NHKの朝ドラこと「朝の連続テレビ小説」の「エール」が終わったようです。私はあまり見ていなかったのですが、マダムが毎朝録画してまで見ており、しょっちゅうその回の内容を私に伝えてきていました。マダムは相手があんまり興味無さそうでも平気で話を続けられるたちで、幼稚園児の頃、それこそまったく興味が無さそうな通園バスの運転手に、蜿蜒と前夜の「ザ・ベストテン」の話をしまくっていたそうです。普通、相手が興味無さそうだと、話す張り合いも無くなってやめてしまうものですが、その点マダムは神経がタフなのでした。 そんなわけでしばしばストーリーを教えられていたし、マダムは録画した朝ドラをすぐ隣の部屋で見ているので、作業中の私の耳に音声が入ってきたりもします。それで大体の物語は理解できていました。 作曲家・古関裕而をモデルにしたドラマ、ということは開始前から宣伝され、私もよく知っていました。このあいだ、ちょっと過去の朝ドラを調べる機会があって気がついたのですが、朝ドラは私が思っていた以上に、実在人物をモデルにした話が多かったようです。ただ名前などは微妙に変えてあって、古関裕而にあたる主役は古山裕一という名前になっていました。こういう場合実名でも良いような気がするのですが、視聴者から「事実と違う」というクレームがつくのを警戒してのことなのかもしれません。 「いや、あれはあくまで本人をモデルにしたフィクションですので、ドラマ内容が事実と違っている場合も当然ありますよ」 と言い訳が言える余地を残しているのでしょう。 ただ、作曲家をモデルにしたというのははじめてのケースであったようですから、その言い訳がやや苦しい気もします。 例えば去年の上半期にやっていた「なつぞら」では、ヒロインのモデルは女性アニメーター奥山玲子さんでした。この人は、「アルプスの少女ハイジ」のキャラクターデザインをした小田部羊一氏の奥さんなのですが、前半生などは完全にフィクションになっていたようです。後半、アニメに関わりはじめてからはかなり事実に即していたようですけれども、彼女が制作にたずさわったアニメは、題名なども実際のものとは微妙に変えられていました。肝心の「ハイジ」についても、原作が「大草原の小さな家」である架空のアニメということになっていたのでした(もっとも、「大草原の小さな家」を原作とした「草原の少女ローラ」というアニメは過去に実在しています。キャラデザがUSAのドラマの役者とそっくりであったのには笑いました)。そのための部分的なオリジナルアニメも制作されたようです。 その前の「まんぷく」は日清食品の創業者安藤百福をモデルにしていましたが、ドラマの実際の主人公である百福夫人については公的にほとんど知られておらず、資料も無く、ほぼ架空の人物として作り上げられていました。 このように、実在人物をモデルにしつつディテールにはかなりの虚構を混ぜるというのが朝ドラの基本スタンスであるようですが、その人物の作品とか製品についても、事実とはちょっとずらした名称や内容のものにすることが多かったように思います。 しかし、劇中の古山裕一氏が作曲したとされるさまざまなメロディは、まごうことなき古関裕而氏の作品であり、しかもそのことは多くの視聴者が知っているわけです。それがドラマの中とはいえ、名目上は別人の作品とされてしまうのはいかがなものだろう、と私などは考えてしまいます。「長崎の鐘」も「君の名は」も「栄冠は君に輝く」も、誰がどう間違えようもなく古関裕而作曲なのであって、ドラマの都合で古山裕一なる得体の知れぬ人物が作曲したことにされてしまうのは、本人が生きていたらあまり良い気分のものではないように思えるのです。 これが作家であれば、作家の名前を少し変えるのなら作品名のほうも少し変えて、文章も若干似て非なるものにする、という程度の操作はわりに簡単にできるでしょう。いっそのことドラマ中では具体的な文章は一切出さないということも可能です。上記のとおり、アニメ作品でもそういうことができました。美術関連でもそう難しくはないでしょう。 ところが作曲家の場合、作品のタイトルを少し変えて、メロディを似て非なるものにする、というのは難しい気がします。