日本や中国では、人の名前というのはなかなか軽々しく扱えるものではなく、特に面と向かって本名を呼んだりするのは非常に失礼なことという意識を長く持ってきました。諱(いみな)と言いますが、文字どおり「忌み名」、呼んではいけない名前というわけです。 しかし、名前を呼んではいけないのでは、いろいろ不便なことが起こります。それで通称が使われました。秀吉に対して藤吉郎とか、隆盛に対して吉之助とか、そんな呼びかたです。中国でも字(あざな)というのが使われました。成人するときに自分もしくは父母などにつけてもらったようですが、本名といくぶんか関連性のある名前にするのが習慣だったようで、たとえば諸葛亮=孔明だと、「亮」と「明」がともに「あかるい」という意味で共通しています。 また、その人が官職を持っているようであれば、その官職名で呼ぶこともありました。織田上総介(信長)とか、徳川三河守(家康)とかいった呼びかたです。また諸葛孔明の主君であった劉備は、豫州という地域の知事みたいなことをしていたので「劉豫州」とも呼ばれました。 成人前は幼名で呼ばれます。信長の場合は吉法師であったようです。秀吉の日吉丸というのはあんまりあてになりませんが、いちおう講談本などではそういうことになっています。幼名は、どうせ成人すれば使わなくなるからといい加減につけられることもありますが、大名家などでは代々の嫡男に受け継がれる大事な名前であることもあります。その幼名をつけることで、跡継ぎであることを内外に知らしめすという場合もありました。徳川家の「竹千代」などがそれでしょう。劉備の敵役である曹操の幼名は「阿瞞」と伝えられます。瞞は「だます」という意味なのでいくらなんでもウソだろうとも言われますが、字など関係なくただ「アーマン」と呼ばれていたのに後世の人がひどい文字を宛てたのだ、と主張する人も居ます。が、「吉利」という幼名も伝わっていますのでたぶんそちらが本当なのでしょう。 ともあれ、幼名は成人前に家族や友達などから呼ばれる名前、通称や官職名は大人になってから一般に呼ばれる名前、本名(諱)は現代の実印みたいなもので滅多に使われず、公的な文書などに署名する際の名前、ということになるようです。中国の場合はもう少し違っていて、「名」は主君や師匠などが呼ぶときに使い、「字」はそれ以外の知り合いや同僚などが呼ぶときに使い、一般的には「官名」で呼ばれるという感じでしょうか。 現在では日本でも中国でも、通称とか字とかは使わなくなりましたので、だいぶ事情が変わってきていると思われますが、他人の名前を軽々しく呼ぶことに気後れを感じる感覚はまだ残っているような気がします。中国のことはよくわかりませんが、日本ではまだ相手を苗字で呼ぶのが普通でしょう。また苗字に役職名をつけて「山田課長」のように呼ぶとか、住所から「中野のおばさん」のように言うとか、そんな習慣が続いています。 それに対して、USAなどではジョンとかマークとか、すぐ名前で呼ぶようです。また名前呼びしないと堅苦しく思われるのでしょう。かつて司馬遼太郎氏はこの習慣を、 ──「個人」がたかだかと自立している気がする。 とえらく褒めていましたが、たぶんそんな高尚な話ではありません。歴史的に名前呼びに抵抗がないという、それだけのことでしょう。同じ英語圏である英国では、もう少し抵抗があるようで、何度も例に挙げていますがシャーロック・ホームズとジョン・ワトスン博士は、40年以上の交友期間中、ただのいちどもお互いをファーストネームで呼んでいません。彼らが家名(ファミリーネーム)にこだわって個人として自立していないとは、司馬さんも言わないのではないでしょうか。 ともかく欧米では、東洋ほどに人の名前に対してゆゆしさは感じていないのでしょうが、ただ「愛称」の存在を考えると、やはり本名というのはどこか堅苦しいという意識があるのかもしれません。 愛称は、われわれの言うあだ名とはちょっと違います。あだ名というのはその人の特徴などをとらえて他人が呼ぶもので、ときには本人にとってはあんまり面白くないものだったりします。苗字や名前を単純に変形したのもあだ名と呼ばれることがありますが、厳密には違うでしょう。たとえば苗字や名前の一部または全体に「っち」とつけるのはよくあります。私も本名の「イノマ」から「のまっち」などと呼ばれたことがありますが、こういうのはむしろ日本式の愛称と考えるべきかもしれません。 欧米の愛称の中にも、あだ名に類するものも無いではありませんが、普通は名前の略称であって、その略しかたもわりと決まっています。 そもそもあちらの名前は、聖書とか、神話などから採られるのが多くて、そのままでは堅苦しいということは当然あるだろうと思います。国によっていろいろ変形されますが、英語名で言えば、
