今日(2019年9月4日)は特に予定が無かったので、ちょっと観たかった映画でも観に行こうかと思っていたところ、マダムから「アートのお値段」なる映画を観たいと言われてしまいました。 それぞれ観たい映画を観に行けば良さそうなものだと思いましたが、映画館には「夫婦50割引」というのがあって、少なくとも片方が50歳以上の男女で行くと、だいぶ入場料が安くなるのでした。これ、50歳以上であることを証明するための身分証などの呈示を求められることはありますが、ふたり連れが夫婦であることの証明を求められることは無いようです。名前は「夫婦50割引」ですが、父娘とか不倫カップルとかでも大丈夫ではないかと思います。 ともあれマダムは、私を引き連れて行って出費を節約しようという魂胆なのでした。 私の観ようとしていた映画は、うちの近くのショッピングモールの中のシネマコンプレックスでも上映しているのですが、「アートのお値段」というのは上映している映画館が限られているようです。近隣都県では、渋谷にあるユーロスペースが唯一の上映館であるようでした。渋谷まで映画を観に行くとなると、暇つぶしというよりもれっきとした「お出かけモード」になります。先週は火曜水曜と、マダムと一緒にミステリーラリーをプレイしたり、下町風俗資料館ほかを訪ねたりしていましたが、今週もふたりでお出かけということにあいなりました。 上映時刻を調べてみると、最初の回が12時半でした。そのあんばいで出かけることにします。渋谷駅は目下大改造工事中で、埼京線プラットフォームを山手線のそれに並んだ位置に移そうとしています。もともとは東横線のターミナルが邪魔をしていて、もうひとつのプラットフォームなど作れなかったため、埼京線が乗り入れてきたときには完全に恵比寿側によけたような位置にプラットフォームが作られ、まことに不便でした。東横線がメトロ副都心線と直通になり、駅が地下にもぐったためスペースに余裕ができ、埼京線プラットフォームを移設することになったわけですが、これがなかなかの難工事で、来年のオリンピック前くらいまでかかりそうな雲行きです。その工事のあいだ、もとは設置されていた動く歩道もなくなって、歩く距離も増えてしまい、改札を出るまでにやたらと時間がかかるようになってしまっています。歩く速さと混みかたによりますが、埼京線・湘南新宿ラインで渋谷に着いた場合、ホテルメッツのほうにつながっている新南口以外の出口から外に出るまでは、10分くらいは見たほうが良い状態になっています。 中央改札口のところに出ましたが、マダムの助言に従い、そこから一旦山手線のプラットフォームに下り、ハチ公口を出ると、最短距離で駅前交差点に到達しました。私は中央改札から出て、マークシティ側に下りるつもりでいたのですが、ここは確かにマダムの言うほうが近かったようです。 ユーロスペースは東急本店からもう少し松濤側に入ったあたりで、ここもやや距離があります。ある程度余裕を持って出かけてきたつもりだったのに、上映時刻直前になってユーロスペースに到着しました。チケットを買い(そういえば身分証の呈示は求められませんでした)、トイレに入ってから客席に入ると、すぐに上映がはじまりました。もっともしばらくは予告篇です。 「アートのお値段」の原題は「The Price of Everything」、直訳すると「あらゆるものの値段」ですが、「どんなものにも値段はつけられる」といったニュアンスでしょう。美術作品にサザビーなどのオークションでいわば「法外な」ほどの価格をつけられて取引されている様子を、アーティスト、コレクター、そしてオークション主催者のそれぞれの立場の人々に密着取材したドキュメンタリー映画でした。マダムは最近こういうドキュメンタリー映画にはまっているようで、ついこのあいだも、ニューヨークの公共図書館を扱った映画や、同じくニューヨークの一流ホテルを扱った映画などを観に行っていました。そしてこんどは美術品取引を材料にした映画というわけです。