台湾の元総統李登輝氏の死去は、まことに惜しまれるものでありました。死因は誤嚥性肺炎であったようで、もう少しお気をつけておられればと思わぬではありませんが、まあ97歳というお齢を考えればやむを得ぬようでもあります。まずは大往生というところではなかったでしょうか。 最近は90超えで活躍している人がけっこう居て、マレーシアのマハティール氏なども90過ぎてから首相に返り咲いて意気軒昂です。政敵などから見れば妖怪のようにすら見えるかもしれません。その点、李登輝氏は総統の座から退いてからはすっぱりと政治から足を洗い、一私人として台湾の行く末を見守っていました。どちらが良いということでもありません。マハティール氏は後継者たちがあまりに中国になびいてゆくことに危機感を覚えて再出馬したのでしょうし、李登輝氏はご自身の成し遂げた立憲民主主義がきちんと台湾に根付いたことを実感していたから表に出なかったという違いであったろうと思います。 ご両人とも、アジアの傑出した指導者であったことには変わりが無く、ことに日本に対しては過褒と思われるほどに持ち上げてくれて、日本人の自尊心の回復を大いに支えてくれました。戦争中にアジアの人々にひどいことをしたというのが、80年代くらいまでの日本人の意識であり、日本の首脳などがそれらの国に行けば、まず謝罪から入るのがあたりまえだったのです。またそれを当然のごとく要求する国も近くには2つ3つありました。
しかし、もう謝罪は必要ないと最初に明言したのがマハティール氏でしたし、自国の発展がひとえに戦前の日本のおかげであったと宣言したのが李登輝氏でした。このお二方には、日本人として足を向けて寝られない想いです。
台湾という国は──私ははっきりと台湾は国であると考えています──、中国からは長らく「化外(けがい)の地」とされ、領土であるようなそうでもないような、曖昧な土地として扱われていました。オランダの統治下に入ったこともありますが、実際にはいくつかの港湾を支配しただけで、内陸部などには手をつけていないでしょう。九州と同じくらいの面積を持ち、急峻な山岳があり(富士山より高い山が3座もあります)、ほとんど全土が密林に覆われてマラリアなども猖獗していましたので、そうそう全体を統治下に置くということもできなかったはずです。 明末から清初にかけて、清朝の支配に抵抗する鄭成功などの勢力が、オランダ人たちを追い払って台湾を本拠にしたこともありますが、これも同様に、いくつかの街を支配しただけのことだと思います。その鄭一族も、やがて滅亡し、台湾はふたたび「化外の地」に戻りました。しかし、一時的にせよ鄭一族が本拠地にしたということで、なんとなく台湾は「中国のもの」という感覚になったようです。
中国は伝統的に、国境というものに関する意識が低く、全世界が「天子」たる皇帝のものだと考えています。ただその皇帝のいます場所から遠ざかると、自然の勢いとして「文明」から離れることになり、皇帝の直接統治が届かなくなるので、そういった場所については夷狄の首長に王位を授けて代理統治させるという建前になります。中国における国境というのは、そこから先は別の国になる区切りの線といったものではなくて、もっとふわっとした、グラデーション的に存在するものでした。
現代の感覚としてわかりやすい喩えを挙げると、たとえば「首都圏」というような概念がそれにあたりそうです。「この線のこっち側は首都圏だけど、こっちは違う」というようなことは言えないわけです。「関東地方」というくくりとはまた違っていて、たとえば関東地方である群馬県や栃木県の奥地に行って、そこが「首都圏」であるかと考えれば、何か違うとはだれしも思うのではないでしょうか。逆に、関東地方には含まれない熱海とか大月あたりでも、なんとなく首都圏である気はします。 中国という「国」ではなく、「中華圏」という同心円的な領域があったというのが、古来の中国の感覚でした。 中国が唯一の大国であった明の中期くらいまでは、それで通っていました。 しかし、清に至って、西洋各国と交渉しなければならなくなり、そうも言っていられなくなりました。また北方にはロシアの勢力が伸びてきて、それまでの北方民族とは違ってしっかりと国境の策定を求められ、唯我独尊の中国も、国境という「線」を考えなければならない事態になってしまったわけです。 とはいえ、国境が「線」ではなくもっとふわっとしたグラデーション的なものだという感覚は、現在でも失われていないような気がします。中国が至るところで国境紛争を惹き起こしているのはたぶんそのためです。南シナ海での東南アジア各国を向こうに廻した傍若無人ぶりはもちろん、最近ではインドとの国境で死者が出るほどの紛争を起こしたり、ブータンの一部を突如として自国領だと主張しはじめたりと、見境なく国境を引き直しつつあります。