などなど。だいたいファーストネームのことをクリスチャンネームとも言うくらいで、聖書ネタが圧倒的に多いのは当然でしょう。また有名な聖人などから名前を貰うこともよくあります(フランシスなど)。英語圏ではあまり好まれませんが、カエサルなどもフランス語圏(セザール)、スペイン語圏(セサ)などではよく使われます。 この中で、音節の少ないポールやマークなどは、比較的そのままで呼ばれることが多いと思いますが、かなりの種類が略称で呼ばれると考えて良いでしょう。英語では、名前はなるべく1〜2音節で済ませようという感覚が強いようで、3〜4音節ともなると長ったらしい印象になるようです。逆に日本人は3〜4音節、場合によっては6音節くらいの名前も普通にありますので、USAに行ったりすると変な略称をつけられたりします。ロナルド・レーガン元大統領と中曽根康弘元首相が「ロン」「ヤス」の間柄であったのは有名ですね。この「ヤス」は「Yasu」ではなく一音節の「Yas」であったと思われます。 この種の略称は、名前の音節のどれかひとつかふたつを選んでつけられます。最初の音節が使われることが多く、ジョゼフはかなりの頻度でジョーとなりますし、エイブラハムはエイブ、デイヴィッドはデイヴ、トーマスはトム、ベンジャミンはベンと略されるのが普通です。 女性名の場合は中間音節を使うことも多いようです。男性名アレクサンダーは4音節を持つ長い名前ですが、略しかたとしてはアレックスというのが大多数でしょう。しかしその女性形であるアレクサンドラになると、男性形と同じアレックスの他、第三音節をとってサンディという愛称もよく使われます。また第四音節をちょっと変形させてドーラという愛称もあります。 エリザベスというのも4音節を持つ女性名です。これは略しかたがもっと多く、第一音節を用いたエルまたはエリー、第二音節を用いたリズまたはリジー、さらに第三音節まで用いたリザやリサ、第四音節を用いたベス、ベッシー、ベティと、いろんな形で呼ばれています。 なお略したところに-yとか-ieとかをつけるのも、主に女性名にはよく見られます。サンディ、エリー、リジー、ベッシーのタイプですね。これは音節を増やす方向なので不思議な気がしますが、イタリア語などで見られる指小辞の名残りでしょう。たとえばジュリアという名前に指小辞-ettaとつけてジュリエッタとするたぐいです。これがつくと、「○○ちゃん」というニュアンスになるようです。ジョンの女性形であるジェインは一音節だけのシンプルな名前ですが、イタリア語っぽい指小辞をつけたジャネットと、英語化された指小辞をつけたジェニーという愛称があります。男性でも、ジョンがジョニーになったり、マイケル→ミック→ミッキーとなったりする例がありますが、この感覚からすると、ジョニーとかミッキーとかいう呼びかたは若干軽侮のニュアンスが込められているのかもしれません。まさに「○○ちゃん」なのです。 どこかの方言か何かで、発音が変わってしまった愛称もあります。ウィリアム→ウィル→ビル、ロバート→ロブ→ボブ、リチャード→リック→ディックなどの例です。これらはもともと舌っ足らずの印象が残るせいか、指小辞がつけられやすいようで、ウィリーやビリー、ロビーやボビーなどもよく聞きます。 任意の漢字をふたつ並べるだけで名前らしきものができてしまう日本人と違い、欧米人は名付けの元ネタが少ないために、同名が多く、それらを区別するために愛称が発達したのかな、とも思います。マダムに聞いたところ、フランスでは名付けの元ネタが法律で決まっているそうです。キラキラネームなどつけようがないのでした。 英語圏以外での愛称のつけかたにはあまり詳しくありません。上に書いたイタリア語での指小辞づけくらいです。 ドイツ語名で有名なのは、女性名アデルハイド(英語だとアデレード)の愛称ハイジ(正しくはハイディ)ですね。アルプスの少女の記憶が残る限りは知られ続けるでしょう。名前の後半のハイドに指小辞をつけてハイディとなります。ハイジがフランクフルトのゼーゼマン家に行儀見習いに行かされたとき、家庭教師のロッテンマイヤー先生から正式名のアデルハイドを呼ばれ続けてびびったり凹んだりするのでした。 