昔人気だったドラマ「ナースのお仕事」あたりにひっかけた訳題でしょうか。 USAその他の国の富裕層の中で、アートが投機になるということが常識になりつつあるようです。 美術作品がオークションで法外な値で落札されるといえば、バブル時代に安田海上火災(現・損保ジャパン日本興亜)がゴッホの「ひまわり」を53億円(最終的には手数料など込みで58億円)で競り落とした話が思い起こされます。同社が運営する東郷青児美術館の客入りが思わしくなかったため、一枚看板的な作品を求めて、かなり背伸びして落札したそうですが、当時は金満ニッポンが札びらを切るようにして世界的名作を買いあさったかのように報道されて、かなりのヒンシュクを買っていた記憶があります。 しかし、いまではゴッホなどというスーパーネームでなくとも、現代美術の作品が平気で何千万ドルという値段で取り引きされているようです。30年前のバブル期と現在と、貨幣価値がどのくらい違うのかは微妙なところですが、ともかく安田海上火災が落札した53億円という金額は、ドルに直せばまず5000万というところであって、その程度の値のつく作品はいまや珍しくもない感じです。 言うまでもなく、現代アートですから、古典作品とは違い、誰が見ても美しく心が洗われるといった性質のものではありません。なんの意図もなくただ絵の具を塗りたくったようにしか見えないと言う人が居ても、まったく不思議ではないわけです。古典作品の模写の前に金属の球を置くだけ、なんて作風のアーティストも居り、観る人によっては「ふざけるな」と言いたくなるでしょう。鏡のように磨き上げられた金属球に映る外界の様子が、古典作品と一体となり、その「時間の落差」を味わう作品なのだ……とでもいうところなのでしょうが、屁理屈にしか聞こえないという向きもあると思います。 ともあれ、現代アートというのは一元的な評価は難しいものであろうと思います。賞賛する人も居り、真っ向から否定する人も居り、というのが普通の状態でしょう。古典作品はある意味「時間による選別」をすでに受けているので、好き嫌いの差はあっても、価値が著しく違うということは無いと思います。しかし現代ものの価値はなかなかわかりづらく、価値基準も非常にあやふやです。 そんなところに、何十億円という値段がつけられてしまうのがなんだか不思議というか、はっきり言えば不健全な気がします。たぶんこの映画の監督(ナサニエル・カーン)も、その辺の問題提起をおこなうつもりで制作したのでしょう。 映画に登場する画商も、 ──私がこの世界に入った20年前は、まだこんなことはなかった。 というようなことを言っていましたので、この異常なアート投機現象は、ここせいぜい十数年のあいだに過熱してきたのだと言えそうです。 この現象に対する、当のアーティストたちの反応はさまざまで、あからさまに不快感を口にする人も居れば、わりとすんなり順応している人も居るようでした。しかし、 ──作品の価値は値段だけで決まるわけじゃない。 と考えている人は多そうです。ただ、値段でないなら他の何によって価値が決まるのかということを明確に示せないのが、現代アートの抱える苦しみというものなのかもしれません。 ゲルハルト・リヒターなどは、自分の作品が大金持ちに競り落とされるのがあまり愉快ではない様子でした。自分の作品はあくまで美術館に展示されて、老若男女、富める者も貧しき者もひとしく鑑賞して貰えることを望んでいるようです。 一方、食うに困るようなアーティストは、やはりオークションで高額で競り落とされれば嬉しいでしょう。ただし、貧しい、すなわち「売れてない」アーティストの作品は、なかなか高額はつきません。高額がつけられるのは、一にネームバリュー、二に希少価値で、本質的な価値によるものではなさそうです。 インタビューの中で、ジョージ・コンドがいみじくも言っています。若くして死んだ友人ジャン=ミシェル・バスキアを思い出し、彼がいまもまだ生きていたとしたら、彼の作品はいまほど高額で取り引きはされていなかったのではないかと。