昔の大ヒットメロディと似て非なるメロディを現在の作曲家が無理に作ったとしても、おそらくはなはだ痛々しいことにしかならないでしょう。と言って、テレビドラマで作品の音を全く聞かせない、というわけにもゆかないでしょう。他のジャンルならさほど苦労せずにできることが、作曲というジャンルではどうも困難であるようです。 そこまで考えて、ずいぶん昔にやっていた「マー姉ちゃん」のことを思い出しました。「サザエさん」の作者長谷川町子のエッセイマンガを元にしたドラマで、主人公は町子さんのお姉さんの毬子さんになっていました。この人は姉妹社という出版社の社長をやっていた人で、その姉妹社というのは、町子さんの作品の単行本を刊行するだけのために起ち上げられた会社です。「サザエさん」のほか、「いじわるばあさん」「似たもの一家」「新やじきた道中記」「エプロンおばさん」など私も姉妹社の本はいろいろ愉しませて貰いました。 ドラマの中では、ちゃんと「サザエさん」が描かれていました。しかもドラマのために長谷川町子さんが描き直したらしく、はじめの頃の頭身の大きな画風(後年、「ニセ本が出ている」と読者から報告されたらしい)だったはずのネタが、のちの3頭身くらいの絵になっていて、思わず笑ってしまいました。 なお、ドラマの中での役名は、やはり微妙に変えられていました。長谷川姓ではなく磯野姓となっていたのでした。もちろん、磯野というのは作中人物であるサザエさん一家の苗字です(ちなみにサザエさん自身はマスオさんと結婚してフグ田という苗字になっていますが)。そして、毬子さん町子さんは、マリ子・マチ子と表記を変えられていました。 さて、ドラマの中では長谷川町子ならぬ「磯野マチ子」なる人物が「サザエさん」を描いたことになっていたわけですが、状況としては古関裕而≒古山裕一のケースと似ているようでもあります。ただ、このドラマが放映されたときにはまだ長谷川町子さんは存命で、原作者の諒解のもとにちょっと変えてあるのだな、ということが誰にでもわかったであろう点、それほど問題は無かったのかもしれません。 これが物故者の場合、モデル当人の諒解を得ずに名前を変えた作中人物が、作中で当人の作品を制作したことにするのは、うるさいことを言えば著作人格権の侵害になってしまうのではないかと、いくぶん気になってしまうのでした。 なお著作人格権というのは普通の著作権とは少し違います。例えば、学校の校歌とか、自治体の市民歌とか、そういう種類の曲は、演奏されるたびに著作権料がかかるのではたまりませんので、たいていは著作権買い取りという方法を執ります。これにより、作詞者や作曲者は自分の著作権を放棄したことになり、校歌や市民歌がどこで何回歌われてもお金は入りません(その分、最初の作詞料や作曲料は通常より高額になることが多いのですが)。著作権はその学校なり自治体なりが持つことになります。しかし、その場合でも著作人格権は失われないというのが法的な判断です。つまり、作詞者や作曲者の名前を変えたり、あるいは表記しないまま印刷物に載せるということは許されないわけです。著作権とは違って、著作人格権には金銭の授受はからみませんけれども、侵害された著作者が訴えれば慰謝料だか賠償金だかを払わなければならなくなります。 まあ、相続者がOKを出せば良いのでしょうから、古関裕而氏の場合はご子息の正裕氏などが許可すれば問題は無かったと思われますが、どうも同業者としては消化不良な気分です。 実在の作曲家をモデルにした主人公の物語というと、すぐに思い浮かぶのはロマン・ロランの大河小説「ジャン・クリストフ」です。よく知られているようにこの小説はベートーヴェンをモデルにしていると言われ、確かに大酒呑みで息子にスパルタ教育を施す父親と、気は優しいけれどもそんな夫に物申すことのできない母親などの人物像はそっくりです。大人になってから移り住んだのがウイーンではなくパリということになっているのは、作者がフランス人であった関係でしょうか。 その他、社会主義運動に参加してお尋ね者になるなど、実在のベートヴェンとはだいぶ違ったところもあり、全体としてはフィクションと言えます。登場人物の名前も、古関裕而を古山裕一に変えたみたいなあからさまなことはしておらず、主人公をはじめとしてモデルとはまったく違ったものになっています。 