これらは、グラデーション的な国境があって、自分らの力が及ばないときは内側に引き、強くなったら外側に押し出すという古来の感覚を、そのまま保っているからに違いありません。世界の国々は、国境とはそんなものではないんだよ、ということをまず中国に教え込むことからはじめるべきなのかもしれません。そういう「国際的常識」を、中国首脳部はあんがい本当に「知らない」可能性があるのです。 それはともかく、中国がはじめて他国との「国境」を意識したのは清朝のときでしょうが、台湾についてはまだふわっとした感覚のままでした。台湾海峡に「国境」があるのか、「国境」の内側に台湾島があるのか、明確な規定はされていなかったと思われます。つまり台湾というのは、清朝の「領土」ではなくて「版図」と言うべき土地だったと言えましょう。 しかし、それをはっきりしなければならないときが訪れました。牡丹社事件の勃発です。 1871(明治4)年、暴風雨で台湾に漂着した宮古島の島民54名が、原住民(牡丹社と呼ばれる部族)に殺害されるという事件が起こりました。これに対し、日本政府は直ちに清朝に対し賠償を求めました。ところが、清朝政府は言を左右にして賠償金を払おうとしなかったのです。その理由は、台湾は清朝の統治下には無い「化外の地」だから、というのでした。ウチの国民とは認めていない輩が起こした事件だから、ウチには責任が無い、従って賠償金を払う筋合いではない、という論理です。
しかし19世紀後半という時代においては、清朝政府の責任逃れは、日本に対して格好の言質を与えることになりました。台湾の住民が統治下に無いというのは、言い換えれば台湾が清の「領土」ではないと認めたのと同じことになります。すでに時代は、「なんとなく影響下にある」という「版図」のようなあいまいな観念を許さなくなっていました。この時点で台湾は「無主の地」と見なされたのです。 日本は清朝の言質を取ったのち、1874(明治7)年に台湾に出兵して原住民を制圧しました。戦死者は少なかったようですが、それをはるかに上回る病死者を出した点、あまり褒められた軍事行動とは言えません。しかし明治日本がはじめておこなった海外への出兵で、できたばかりの海軍の実力を試す好い機会だったとも言えるでしょう。 清朝は、あくまで賠償は拒みましたが、犠牲者への見舞金という形で10万両を支出したそうです。また、台湾のインフラ整備という名目で40万両の予算を組んだようですが、はたしてそれが全額執行されたのかはわかりません。ともかく、遅ればせながら台湾を領土だと主張しておかないとヤバい、とは考えたようです。
しかし、その20年後、日清戦争の帰結として、台湾は日本領ということになりました。その20年間に、清朝政府が台湾のインフラ整備を大いに進めたとはどうも考えられません。台湾は、日本領となってからようやく本格的に開発されたのです。 日本人は、大変な熱暑と疫病の蔓延に苦しみながら、密林を切り開き、鉄道を敷き、近代的な街を造ってゆきました。原住民との戦闘もかなりあったようです。原住民たちをいきなり「近代」に放り込んだことが良かったかどうかはわかりませんが、ともかく歴史上はじめて、台湾は統一された政権のもとに統治されることになり、疫病も減り産業も興りました。精糖などの大きなプランテーションが導入されて、島はどんどん豊かになり、大学まで作られました。朝鮮半島と同じく、日本は「植民地」としてではなく、「自国の国土」として台湾をきめ細かく整備したのでした。 これを台湾の原住民の側から見れば、いきなりやってきて支配されたという悔しさやわずらわしさは当然あったことでしょうが、それ以前に中国の歴代王朝の支配を受けていたという実感はまったく無かったでしょうから、「国」というものに属する気分(安心感や便利感、それとないまぜになった鬱陶しさや面倒くささなどを含めて)をはじめて味わったことになりそうです。 台湾が日本統治下にあったのはほぼ半世紀です。朝鮮よりも15年ばかり長いわけですが、朝鮮がその後も日本への反感を隠しもしていないのに対し、台湾がさほど「反日」でも無いことを説明する際、この15年の差を挙げるのはあまり適当とは思えません。自前の王朝を長く持っていて、その統治こそ「当然」と思っていた朝鮮人の感じかたと、日本による統治がはじめての「国家体験」であった台湾人の感じかたは、違っていてしかるべきだと思います。 台湾は、日本の本土同様の、清潔で近代化された土地として、運命の1945(昭和20)年を迎えます。