バスキアはまさに、27歳という若さで死んだがゆえに作品数が少なく、その希少価値によって値段も高くなっているというわけです。 まあ、高く売れればそれは嬉しいでしょうが、売れなければ描かないかといえばそういうものでもないはずです。これは、ジャンルは違っても同じ表現者として、大いに同意したいところです。 ラリー・プーンズというアーティストが登場しました。もうかなりの齢で、昔少し売れたらしいのですが、その後田舎家に引きこもって、ただただ絵を描き続けており、世間的には忘れられたような老画家でした。巨大なキャンバスにカラフルな絵の具のラインをちりばめたみたいな作風で、絵の具や画材が置いてあるテーブルや、アトリエの壁や床にもそのラインがちりばめられているような雑然とした環境の中で、ひたすらに描き続けていたようです。それが最近、意欲的な画商に再発掘されて個展も開くことになったと、このストーリーだけはオークションの話とは少し趣きを変えて随所に挿入されていました。ほとんどゼロであった作品価値が、好い画商にめぐりあうことで急に跳ね上がることもある、ということを暗示しているようでした。マダムはこの人の作品が気に入ったようです。 同時代の表現作品の価値というものがなかなか判別しづらいので、好い人と交わることでその価値が上がるということもありそうです。このあたりも、同じ表現者として肝に銘じなければなるまいと思います。 90分ほどの映画でしたが、けっこう濃密な時間を過ごしたという気がしました。ドキュメンタリー映画というのは滅多に観たことがないので、新鮮でもありました。観終わった直後は、はたしてお金を払って映画館で観るほどのシロモノだろうかと疑問を抱いたりもしましたが、時間が経つにつれ、表現者として金銭的価値というものをどのように受け止めてゆけば良いのかというカーン監督の問題提起が、自分自身の課題として刺さってくるようです。本当に「The Price of Everything=どんなものにも値段はつけられる」のでしょうか。 映画館を出て、近くのイタリアンレストランで昼食をとりました。マダムが少し前から気になっていた店なんだそうです。 それから、やはり近くにあったヤマダ電機に入って、買い物をしました。プリンターのインクが切れていて、もう何日も前から、買いに行かなければと思っていたのでした。 さあ帰ろうと思ったら、マダムが腕をひっぱります。東急百貨店のバス停から出ているコミュニティバスで代々木上原に行き、駅近くにある「東京ジャーミィ」を訪ねてみたいというのでした。 東京ジャーミィとは何かというと、モスク(イスラム寺院)です。日本最大にして、アジアでもっとも美しいモスクとも言われているとか。1階部分はトルコ文化センターになっているそうです。私は大学の途中まで世田谷区に住んでいて、東京ジャーミィが面している井の頭通りもよく自転車で走っていたので、そこにモスクらしきものが建っているのは昔から知っていたのですが、日本最大だのアジア最美だのとは思っていませんでした。マダムが何を見てそんなところへ行きたがったのかよくわかりません。 そういえば食事のあとでバス停を通りかかったとき、コミュニティバスに乗りたいということは言っていた記憶があります。しかしヤマダ電機で、私の用が済んでも蜿蜒と、化粧品売り場のテスターでメイクしたりしていたので、もうそのことは忘れたのかと思っていました。 仕方がありません。コミュニティバスに乗ることにしました。15分ほど待つことになりました。 その停留所からは、コミュニティバスの来る2分前に、笹塚駅行きの普通の路線バスも出ています。この路線バス、代々木上原駅まではコミュニティバスとほぼ同じルートをとるのですが、バス停に並んでいた人は誰も乗ろうとしませんでした。路線バスは210円、コミュニティバスは100円で乗れるので、それも当然でしょう。しかしその結果、路線バスはガラガラの空き具合なのに、コミュニティバスはけっこう混んでいて、なかなか坐れませんでした。 