作品名もベートーヴェン自身のものは用いていません。クリストフの出世作となった「ダビデ」という作品に、何か作者がイメージしていた曲はあったのでしょうか。たぶんそういうことではなく、作者はベートーヴェンの「精神性」をモデルにしたというところなのだろうと思います。 ロマン・ロランはベートーヴェン本人の伝記も書いており、その執筆を通じてあれこれと考えたことを大河小説にふくらませたのだと思われます。だから、いわゆるモデル小説のつもりで「ジャン・クリストフ」を読むと、いささか騙されたような気がするかもしれません。 いずれにせよ、小説の場合だと、実際に音を鳴らす必要が無いので、現実には存在しない「名曲」を主人公に作曲させるのも想いのままでしょう。それを映画化したりドラマ化したりするときに困るだけの話です。 「のだめカンタービレ」では、ピアノコンクールの課題曲として、架空の作曲家の架空の作品が設定されています。アニメ化するときだかドラマ化するときだか、この曲は私の先輩の大澤徹訓さんにより現実に作曲され、サントラCDなどにも収録されました。これはわりと珍しいケースで、フィクションの中での課題曲というのは、たいてい有名どころのクラシックが使われます。音楽家の立場からは「そんな曲、普通は課題曲にしないから!」とツッコみたくなるような曲であることが多い気がします。 世の中には、音楽映画というのがあって、その中には作曲家を主人公にしたものも珍しくありません。モーツァルトとサリエリを主人公にした「アマデウス」、シューベルトを主人公にした「未完成交響楽」、ショパンになるとたびたび扱われており「楽聖ショパン」「別れの歌」「愛と哀しみの旋律」など。瀧廉太郎を主人公にした「わが愛の譜(うた)」なんてのもありました。これらは実名で登場させていますので、映画の中で当人の作品が流れれても不自然さはありません。ただ、おそらくこんなことは実際には無かったろうなあ、というエピソードがしばしば使われるのはやむを得ないことでしょう。万が一私が後世に映画で扱われたりしたら、きっと「わが愛の譜」に出てきた鷲尾いさ子みたいな悲恋の相手が「創作」されるんだろうな、と妄想したことがあります。 ともあれ、映画にしろドラマにしろ、映像作品の中で実在の作曲家を扱うのは、なかなか大変なのではないか、と思った次第です。「ヴェニスに死す」に出てくる、美少年に惚れてしまう作曲家は、マーラーをモデルにしていると言われますが、あの程度に──匂わせる程度にとどめておくのが、実はいちばん妥当な方法なのかもしれません。 ところで、私はいちどだけ古関裕而氏にお目にかかったことがあります。10歳くらいのことであったかと思いますが定かではありません。先生は世田谷区の代田に住んでおり、私のいまの実家にごく近いのでした。その頃は祖父の家でした。なぜお訪ねすることになったのかもよく憶えていないのですが、その少し前に私の父がしばらくペルーの山奥に滞在していて、本来の仕事とは別に、現地の民謡などをいくつか採譜してきたのを、先生が人づてに聞いて、拝見したいとおっしゃったのだったかしら。
で、すでにピアノ曲などを作曲していた私も連れて行って、ちょっと見て貰おうとしたのではなかったかと思います。 楽譜ノートを持って行って、応接室のピアノで、少しだけ自作の曲を弾いたような記憶があります。「エール」では「音」という名前で登場していた奥様の金子(きんこ)さんが、 「あらあら、うちのお弟子さんたちより書けるんじゃないかしら」 とお世辞を言ってくれたのは確かに耳に残っています。古関先生ご自身がどう言ったかは、私の記憶にはありませんでしたが、この前父に会った時にその話が出て、 「『実際に書いているところを見ないと、とても信じられないねえ』と言われたよ」 とのことでした。 結局、特にレッスンをしてくれるといった話にもならずに先生宅を辞しました。その5、6年後くらいに奥様が亡くなり、さらに9年後に古関裕而氏自身も幽明境を異にされました。ごく一瞬と言って良い邂逅でしたが、誰か私の伝記でも書いてくれる奇特な人が居れば、幼少時のエピソードとして使えそうなネタではありますね。 (2020.11.29.) |