仕事柄、音楽家関連のドイツ語名はよく知っているのですが、愛称としてどういう呼ばれかたがあるのかはよくわからないのでした。映画「アマデウス」で、モーツァルトがコンスタンツェから「ヴォルフィ」と呼ばれていたのを憶えていますが、ヴォルフガングの愛称化だろうとは思うものの、本当にそんな呼びかたがあったのか少々疑っています。何しろ、映画そのものはUSA製作なので。 ルートヴィヒなんてのは「ルー」とでも呼ばれていそうですが、そう呼ばれているベートーヴェンの姿はどうもピンと来ません。 シューマンの『謝肉祭』に「キアリーナ」という曲が含まれています。これはのちに彼と結婚したクララの愛称だったのだそうです。ただ、アッシジの聖フランチェスコに帰依した修道女が聖キアリーナと言い、これが他の国ではサンクレールとかサントクララとか呼ばれますので、愛称というより単にイタリア語読みということなのかもしれませんが。 ロシア語名の愛称はわりとわかりやすい気がします。名前の最初の音節を引き延ばして「ニャ」「シャ」などをつければ良さそうに思われます。ピョートルの愛称はペーチャ、アレクセイの愛称はアリョーシャ、ワレンティナの愛称はワーニャとなるのでしょう。プロコフィエフの子供向け音楽物語はよく「ピーターと狼」と表記されますが、私としては原語どおり「ペーチャと狼」として貰いたいところです。ロシア語名というのは英語名以上にネタが限られていて、そのため父称(ミドルネームのように真ん中に入り、父親の名前にヴィッチとかヴナとか添えたもの)まで呼んで個人を区別する習慣であるようです。ロシアの小説を読むと、たいていの人が登場人物の名前の長さに閉口するのですが、それは会話文中でも父称まで呼ばれているからだと思われます。いちいち「アレクサンドロ・ワシリーエヴィッチ」「エカチェリーナ・ニコライエヴナ」等々と書かれては確かにうんざりします。 最近編曲した『ラ・ボエーム』の中で、ムゼッタがアルチンドロに向けて「ルル」と呼びかけています。これは名前から採った愛称ではなさそうです。語調からすると、どうも日本語で言えば「ポチ」と呼んでるみたいな印象があります。ところで、ベルクのオペラに『ルル』というのがあって、こちらは自堕落な娼婦のあだ名となっています。日本語の語感ではルルというとだいぶかわいらしいイメージがあるのですが、欧米人の感覚では犬の名前みたいなものなのかもしれません。そういえば『ラ・ボエーム』のヒロイン・ミミも本名はルチアでした。自分でもなぜミミと呼ばれるのかわからなかったようです。
そういう、名前と無関係なあだ名も、あるにはあるようですが、法則性はよくわかりません。 アガサ・クリスティの初期の「バトル警視もの」である『チムニーズ荘の謎』『七つの文字盤』の両方に出てくるキャラクターで、モダンガールの侯爵令嬢アイリーンはなぜか「バンドル」というあだ名で呼ばれています。また同じく共通するキャラである政府高官ロマックス氏は、これまたなぜか「コダーズ」と呼ばれているのでした。コダーズというのは鱈(タラ)のことで、これは下僚から呼ばれている悪口らしいのですが、その由来は判然としません。バンドルのほうはそれ以上に謎です。こういうあだ名もあるのでした。 クリスティといえば、レギュラー探偵のひとりであるタッペンス・ベレズフォードもあだ名でした。本名はプルーデンスという、結構格調の高そうな名前なのですが、あだ名のタッペンスのほうは2ペンス銅貨のことでいきなり安っぽくなります。普通タッペンス銅貨のことはTwopenceと綴りますが、この女性は発音どおりTuppenceと綴るのが常で、それがシリーズ第一作『秘密組織』で大きな決め手となるのでした(ネタバレ御免)。 名前の略称でも、名前と無関係なあだ名でも、欧米人はむしろ愛称で呼ばれるのを好むところがあるかもしれません。上に書いたハイジ=アデルハイドの例もそうですが、愛称のほうを一般的な呼び名にしている人がけっこう居ます。ビル・クリントン氏はウィリアム・クリントンとは呼ばれたがらなかったでしょうし、ビル・ゲイツ氏も同様です。俳優やミュージシャンなどは、親しみを強調するためにか愛称や指小辞つき略称を多用する傾向がありそうです。 今回は主に英語名について考えてみましたが、他の言語の名前についても、もう少し調べてみたいと思っています。 (2020.6.26.) |