張する人すら居るほどです。
 そう考えると、魏もまた、いままで言われてきたほど強力な国ではなかったのではないかと思えてきます。卑弥呼からの使節を厚遇したのも、高句麗三韓に手を焼いていて──というより手が回らず──、その背後に居る倭国に牽制して貰うことを期待してのことでした。だから卑弥呼の死後倭国が内乱状態に陥ったと聞くと、大あわてで調停の使者を送っています。
 結局、三国はそれなりに微妙なバランスで鼎立していたのではないでしょうか。

 話が先走りましたが、今回の企画展は、いくつかの章立てになっており、それぞれの章の最初に、横山光輝のマンガの2ページずつほどが展示されていました。全展示物が撮影可能になっており、それは横山氏の原画も含めてのことだそうです。大半の人が片端からスマホで撮影しているために、人の流れもあまり良くありませんでした。
 要所要所には、NHKの人形劇で使われた、川本喜八郎作の人形も展示されていました。コーエーのゲームに出てくるCGも展示されていると聞いたのですが、それは最後のコーナーでCGを用いたアミューズメントが用意されていただけでした。川本人形は、意外と中国人らしき客たちが興味深そうに見ていたので、面白く感じました。
 最初のほうに、曹氏の系図が示されていましたが、それを見ると、第5代皇帝である曹奐の帝号が「文帝」となっていました。文帝は初代皇帝曹丕の帝号です。曹奐は「元帝」のはずです。入れ替わってしまったのかと思ってよく見ると、曹丕のほうは正しく「文帝」となっているので、文帝がふたり居ることになってしまっていました。明らかにミスですので、アンケートに書いておきましたが、さて直してくれるかどうか。
 圧巻だったのは、曹操の墳墓の内部を実寸で再現した部屋でした。2009年というからちょうど10年前、河南省安陽市で、3世紀の墳墓が発掘されました。中はだいぶ盗掘されていましたが、残った副葬品の中に、「魏武王」とはっきり記されている石牌が含まれていたそうです。それで曹操の墓に間違いないということになったわけですが、こんなものがいままで見つかっていなかったのが不思議なほどです。
 曹操は葬儀を簡略にせよと遺言したことで知られており、金銀玉といった素材のものが残されていないのは、盗掘されたと言うよりも、やはりもとからさほど高価なものは入っていなかったのだろうとされています。ただひとつ、不思議な副葬品がありました。罐(かん)という壷型の容器なのですが、それ自体は同時代の出土品として珍しくありません。しかし曹操の墳墓に残っていた罐は、どう見ても「白磁」としか思えない製法で作られていたのでした。白磁が完成するのは400年以上あとのの時代ですので、どこの誰が曹操の墓にこんなものを入れたのか、謎と言うほかないのでした。
 墳墓からはかなり良い状態の頭蓋骨も発見されており、縫合線の様子から見て60代の男性と判断されたそうです。曹操はまさに66歳(満65歳)で没していますのでドンピシャリです。なんだかテンションが上がってきました。曹操の墳墓が発見されたというニュース、10年前に聞いた気がしないのですが、何かの理由で聞き逃してしまっていたようです。

 人が多くてあまりじっくり見ることは難しかったのですが、かなり充実した時間を過ごしました。
 企画展会場から出ると、隣に日本の考古出土品のコーナーがあったので、そちらも眺めていると、ギャラリートークがあるというのでそれも聞いてみました。このギャラリートークは毎日やっているというものではなく、本当にたまたま行き当たっただけであるようです。卑弥呼の時代の土器についてのレクチャーでした。
 邪馬台国というと弥生時代まっさかりという印象がありましたが、最近では弥生時代と古墳時代のあいだに庄内式期というのが100年ばかりはさまっていて、卑弥呼はその時代の人物であるということになっているそうです。これは私にとっては新しい知見でした。庄内というのは山形県ではなく、大阪府豊中市にある地名だそうですが、庄内式土器というのは弥生式土器に較べてはるかに「叩き締め」が入念で、厚さもわずか数ミリという手の込んだものになっているのだそうです。また器の底が、弥生式の平底ではなく、尖った形になっているとか。
 この庄内式に続いて布留(ふる)というのが現れ、そこからが古墳時代ということになるようです。土器はそのあと土師(はじ)が作られ須恵(すえ)が作られ、それから陶器という流れになるのでした。このギャラリートークも大いにためになりました。
 本館の1階もぐるりとひと廻りして、国立博物館をあとにしました。2階にも展示があるし、東洋館というのもあるのですが、そろそろ疲れたし、空腹でもあります。9時半頃に朝食を食べたのでしたが、もうかれこれ15時過ぎになっていました。

 博物館の門の近くに、台東区のコミュニティバス「めぐりんバス」の停留所がありました。15時20分に来るようで、ちょうど10分を過ぎた頃だったので、待ってみることにしました。上野駅とは反対方向に走るのですが、ぐるりとまわってまた上野駅に戻ります。また途中でメトロ千代田線千駄木根津にも立ち寄るので、そこで乗り換えるも良し。上野駅を過ぎてさらに浅草のほうにもゆくようなので、そこで他のめぐりんバスに乗り換え(乗り換えるときは乗り継ぎ券を発行してくれて次の便はタダになる)、三ノ輪に出て都電で帰るも良し、いろいろ愉しめそうです。
 私のあとにもうひとり並びました。ふたりで待っていましたが、20分になっても一向にバスが現れません。夏休み中なので平日ダイヤでは無いのだろうかと疑いましたが、休日ダイヤであれば15時05分というのがあり、博物館の門を出ようとする頃に目撃しているはずです。
 そのうち相客は諦めたのかどこかへ歩いて行ってしまいました。すでに30分を過ぎています。私も諦めて帰ろうかとも思いましたが、これだけ待ったのを無にするのもしゃくに障ります。
 結局、40分を過ぎた頃に小型のバスがやってきました。休日ダイヤだと15時41分に来るはずなので、やはりそうだったのかと思ったのですが、途中で乗ってきた客と運転手の会話によると、今日のめぐりんバスはもう1時間以上遅れているということでした。すると、15時20分の便どころか、その前の14時40分に来るはずの便だったことになりそうです。
 あまりに待ちすぎ、空腹が耐え難くなり、私は結局京成上野駅で下車しました。とても浅草くんだりまで行く気にはなれなかったのです。バスが案外と混んでいて、景色を見づらいという点もありました。
 おとなしく京浜東北線で帰宅しました。

(2019.7.23.)

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