モスクはすぐに見つかりました。やはり私の思っていた建物です。 1階の文化センターは自由に入れるようです。2階は礼拝堂になっているので、女性は肌を隠さないと入れません。 「中東の人たちが日本に来てみたら、女性がみんなハダカで歩いていると思うでしょうね」 と、大学のときに授業をとっていた文化人類学の西江雅之先生が言っていたのを思い出します。女子学生たちが一斉に「え〜」と声を上げましたが、西江先生は平然と、 「あなたたちは『服を着ているのに』と思うでしょう。でもあっちの人から見れば、顔を出している、腕を出している、脚を出している。これだけで充分、ハダカだと思えるわけです」 礼拝堂で、肌を隠すためのスカーフのようなものを貸してくれるということでしたが、まあ危うきに近づかないほうが無難でしょう。 「トルコ文化センター」としての展示はまあ控えめなものでしたが、館内にハラール・ショップがあり、マダムがだいぶ食いついていました。ハラール認証つきの和牛の肉というのをはじめて見ました。 そこらじゅうにアラビア語の表示があったのは意外でした。基本的にトルコ人とアラブ人というのは仲が悪いと思っていたもので。前にも書いたことがありますが、イスラム教の歴史というのは基本的に、アラブ人とイラン人とトルコ人の三つ巴のせめぎあいで成立しているようなところがあります。アラブ人がアラブ至上主義のウマイヤ朝を作り、それに対抗してイラン人がアッバース朝を起ち上げ、双方角突き合わせているところへ、モンゴル人が攻めてきてまとめて征服され、その残党であるトルコ人がオスマン朝を作って支配したというのが、大ざっぱな流れです。 しかし、コーランをアラビア語で唱えなければならないという至上命令があるので、トルコ人といえどもアラビア語をおそろかにするわけにはゆかないのでしょう。アラビア語の書道教室なんてのも開いているようです。世界中でも「書道」が成立するのは漢字とその派生であるひらがなカタカナ、それにアラビア語だけだそうです。ローマ字やキリル文字、ビルマ文字なんかを美しく書いてそれが芸術と見なされるなんてことはありそうにありません。達筆なアラビア語は、文字どおりアラベスク模様のような、一種の文様みたいに見えるのでした。 代々木上原からメトロ千代田線に乗って、今度こそそのまま西日暮里まで乗って帰宅すると思いきや、表参道で電車から下ろされました。表参道にあるエスパス・ルイ・ヴィトンのギャラリーで、クリスチャン・ボルタンスキーの作品展示をやっており、それを観て行きたいというのでした。マダムはこのところボルタンスキーにもはまっているようなのです。
どんな作品かというと、地面に棒を何本も立て、その上に風鈴みたいなものを乗せた光景を、ずうっと撮影しただけという映像作品です。2つが同時に上映されていて、片方は日本の山林、片方は死海の近くの砂漠ということでした。いずれも10〜12時間くらいかかります。 日本の山林のほうは、たぶん時間が経つにつれて陽の当たりかた変わってきたりして、その辺が愉しめるのかもしれませんが、死海のほうは空も曇っており、本当になんにも起こらなさそうです。だからと言っていわゆる環境ビデオみたいなものなのかといえばそうでもなさそうで、なんらかの意図はあるのでしょう。正直言って、私には作品のおもしろさがよくわかりませんでした。マダムが満足そうだったので良しとしましょう。 これでようやく帰宅の途に就きます。今日はもっぱらマダムにひっぱられての一日でした。彼女は自分の母親などもこのようにひっぱり回すことが多かったようで、帰宅すると義母は決まって 「『牛に曳かれて善光寺参り』だったわね」 と述懐するそうです。そのままの意味でもありますが、マダムが丑年なのでその連想もあるのかもしれません。私も今日はだいぶ善光寺参りを満喫してしまった気配があります。 冒頭で観に行きたかった映画は、また明日にでも行ってこようかと思います。 (2019.9.4.) |