日本は戦争に負け、それまでに他国から獲得していた領土を返還させられます。台湾も、その当時の中国の正統国家と見なされていた中華民国に返されることになりました。本当は台湾は中華民国から割譲を受けたわけではなく、満洲人王朝である清朝から譲られたものですので、中華民国に返還する正当性がどのくらいあるものか、法理的に見れば少々あやしいようでもありますが、とにかくGHQが返せと言ったので返さなければなりません。 それで台湾は一転して中華民国の統治を受けることになったわけですが、民国政府も国共内戦のさなかではあり、数年間は台湾を顧みる余裕もありませんでした。 しかし1948年、内戦に決着がつき、共産党に敗北した国民党が、軍官ひっくるめて大挙して台湾に逃げ込んできたのでした。共産党は中華人民共和国という国家を起ち上げ、台湾も当然自分たちの領土であると主張しましたが、中華民国の残党である国民党もまた中華国家の正統性を主張し、いまは台湾に逼塞しているけれども将来かならず大陸の全土を支配するという意気込みを示しました。 国民党は、大陸の共和国と対峙しつつ、台湾に残る日本の影響を排そうと努めました。たくさんあった神社を壊したり、日本人功労者の銅像などを撤去したり、学校では日本統治時代を悪く言う教育を施しました。ただこれは、新しい統治者が前代の統治者をけなすという中国歴朝の習慣に則ったものであり、朝鮮(韓国)の反日感情とは意味合いが違っています。子供たちは、学校では日本の統治はひどかったと教わりましたが、家に帰ると「日本のほうが良かった」と嘆く両親や祖父母の言葉を聞いて育ったわけです。
日本が退場して国民党の統治下となったことについて、台湾では、 「犬が去って豚が来た」
という言いかたがはやったそうです。これ、「日本人のことを犬程度にしか見ていなかった」とか「そうではない、犬は吠えたり咬んだりするが泥棒よけになるけれども、豚はただ食い散らかすだけだ」とかいろいろ解釈されていますが、私はそれほど含みのある表現ではないだろうと思っています。これは単純に「のらくろ」になぞらえただけでしょう。 田河水泡のこの大ヒットマンガは、もちろん戦前の台湾でも広く読まれていました。「のらくろ」では、主人公の属する「猛犬連隊」が常に日本軍の戯画化として描かれており、それがいろいろ別の動物の軍隊と戦ったりします。シリーズの中の「のらくろ総攻撃」という長編が日清戦争をモデルにしており、その物語の敵役、つまり清朝軍に相当するのが、豚勝(とんかつ)将軍率いる豚の軍団なのでした。ちなみにこのマンガではロシアがクマ、朝鮮がヒツジとして描かれています。「犬が去って豚が来た」という言葉は、「猛犬連隊(日本)が去って豚勝将軍(中国)が来た」というだけのことだと私は思っています。 とはいえ、国民党が台湾を食い散らかすだけの豚のような連中であったことは確かだったようです。日本の統治を半世紀受け、近代国家とはそういうものだと思っていた台湾人(本省人)たちにとって、軍閥の大きなものであったに過ぎない国民党の支配は、いろいろな意味でがっかりするものであったでしょう。
李登輝氏は、22歳まで「日本人」として育ち、その後「中華民国人」となったわけですが、あれこれ思うところはあったに違いないにせよ、篤実な学者として頭角を現し、蒋介石の息子の蒋経国に認められます。蒋経国は弟の蒋緯国や継母の宋美齢と仲が悪く、そのせいもあってか 「私の一族には政権を継がせない」 と広言し、権力の世襲を自分の代で断ち切ろうとしました。李登輝氏はその有力なコマであり、経国氏の死に際してあとを託されました。 それから、わずか10年かそこらで、李登輝氏は国民党の大掃除をおこないます。40年間無為徒食で議員の地位にあった連中をすべて叩き出し、大陸全土を支配することを前提として構成されていた憲法を台湾島統治というスケールに適したものに書き換え、そして台湾ではじめての民主的な投票による総統選挙を実施したのでした。これは中華民国のゴッドマザーとも呼ぶべき宋美齢がUSAに移住してくれたおかげでもあったでしょう。毛沢東夫人江青は、だいぶ国に迷惑をかけてから亡くなりましたが、蒋介石夫人宋美齢はさすがに晩節をまっとうした感じです。 たぶんこの国民党改革時期であったか、NHKで奇妙な番組がありました。その頃、台湾の若者で日本文化びいきな連中が増え、「哈日族(ハーリーツー)」などと呼ばれていました。「ニッポン大好き族」というような意味です。日本のマンガやアニメなどにハマり、原語で視聴するために日本語を勉強するなど、日本人から見てもびっくりするような若者たちが急増したのでした。 その頃のNHKも、日本人はアジア各国で嫌われているはずだというスタンスでしたから、この現象に首をひねったようです。それで、台湾人のひとりの中学校教師を主人公にして、ドキュメンタリー番組を作ったのでした。この教師は国民党の反日教育を受けた世代で、基本的には日本に批判的な女性でした。その教師が、哈日族の生徒たちと向かい合って戸惑う、という話です。 彼女は生徒たちに、日本はそんなにいいところばかりの国ではない、とたしなめるのですが、のれんに腕押しみたいな感じで、ちっとも通じません。NHKのカメラは、さらに生徒たちの家庭にも入り、年寄りの証言をとったりしています。
全体として、なんとも中途半端な、何を言いたいのかよくわからないドキュメンタリーになっていました。私が思うに、NHKの意図としては、台湾の大人たちはみんな日本統治でひどい目にあっているはずだから、反日的な言葉が多くなるだろうと踏んでいたのでしょう。しかしあにはからんや、お年寄りたちはむしろ日本統治時代を懐かしむようなことばかり言うので、あてが外れたというところではないかと思います。 「日本人はたいへんに厳しかったが、しかしとても親切にいろいろ教えてくれた」 というような話ばかり出てきたのでした。そういうお年寄りたちと、哈日族の子供たちのあいだにあって、主人公の女性教師が浮いてしまう感じの番組になっていました。いまだに、あれは何を言いたい番組であったのかと思い出したりしています。
民選の総統となった李登輝氏は、もはや日本びいきであることを隠すこともなく、大陸中国と距離を取る方向へ舵を切りはじめました。自分たちは「中国人」ではなく、「台湾人」なのだと、大きな声で堂々と主張したのです。 共産党の中華人民共和国からすれば、これは自国の領土内で独立を目指しているわけで、当然ながら許せることではありません。ただ共和国が、台湾をただのいちども実効支配したことがないというのは、国際的に見れば大きなデメリットです。 共和国は、かつて「版図」に過ぎなかった地域を次々と自国の「領土」と言い張り、それに反対する現地住民らを弾圧したりしています。チベットもウイグルも内蒙古もみんなそうなっています。いずれも、清朝時代に「版図」となった地域で、影響下にはありましたが実効支配したことはありません。近代的な国家観で「固有の領土」などと呼べたところではないのです。 台湾も同様な地域と見なすべきでしょう。清朝の「版図」であった地域であり、その後継国家を名乗る共和国として「領土と言い張りたい」ところなのです。 かつての中華民国は、台湾一島に逼塞しつつ、大陸中国全体の支配権を主張していましたから、これはひとつの器にふたつを盛ろうとするようなもので、お互い一歩も退けなかったでしょう。しかし現在の台湾は、もう大陸進出の野望を捨てていると言えます。大陸に戻らなくても、台湾の住民は幸せなのだと、李登輝氏がはっきりと宣言したのでした。 だから、あとは中華人民共和国の態度ひとつです。変なメンツにこだわらずに台湾を放棄すれば、国際社会は喝采するでしょうし、自分たちも難題をひとつ解決できるというものです。 しかし、放棄は決してしないでしょう。台湾の独立を認めれば、なぜ同じ立場であるチベットの独立を認めないのかということにもなり、ウイグルはどうなのだ、内蒙古はどうするとなって、収拾がつかなくなるからです。 台湾のほうも、そろそろ中華民国という国号を捨てて良いように思います。そんな国号を後生大事に名乗っているから、スポーツ大会などで「チャイニーズタイペイ」などと屈辱的な呼ばれかたに甘んじなければならないのです。「台湾共和国」で良さそうなものです。はたして台湾の住民のうち、自分が中国人だと思っている人と、中国人でない台湾人だと思っている人と、現在はどちらが多いのでしょうか。 このところ、中華人民共和国との仲が悪くなったUSAが、台湾を急に持ち上げはじめました。軍事同盟でも結びそうな勢いです。韓国があてにならなくなってきたので台湾に着目したということもあるでしょう。まあ、USAの思惑に振り回されるのもいかがなものかとは思いますが、USAが台湾を「国」として認めるようにでもなれば、ずいぶんと世界が動くのではないかという気がしています。 特に日本は、総統の座から下りたのちの李登輝氏が来日するのを、大陸中国に忖度した政治家や官僚が邪魔するという、きわめて恥ずかしい真似をかつておこないました。東日本大震災のときに台湾がいちはやく莫大な寄付金を届けてくれたのに民主党政府は礼も言いませんでした。民主党だけが悪いのではなく、自民党政府だってつい去年(2019年)の即位礼正殿の儀に招待状を出していません。ことごとく「中国(共産党)を刺戟するのではないか」という一点で、台湾には非礼を続けています。自分の国がそういう非礼をあえてしているというのは、国民としてはやりきれないものがあります。 李登輝氏は、日本びいきではありましたが、現在の日本の至らないところについては厳しい直言をいとわなかった人物でもありました。そういう人物に、胸を張れる日本であって貰いたいと思う次第です。 ともあれ、ご冥福をお祈りいたします。
(2020.8.3.)
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